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第13話 別れの朝

「お疲れ様」  楽屋で羽織に着替える峰山を見ながらそう呟く。あっというまの一時間だった。今も重吾と乙一の姿が頭の中で浮かび上がるほどに舞台に見入っていた。 「明日は休みだからな。はやく風呂に浸かって休まないとな」  そう言うと、ほらと片手に何かを置いてきた。桜色の丸みを帯びたそれをまじまじと見つめる。 「物欲しそうにしてただろ。それ。今日開けたばっかだからすぐ食えば問題ないだろう」 「あ、ありがとう」  舞台で実際に使われた桜餅をズボンに入れる。着物を整えていると、花房に声をかけられた。 「どうだった? ちょっと後半は妖怪じみてたけど、大丈夫だったかな」  物語を書くのは座長の仕事だと峰山から聞いていたので、率直に感想を述べる。 「面白かったです。終わり方がすごくスッキリしてました」  よかったとはにかみながら花房が頭をかく。汗でじんわりと濡れた肌着が妙に色気を出しているのでそっと目をそらす。 「保ー。こっちを頼む」  はい、と返事をして峰山の元へ向かう。いつのまにか、朝の気まずい気持ちは薄れていた。芝居を見て頭がそれでいっぱいだったからかもしれない。化粧を拭って素顔になった峰山と対面する。その横顔は凛としていていつ見ても綺麗だと保は思った。  それから三ヶ月の月日が経った。保は峰山の身の回りの世話をしながら、ここ三ヶ月の出来事に思いを馳せる。この人とも今日でお別れか。しみじみとそんなことを考えながらいつものように朝風呂に浸かっていると、タイミングよく峰山が現れた。 「おはよう保」  この女体のような体も見慣れたものだ。それを見て恥ずかしがることもなくなった。あの日、体をいじられたあとは何もされていない。役作りのためだと言っていたから、もう保のことは用済みなのだろうと思っていた。 「今日の昼にここを発つよ」  二人きりの浴室の中で峰山が言葉を発した。それを静かに受け止める。 「長いようで短かったすね」  気づけば、初めて出会った頃と同じように話せる自分がいた。ちゃぷん、と湯船が揺れて峰山が体を沈める。その顔がいつもと少し違った。 「寂しくなるな。この風呂とおさらばなんて」  そっちかよ、と保は肩を落とす。てっきり、俺との別れを寂しがってくれるんじゃないかと期待していた。 「一年は十二ヶ月あるだろう。そのうちの三ヶ月ずつ、俺たちは全国を回るんだ。だから次に会うのは来年になる」  自身の腕をさすりながら峰山が呟いた。そうっすか、と答えるとすいすいとこちらに近づいてくる。 「三ヶ月間楽しかったよ。おまえのおかげだ」  ぺしっと頭をタオルではたかれる。水滴が顔に当たった。 「悪戯しちまうこともあったが、許してくれよ」  あの日のことを言っているのだろう。保は首を振った。 「気にしてない。役作りのためになったなら別にいい」 「最後まで可愛くないな、おまえ」  そう言ってふっと笑った顔が、椿の花のように艶やかで目を奪われる。この人は人気の役者で、俺はただの旅館の一アルバイト。一学生にしかすぎない。貴重な体験をさせてもらったなと思っていると、不意に肩を掴まれた。 「来年もここで待っていてくれるか?」  その目が真剣で、ゆっくりと保は頷いた。ここしか自分の居場所はないんだ。地元の大学を卒業したとしても、ずっとここで働いている自分の姿がありありと思い描ける。 「来年もたくさんお客さん連れてきてくれよ」  精一杯の別れの言葉だった。風呂を上がっていく峰山の姿を見送って、はたと気づく。視界が揺れていた。ぼとぼとと頬を伝う何かに目を疑う。泣いている。この俺が。  猛烈な台風が襲ったのは、十年前のあの日だった。十歳の保は父と二人で暮らしていた。祖父母がこの土地に残した平家造の大きな家に住んでいた。他愛もない親子の二人暮らしを襲った台風は、二日後にはどこか遠くの空に消えてしまった。大きな傷跡だけを残して。保一人をこの土地に置き去りにして。  父の葬儀に参列した今の旅館のオーナーは、父の小学校からの親友だった。家と父親を失った保にオーナーはこういった。 「三食温泉付きのおじちゃんの家で一緒に暮らそう」  途方に暮れていた俺を助けてくれたのがオーナーだった。住み込みで働いている従業員用の一室を保に与えてくれた。  それ以来、旅館の手伝いを積極的にしてオーナーからも他の住み込みのアルバイトからも可愛がられ保は成長していった。たまに父親を思い出して悲しくなることはあっても、涙を流すことはなかった。  大学に進学するときも、渋る保をよそにオーナーは学費を出してくれた。出世払いでいいからと無理やりお金を出してきたのを今でも保は忘れていない。  だから自分が今涙を流していることが不思議でたまらなかった。湯船に涙が入ってはいけないとすぐに出て、木でできた風呂椅子に座る。頭からシャワーを浴びた。  脱衣所に行くとそこには峰山の姿はなかった。代わりに、走り書きのメモが保の服の上に置いてあった。 『保へ   短い間だったがほんとうに助かった。  また来年もよろしく頼む。  俺は携帯を持たない主義だったが、おまえと連絡をとりたくてわざわざ携帯ショップに花房と行った。裏に電話番号を書いておくから、何かあったら電話してこい  峰山幸太郎  じゃあな。保。楽しかったよ』  すぐさま服を着て髪も乾かさず大風呂を後にする。玄関まで走っていった。書き置きを残していったということは、もう話す機会がないということ。きっと昼に発つというのは嘘だ。  今ならまだ間に合うだろうか。そんな思いで下駄を突っ掛けながら外に出る。見れば、マイクロバスが発車するところだった。電光版には、「劇団うるは」と書いてある。窓がスモークガラスになっているため、中を見ることはできない。それでも、保は手を振った。ゆっくりとバスが発進していく。両手で大きく手を振りながら、峰山のことを思った。    バスの姿が見えなくなるまで見つめていると、いつのまにか後ろに立っていたオーナーに頭をわしゃわしゃとかかれる。 「保。朝飯の時間だぞ」 「オーナー……」  涙で歪む視界を拭いて、朝食の準備をするために食堂へ向かう。配膳をしていると、たまたま目があった田代がぎょっとしてその手を止めた。涙で赤くなった目元を見たのだろう。保はへらりと笑った。田代は何も言わずに小皿を置いてくれた。  一日の業務を終え自室に戻る。大切に折りたたんでおいた峰山からの書き置きを机の上に置いた。裏面を確認してすぐさま自分のスマホに電話番号と名前を登録する。  保にとって峰山は兄のような存在になっていた。過激な悪戯をされたものの、大きな舞台に堂々と立つ峰山を見て憧れと尊敬の念を抱いた。父親と二人で暮らしていた頃と似ていた。保が何か言えば冗談めかしく父が笑って返事をする。そんななんでもない日常を思い出していた。

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