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第9話

 雪丸が小学6年生の時、母親が病気で亡くなった。家を支えていた母が抜けた穴は大きかった。それは感情的な理由もあれば、現実的な理由もある。  母が亡くなって初めて父親と二人で生活していくことになった時、家事分担のルールを決めた。洗濯と風呂掃除は雪丸、家の掃除と買い物は父親。そして一番難関の料理だけは、どちらもできなかったので当番制といったように。  雪丸はこの頃に泥だらけの練習着の洗濯がいかに大変かを思い知り、亡き母に初めて本気で感謝した。  友達と遊んで帰っても、母の美味しいご飯はない。父親の味気ない飯があるか、自分が作らなきゃいけない義務があるだけ。  生きるのって面倒だなと雪丸は道慈にこぼしたことがある。   「飯食うのも、野球も、なんか全部だりぃな」  道慈のベッドに寝転がりながら雪丸はぽつりとこぼした。天井の模様を目で辿りながら、ボールを真上に投げてはキャッチする。ジュニアと比べて少し大きな球は、道慈が中学に上がる前に慣れておくためにと買ったものだった。 「お前母さんの飯好きだろ」  道慈がノートから顔を上げた。 「はは、そりゃ京子の飯は美味いもん」  雪丸の父親の飯はいつも同じ万能調味料の深みのない味がする。雪丸の飯は父親ほどではないが、なぜかあまり美味しく感じない。2日も3日も作るのが面倒で、大量に作って冷蔵保存するから飽きてしまう。  最近は父親が残業がちになり、食卓を共にすることも無くなっていた。食卓の上を片付けるのが面倒でキッチンで立ったままご飯を食べることが多くなった。  夜中に帰ってくる父がご飯を作れるわけもなく、分担したはずの料理の負担は今やほぼ雪丸に集中していた。たまに早く帰ってくると飯を買ってきてくれるので手間が省けて嬉しいが、大量の酒も一緒に買ってきては酔って絡んでくるのが鬱陶しい。 「……お前宿題いつ始めんの?」 「もうやった」 「嘘つけ」  雪丸は答えずに球をただ投げては取っていた。大きな手に投げた球を掠め取られる。あっと声をあげて起き上がると、道慈がボールの代わりにリュックを渡してきた。 「早く宿題やれよ。じゃないとタケ達に合流できねぇぞ」 「面倒くさい」  道慈が無言で見下ろしてくる。4月から中学校に上がるとは言え、180cm近い長身に見下ろされる圧に負け、のろのろとドリルとノートを取り出した。 「なんで中学でまた勉強すんのに春休みにまで勉強しなきゃなんねーんだよ。休みは休ませろよ」 「文句はいいから手を動かせ」 「鬼教官……」  雪丸は文句を言いながらノートの上に顔をつけ、だらだらと文字を書いていく。 「目悪くなるぞ」 「いいよ、なんでも」 「周り見えなくてまた盗塁されても知らねぇぞ」 「はぁ? されねーよ。いつの話してんだようっぜーな」  舌打ちしながら起き上がってさっさと書き始める。道慈はそれを認めてようやく自分も腰を落ち着けて宿題の続きをやり始めた。  30分ほどして雪丸が手が疲れたと鉛筆を投げた。  道慈がノートを覗き込む。字が汚すぎて読めない。が、一応かろうじて読めた連番の数字的には今日終わらせる話だった分は終わっているようだった。やればできるのに雪丸はいつも始動が死ぬほど遅い。 「なぁ、雪丸さっきの話」 「さっきって何?」 「野球部入るよな?」  今まで特に確認し合うこともなかった。中学に上がったら二人とも野球部に入る。当然そうだと思っていたからだ。雪丸なんて最近ずっと道慈の球を握って手を慣らしていたので、道慈は新しい球をもう一つ小遣いで買うはめになったくらいだ。  雪丸は凝った首をこきこきと鳴らしながら口を開いた。 「お前は?」 「俺は入るよ。柔道部ないし」  部活は野球部に入って、柔道は今通ってる道場で続ける予定だった。 「ふうん」 「お前は?」  雪丸はため息をついた。お前が入るなら入るんじゃない。自分のことなのに他人事のような言い方だ。 「なんでそんなにあいまいなんだよ」 「別に。面倒臭ぇだけだよ」 「野球が?」 「やってる時は別に良いんだよ。あとで洗濯すんのがだりぃ」  ああなんだそんなことかと道慈は内心でほっと息をついた。 「つけおきすると良いって母さんが言ってたぞ」 「ふうん。つけおきね……確かにそんなボタンあったな洗濯機に。それやれば手洗いしないで良いのかな」 「それはわかんねぇ」  雪丸はノートとドリルをリュックにしまい、代わりにグローブを取り出した。 「タケ達きてんじゃねぇ? 行こうぜ」 「お前リュック置いてくの?」 「うん。宿題家で見たくねぇ」  階段を降りると、道慈の母親――京子が声をかけてきた。料理の最中だったのかエプロンを身につけている。 「雪ちゃん夕飯食べてく?」 「いらない。これから野球しにいくから」 「帰りに寄れば良いじゃない」 「いいよ、今日は親父が買ってくるって言ってたから」 「あら、そうだったの」  京子は気をつけてねとだけ言ってキッチンに戻ろうとした。その母親の肩を道慈が掴む。すでに母親の身長を追い越している道慈の手は、母の華奢な肩を包むに十分な大きさだった。 「母さん、練習着ってつけおきしたら手洗いしなくても良いの?」 「何? 急に。お手伝いする気になった?」 「雪丸が練習着洗うの大変なんだって」 「雪ちゃん自分で洗ってるの!? 偉いわねぇ! 道慈も見習いなさいよ」 「うん。俺もやるからやり方教えて」  京子は二人の様子を見比べてふふと笑った。 「道慈ももう中学生だもんね。雪ちゃんのおかげね。そうねぇ、私は石鹸で洗ってから、まだ汚れが落ちなかったらつけおきしてるの。雪ちゃん手洗いは洗剤使ってるの?」 「俺も石鹸使ってる。体洗うやつ」 「ああお風呂場で洗うからね。それならうちの石鹸一個持ってって使ってみなさい。洗濯専用のやつだと結構汚れ落ちて気持ちいいわよ」 「へぇ、気持ちいいんだ」  京子が洗面所の棚をごそごそやっているのを二人で待つ。お前も練習着自分で洗うの? 雪丸が聞くと、道慈が頷いた。なんのために? 再度聞くと、道慈は首をさすった。考えてみたら俺の練習着だしな。  雪丸には理解できない考えだった。せっかく何も言わないでもオートで全てやってくれる親がいるのになぜ甘えないのか。  受け取った水色の石鹸をハーフパンツのポケットに入れる。 「京子ありがとう」 「いいのよ。明日も来るでしょ?」 「うん。またね」  公園にいくと、同級生やその兄弟達がすでにゲームを始めていた。所々芝が禿げた公園は、いつも暇さえあれば集まっている場所だった。振り向いた坊主頭に手を挙げる。マウンドに立っているのは本来セカンドの竹田だ。目が合うなり走ってくる。 「やっと来た! おっせーよ! 雪丸早く変われ!」 「はは、汗だくじゃん」  頬についた泥を擦って落としてやる。 「今俺ら負けてるからな。お前らが遅いから」 「何点差?」  雪丸は股を開き、肩入れしながら上目に竹田を見た。 「3点」 「取り返すよ」  球を受け取って首を鳴らす。竹田が走ってセカンドに戻った。土の盛り上がったマウンドに立ち、地面を踏みならしてから前を向く。ホームベースの奥でミットを構えた道慈と目が合った。この瞬間、道慈は雪丸しか見ていない。すると日常の中のたくさんの面倒臭いことが頭から消えていく。宿題も、この後の洗濯物も風呂掃除も、父親が本当に飯を買ってくるかという懸念も、散らかった家の中も、全部消える。この瞬間だけ今に集中できる。    何ゲームかしてみんなで木陰の芝の上に集まった。誰かが持ってきたスナック菓子を広げて、争うように手を伸ばす。 「あーあ、やだな中学上がんの」  竹田がぽつりとこぼした。雪丸は一度に何枚ものポテトチップスを口に含んで閉じれなくなっている石倉の口から1枚奪い、口にする。食うかフツーと石倉がもごもごと不満そうに言った。お前欲張りすぎ。雪丸は言いながら道慈のあぐらをかいた太ももに頭をのせて寝転がった。片足を持ち上げ、固まった太ももの裏を伸ばす。 「わかる、先輩こえーって聞くよな」  三川は嫌そうに肩をさすった。そんな三川に追い打ちをかけるように竹田が身を乗りだす。ポテトチップス混じりの唾が飛んだ。 「トイレでうんこしてる時でも先輩の声が聞こえたらあいさつしなきゃいけないらいしい」  やっとポテトチップスを飲み込んだらしい石倉が想像したのか、げぇと声を上げた。 「うんこも気軽にできねぇのかよ」 「俺だったらうんこしてるやつに挨拶されたら逆に気まずいけどな」 「道慈はいいよな、でかいから絶対いじめられない」  話の矛先を向けられ、道慈が苦笑いした。 「そんないじめとか無いだろ」 「わかんねぇじゃん! 下級生指導と称してシメられるかも」 「俺がいじめられたら助けろよ道慈!」  三川が何を想像したのか青い顔で道慈に縋りついた。 「そんな漫画じゃねぇんだから」 「俺なんだかんだ一番やばいの雪丸だと思うぜ」  鼻の穴を膨らましながら、竹田が寝転がったままストレッチをしている雪丸を指差した。 「なんで?」  雪丸が不思議そうに聞き返す。 「だってお前生意気じゃん! 言いたいこと言うし。ジュニアの時監督にも言われてただろ、顔が生意気だって」 「生意気なんじゃなくてかっこいいだけ」 「ほらっ、それが生意気なんだよ!」 「いーよ。いじめられたらどうじくんに助けてもらうし」  な、と雪丸が見上げると、道慈は思いのほか難しい顔をしていた。 「確かに、お前年上は敬えよ。呼び捨てとかしないで敬語使うんだぞ」 「……お前もかよ」  雪丸がうんざりしたように吐き捨てた。 「万が一自分より下手な先輩がいても敬意は持てよ」 「ははっ、俺より下手な奴に何のために?」  笑った雪丸に、道慈はため息をついた。丁寧に訳を説明しても、雪丸はその全てに屁理屈じみた反論を繰り広げている。 「これだよ」 「雪丸が目ぇつけられたら俺らは逆に平和かもしんねぇ」 「ご愁傷様です。いやむしろありがとう雪丸」 「俺らの壁となってくれ」  そんな二人のやりとりを見て、3人は手を合わせて雪丸に拝んでいた。    ぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる。  雪丸の頭に最初に浮かんだのは、まずい、洗濯物が濡れる。だった。弾かれたように道慈の膝から起き上がる。木の葉からも水滴が落ちてきていた。 「俺帰る」  雪丸はすぐに立ち上がり、グローブを拾った。  俺らも帰るかぁとダラダラと解散し始めた友人達を背に、濡れた地面を蹴って走り出す。強くなり始めた雨足に、もしかしたら父親が早めに帰ってきて取り込んでるかもしれないという淡い期待を抱いた。  家に着いた瞬間、テレビの音が耳に入った。普段この時間には無い靴があるのに、期待が叶ったことを知る。 「ただいま、親父、洗濯物――」  リビングに入ると、まず酒が並んだ座卓が目に入った。その向こうで寝転がっている男と目が合う。 「雪丸、おお、お前もこっち来て飲め!」  その手には焼酎の一升瓶が握られていた。嫌な予感に雪丸はグローブを放り出して階段を駆け上がった。ベランダに出ると、思った通り干していた洗濯物が雨に打たれていた。  舌打ちして洗濯物をかき集めて床に投げ、引き戸を壊れる勢いで閉じる。これをまた洗濯するのも面倒臭すぎる。カーテンレールにハンガー類をかけ、片づけ切っていない洗濯物が積まれた椅子から雑にそれらを退けて濡れたバスタオルを引っ掛ける。 「いるなら取り込めよ! 酒飲む前にやることあんだろクソ親父!」  なんだぁ? 親に向かって。のんびりとした声が階下から聞こえてくる。  どすどすと音を立てて階段を降り、濡れたティーシャツを脱ぐ。 「飯は? 買ってきたの?」  買ってきてなかったら酔っ払って寝る前に金をもらっておかないといけない。冷蔵庫の中が空なことを見ると、頼んだ買い物はされていないようだった。 「おお、買ってきたぞ! お好み焼き! まあ半分食っちまったけど」  3口ほど残ったお好み焼きのプラ皿が座卓にあった。 「足りねぇよ。金よこせ」 「お前なぁ、親に向かってなんて態度だ」 「買い物は? 昨日頼んだやつ何も買ってきてねぇのかよ」  家の掃除だってもう一ヶ月はされていない。どんなに埃っぽくてゴキブリが出ようと雪丸は意地でも父親の担当の家事をする気は無かった。 「あのなぁ、こんなに買ってきてんじゃねぇか」  机の上に並んだ酒を指さされ、座卓を蹴り付ける。空の缶が机からばらばらと落ちた。  父親が慌てた様子で一升瓶が倒れないように抱きしめている。 「誰が酒買ってこいっつったよ!? もういいから金出せよ!」  怒鳴りつけてから、机の上に財布があることに気づいた。五千円札を引き抜いて財布を机に投げる。 「死ね!」  捨て台詞を吐いて、寝巻きにしているティーシャツを身につけると傘を手に取り外に出た。  玄関の外に出ると、異常に自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。心臓がどくどくと音を立てている。体が怒りで熱くなっていた。雨音を聞きながら何度か呼吸をする。吸う息と吐く息に意識を集中する。背中を撫でる大きな手に、意外なほど安心した記憶を頭の中に呼び起こす。何度かそうして深呼吸してから、雪丸は傘を差して雨の降りしきる道路に出た。    この辺りからだった。急速に父親の酒への依存が激しくなったのは。  父親の残業が減ったことは、以前のように家事に向き合い会話ができる父親のままだったら、雪丸も喜んでいたかもしれない。現実は単に役に立たない酔っ払いが家に転がっている時間が増えただけだった。週末は朝から飲んだくれているのが当たり前になっていた。  中学に入ると、雪丸は朝練習が始まった。毎日朝早くにグラウンドに集合するため、父親が起きる前に家を出発するようになった。たまに朝見た格好とまったく変わらない姿で夕方もリビングで寝ている父親の姿を見かけるようになった。仕事をサボったのかも雪丸にはわからない。知りたくも無かった。 「雪丸、お前痩せた?」  手首を掴まれてシャツの袖を捲り上げられる。右腕を触る無遠慮な手に片眉が上がる。一瞬もたげた不快感が、相手を認識して形を潜めた。  確かに腕を掴む道慈の手と、掴まれた腕とでは厚みにかなりの差がある。しかしそもそも体格に差がある。 「……痩せてねぇよ」  手を振り解くと、今度は道慈の手が脇から胸の厚みを確認するように掴んでくる。ぞくりと、一瞬背中をくすぐったさに似た何かがかけ、唾を飲み込む。  昼休みの教室で唐突に始まった接触に女子の視線が集まった。 「いや、痩せただろ。絶対。最近朝練すぐバテてるじゃねぇか」 「バテてねぇよ。イッシーと一緒にすんな」 「イッシーと比べてる時点でまずいぞお前」  引き合いに出された石倉が口を引き攣らせた。 「お前ら本人の前で失礼すぎない?」  ふくよかな体型の石倉は長打が自慢だが、持久力があまり無かった。 「でも給食は毎日おかわりしてるだろ、雪丸」  石倉の言葉に雪丸は頷いた。給食で食い貯めとか無いと、1日の栄養を賄えないし、何より体力が持たない。朝と夜の飯があるかが日によるので自然とそうなっていた。この頃になると雪丸は勝手に親の財布から金を取って食材を買うのが当たり前になっていた。しかし毎回都合よく父の財布が潤っているわけでは無い。最悪なのは米を切らしている時に金がない時だ。そういう時は父親が常備している鮭とばをかじって空腹感を凌いでいた。  真剣な顔で人の体をぺたぺたと触っている道慈の耳元に口を寄せる。 「……どうじくん、いつまで触ってんの」  俺たち誤解されちゃうんじゃない。そっと囁くと、道慈がやっと顔を上げた。それからようやく女子グループの視線が自分達に刺さっていることに気づいたらしい。顔を赤らめながら慌てて身体を離している。180cmの大台に乗りつつある大男の中学生らしい反応に雪丸は笑った。 「練習後バテてたまに食えなくなるだけだよ。な、イッシー」  石倉の肩に肘をかけながら話を振る。一方石倉は首を傾げた。 「俺人生で食欲無くなったことないからわかんねぇ」  道慈が考えるように顎に手を当てた。 「雪丸、今日うち来いよ。母さんがお前が全然飯食い来ないから寂しがってる」  道慈の家の食卓に並ぶ色とりどりのおかずと艶やかな米を想像して口の中に唾液が滲む。先ほど給食で何杯もおかわりした後だというのに。 「……週末行くよ」  道慈の家は居心地が良いから好きだったが、毎回毎回飯にあずかって負担に思われたくない。というより、負担に思われた結果数少ない居心地の良い空間が減るのが嫌だった。  二人の顔を順番に見比べた石倉が手を挙げた。 「じゃあ道慈、俺が今日代わりにいくよ。道慈の母ちゃんの飯美味いって聞いた」 「お前は家に飯あんだろ」 「雪丸もあるじゃん」  道慈が眉を寄せる。雪丸は笑って石倉の腹を叩いた。 「お前が行ったら伊佐家の飯全部食い尽くすだろ」 「そう言えば俺の母ちゃんさぁ、この前バカでかい炊飯器買ってた。何回も炊くの嫌だからって、20合炊き」 「野球やめて力士になれば?」 「そうなったらまず初めに雪丸、お前を背負い投げするからな」  自然と逸れていった話に、道慈は納得いかない顔をしていた。

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