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第10話
体験入部期間が終わると、本格的な練習が始まる。雪丸含めジュニアからやっていたメンバーはみんなすぐに入部届を出して朝練にも参加していたが、体験入部が終わった時に初めて、あの期間は部員を逃さないための接待期間だったのだと知る。
まず違うのが上級生の態度だ。
「先輩見かけたら走ってきてあいさつしねぇかァ!」
「ッシャース!」
昼下がりの廊下でもこの横柄さである。雪丸は巻き込まれないように教室の廊下側の窓の下にしゃがみ込んで隠れた。すると目の前に座っていたクラスメイトの女子が慌ててスカートを押さえた。
「見えてねぇから大丈夫」
唇に人差し指を立てて教えたにも関わらず、女子は顔を赤らめて叫んだ。
「神楽くんそこで何してるの!?」
「静かにっ」
「神楽くん、そこでなにしてるのぉ?」
教室の窓からぬるっと坊主頭が顔を出す。3年生の猪狩だった。
「ウッス! 女子と話してます」
「女子と話す前にやることあんだろうがチャラチャラしやがって!」
髪を掴まれ教室の外に引き摺り出される。突然教室に入ってきた上級生の姿に、教室内は騒然としていた。
「お前さぁ、舐めてんの?」
「舐めてません」
道慈には劣るものの、中学1年生の割に身長の高い雪丸は、猪狩とほぼ同じ目線の高さだった。至近距離でメンチを切られる。吐息がかかるような近さに、キスしてやろうかという悪戯心が芽生えるのを何とか抑えていた。
「お前もチャラチャラしてられんの今のうちだけだからな。試合前になったら全員問答無用で坊主だ」
前髪を引っ張られ、雪丸は片目を瞑りながら笑った。
「坊主になっても俺、先輩よりはかっこいいっすよ」
「ああ!?」
ついでに俺よりピッチング下手ですよね。なんでそんなに威張れるんですか? 言おうとした言葉が横から出てきた手によって抑えられる。分厚い手は我が物顔で人の顔面をつかみ、頭を下げさせてきた。
「すみません。こいつ本当ナルシストで。ただの勘違い野郎の妄言なんで気にしないでください。自分からよく言い聞かせときます。おい、良い加減にしろ雪丸」
最後にドスの効いた声で本気の脅しをかけてきた。
そこらの大人よりもガタイのいい後輩の登場に、猪狩は不満そうにしながらも鼻を鳴らした。
「おい伊佐お前ちゃんと教育しとけよ」
「ウッス! ご指導あざっす!」
綺麗に腰を折って先輩の背中を見送った後、ようやく口と鼻が開放された。急に入ってきた空気に、雪丸は不平を口にしようとしてむせた。圧迫されていた鼻が赤くなっていた。
「っ、道慈てめぇ、げほっ、鼻まで塞ぐかフツー……!?」
「お前ちょっとしおらしくできないのか? 今の2分の……4でいいから」
「200%しおらしさじゃねーか」
「何言おうとしたんだよ」
「下手くそは黙ってろって」
「だから思っても言うなっつってんだろ?」
「言わないために隠れてたところを見つけられたんだよ」
「隠れんのもやめろ。大人しく挨拶だけすりゃ平和だろ?」
「あの人いつも挨拶だけじゃ終わんねーんだもん。面倒臭ぇよ」
「だからってああいう自尊心を他所からの注目で満たそうとするタイプを公衆の面前で恥かかせたら尚更逆上させるだけだろうが」
雪丸は道慈の顔をまじまじと見つめる。この分析は先輩を尊敬している人間の発言ではない。どちらかと言うと動物の生態を解説する学者の顔に近い。真面目な顔して一番先輩を敬っていない様に、雪丸は笑った。
「ははっ、道慈お前結構言うよな」
「いいか。とりあえず誰であろうと先輩は立てろ。心から尊敬しろとは言わない。外面だけどうにかしろ。愛想良く媚びろ。もう目つけられてんのわかってんだろ?」
「はいはい。せいぜいお前も勘違い野郎の妄言止めるの頑張れば?」
「根に持てる立場じゃないからなお前」
廊下で言い合っている二人の背中で、不意に教室の窓が開いた。鼻先を真っ赤にした石倉が顔を出した。
「あー怖かった。俺あの先輩苦手だ」
「お前いたのかよ」
雪丸は目を瞬きながらふっくらとした頬を見た。明らかに雪丸より目立つ体格の人間がいたと言うのに雪丸だけ呼び出されたということになる。
「うん。擬態が甘ぇよ雪丸。俺は窓側の机の隙間にスライディングしたらバレなかった」
「試合でもお前のスライディング見たことないのに」
「うん、初めてやったもん。女子に顔面蹴られたけど」
「パンツ見たの?」
「いや、ハーパン履いてた。むしろ蹴られたことがご褒美っていうか」
「さすがだぜイッシー」
バカ二人の会話を聞きながら道慈はため息をついた。
今日は昨日買い物に行ったばかりなので冷凍している鶏胸肉と炊いた米が確実にある。それだけで雪丸の帰宅の足取りは軽くなった。
初めこそ部活の練習について行くだけで全身筋肉痛と疲労感で帰宅後動けなくなっていたが、練習にもだんだんと慣れてきていた。それでも上級生と比べて明らかに体力がないのが気になった。道慈みたいな化け物を除いて新入生はみんなそうだったが、このままにしておくのは癪に触る。
飯があるうちに体力をつけないといけない。洗濯物を片付けたら今日はランニングをする。
人の身体を無遠慮に触ってきてバテてるだなんだと言ってきた顔を思い出す。
そりゃお前らは毎日家帰ればポケセンみたいにタダでHP回復できるんだから良いさ。
雪丸は心の中で不貞腐れた。こっちは家に帰るたびにラスボス対応だ。毎日毎日四天王と戦った後回復なしでライバル戦やってる俺の身にもなれよ。
玄関の鍵はかかっていなかった。扉を開けた瞬間に鼻をついた悪臭に、肩から鞄が滑り落ちる。
ゆっくりとカバンを床に置き、悪臭の源に近づいて行く。トイレの便器を抱きしめる形で父親が寝ているのが見えた。パジャマの背中がゆっくりと上下している。タイル張りの床には乾き掛けの嘔吐物がへばりついていた。
膝から頽れそうになるのを壁に手をつくことで抑える。
がりがりと左手の爪が壁に食い込む。足を振り上げ、パジャマの背中を蹴った。
「うっ、なん、なんだぁ!?」
胸部を便器に強打したらしい父親がむせながら目を覚ました。
「おい、自分で掃除しろよクソジジィ。くっせーなふざけんなよ」
「なんだ雪丸か……、お前親の背中蹴るってなぁ、何考えてん――」
ふらふらと立ち上がった父親が足をもつらせて廊下に倒れる。拍子にパジャマについていた嘔吐物の塊が床に飛び散った。
「――っ、クソ! おいジジイ風呂場行けよ!」
いたたと起き上がって呑気にリビングに戻ろうとするパジャマの肩を引っ張り、浴室に引きずる。ぶつぶつ文句を言っている父親に服洗えよと叫んで勢いよくドアを閉めた。
振り返れば、フローリングにてんてんと散った嘔吐物。
ひくっと喉がなった。沸騰した感情が溢れ出す。
「あ゙あああ!」
クソ、クソ、クソが!!
臭いに吐きそうになり、汚れた床を踏まないようにして階段を駆け上がる。
干していた洗濯物を取り込んで床に投げると、勢いで角ハンガーが折れた。それにも苛ついて近くの椅子を蹴り飛ばす。吹っ飛んだ椅子が押入れに穴を開けた。
硬い椅子の足と接触した足の甲がじわじわと熱を持ち出す。
「クソ、クソ、クソ!」
殺したい。あいつを殺して一人になりたい。
なんでも良いからあいつのいない所に行きたい。
先ほど実の親を引きずって突き飛ばした手のひらに目を落とす。意思に関係なくぶるぶると震えていた。
本当に殺してしまおうか?
雪丸は弾かれたように立ち上がり、学ランを脱ぎ捨てた。荒い息の音が耳の中で響いていた。洗濯物の中からティーシャツを引っ張り出す。ワイシャツのボタンを開ける手が震えて使い物にならない。
手にしたティーシャツを放り投げ、ワイシャツのまま玄関を飛び出した。
全力で坂道を駆け上がる。犬を連れた女性がスカートを押さえてきゃあと叫んだ。反応して犬が吠える。
何かに追いかけられている気がした。
見えない手が頭をなぜてくる気がする。
自由になる方法を囁く声が聞こえた。
息が上がり、喉がカラカラに乾き始める。喉の奥から鉄臭い匂いが迫り上がってきた。
スピードを落として、電柱に手をついて止まる。腰を折ると、汗が頭から落ちて地面に滲んでいくのが見えた。脈拍の音が耳の中でこだます。
電柱に手をついたまま、頽れるようにしゃがみ込む。湿ったスラックスが膝の裏にへばりつく感覚があった。
底辺だ。
濡れて色濃くなったコンクリートの上で黒い塊が蠢いていた。カマキリの死骸と、それに集る蟻の集団。
底辺の視界はこんな感じか。
「……雪丸?」
かけられた声に一瞬反応できなかった。自身の顔を手のひらで拭う。びっちょりと手のひらが濡れた。これ以外に人殺しの顔の消し方を知らない。
「……よお」
汗で張り付くワイシャツを浮かせながら立ち上がる。聞き慣れた声だ。間違うはずがない。振り向けば予想通り道慈がいた。
道場にいく途中だったのか、大きなカバンを肩にかけて面食らったような顔をしていた。
「何してんだ? 制服で。汗すげぇぞ」
「ランニング」
「制服で?」
「うん」
視線から逃れるように雪丸は濡れたワイシャツの襟ぐりで顔の汗を拭った。
「なんか犯罪にでも巻き込まれて逃げてんのかと思ったぞ」
雪丸はいつも通り笑おうとしたが、笑い声は音にならなかった。
「……道慈は? 道場?」
声が震えないように気をつけながら短い単語を口にする。
「うん。お前大丈夫か?」
覗き込んでこようとする肩を掴んで押す。
「あっそ。相変わらずえらいね。俺もう行くわ」
「おい待て」
右腕を掴まれ、反射的に振り払う。
「触んな」
普段なら道慈に触られてもなんとも思わないのに、ひどく不快だった。触れたところを通してこのぐちゃぐちゃな胸の内を見透かされてしまうんじゃないかと。
道慈は振り払われた腕を宙に浮かべたまま目を丸くしていた。その顔から目を逸らす。大げさな反応をしてしまったと思った。
道慈は真剣な顔で口を開いた。
「雪丸、ちょっと話そう」
「今は無理」
「いや、今だ。お前今どんな顔してるかわかってるか?」
食い下がる道慈に苛立ちが込み上げる。
「しつけぇな! 無理っつってんだろ! お前も殺すぞ!」
ついに耐えきれなくなり、気づいたら吠えていた。通りすがりのサラリーマンの視線が突き刺さる。
「落ち着け。そこの公園行こう」
肩を抱かれて、振り払おうとしても、子どもが大人の腕の中で暴れるに等しい力の差があった。そのまま引きずるようにして公園のベンチに座らされた。
座った後も逃さないようにか、首にかけられた腕が離れない。汗の吸ったワイシャツが接触するのも気にしていない様子だった。
厚い胸板を殴って遠ざける。
「うぜーんだよ、くっつくなホモかよ」
やっと身体が解放され、癖で右手を握っては開いて状態を確認する。道慈の腕の中で暴れはしたが、特に異常はなさそうだった。
「一応聞くけど、殺してないんだよな?」
先ほど雪丸が逆上して吐き捨てた言葉が引っかかっていたらしい。雪丸は鼻で笑った。
「殺してたら?」
「ふざけてる場合じゃねぇだろ」
真剣な目に見つめられて、雪丸はベンチの背もたれに深く寄りかかった。舗装された歩道の向こう、街灯の電球に虫が集っているのが見える。
実の親を殺したくなって、逃げ出して、友達を罵って、殺してないか確認されている。
なんだこの状況。笑えてきた。今度はちゃんと笑い声が音になった。ダサすぎんだろ。
「殺してたら、どうじくんは俺の味方になってくれんの?」
怒鳴るのも暴れるのも道慈には効かない。普通ただの友達にここまで踏み込んでくるものだろうかと雪丸は思った。自分だったら怒鳴られた時点で速攻で突き放してる。関わっても面倒臭いだけだ。
「場合によるだろ」
即答かよ。雪丸は面白くなって笑った。場合によっては敵にも味方にもなってくれる友達がいるのは、このクソみたいな道程を歩いて行く上ではありがたいことなのかもしれない。
「まだ生きてるよ。残念ながら」
道慈がほっとしたように息をついた。
「また酒飲んでたのか、親父さん」
「まあ最悪だよな。肋くらいは折れたかもしんねぇ」
は!? と道慈が反応した。肋ってどこをと続いた言葉に、ちらと視線を寄越してまた戻す。
「俺じゃねぇよ」
上がりかけた腰を道慈が下ろした。
「……蹴ったのか」
「うん」
道慈が額を押さえている。
ほら見ろ。お前に処理し切れる話じゃないんだって。早く習い事行ってママのところ帰って美味い飯食ってねんねしろよ。こんなやつに構ってないで。
その言葉を口にしないで、今度は雪丸から道慈の肩に腕をかけた。
「味方する気になった?」
困惑したような顔をじっと眺める。道慈はしばらく考えるように押し黙ってから、ついに視線に耐えきれなくなったのか、わずかに汗の滲んだ顔を擦った。
「今ある情報だけじゃ厳しいだろ」
「味方じゃない奴に教えるわけにはいかねぇもの」
にやりと笑うと、道慈が眉を下げた。
「……お前が話したくねぇなら無理に聞きはしないけど、話すことで楽になることもあるんじゃねぇか?」
諭すような声音に、雪丸は口の中で反論した。今これ以上つまんねぇ話しても俺のダサさが際立つだけだろ。
背もたれに手をかけて頭上を覆う木を見上げた。時折風で枝がざわめき、葉の隙間から月明かりが差してくる。
さっきどん底の気分で虫の死骸を見つめていた時よりは、幾分呼吸が楽になっていた。あの悪臭漂う家に帰らなきゃいけない事実は変わらないのに。
家に帰ったら、ゲロ掃除して洗濯して、飯用意して――。現実は面倒臭いことしかないが、とりあえず今はつまらない話を聞こうとしてくれるお人好しが隣にいる。
「いいよ、クソ真面目などうじくんが、お稽古サボって隣にいてくれるだけで俺は幸せです」
「……そうかよ」
道慈は半分納得いかない顔をしながらも、鞄から水のボトルを取り出して渡してきた。
雪丸は上向くと、受け取ったスクイズボトルを押して大きく開いた口に水を流し込んだ。渇いて血生臭かった喉の奥が潤っていく。口から水がこぼれるのも構わず飲んでから、口元を拭ってボトルを返す。
ふと思い浮かんだ思考を舌に乗せる。
「道慈ってポケセンみてぇ」
「ポケセン?」
ぽんと預けたら数分でHP回復。お節介のお人好しがいつでもお話聞きます。今ならウォーターボトルつき。頭に浮かんだキャッチコピーに笑いが漏れる。
「ピンクにしたらラッキーぽいし」
「デブって言いたいのか?」
眉を上げながら道慈が頬を摘んでくる。
小学校低学年の時はデブとからかうこともできたが、今では脂肪がほとんど筋肉になってしまったのでからかいがいがない。
「なぁ、小学校楽しかったよな」
「……戻りたいか?」
道慈の手が頬から離れる。雪丸はにやにやと笑った。
「お前が似合わないランドセル背負って職質されてんの見るの、すげー面白かった」
「面白いもんかよ。こっちは毎回本気で焦ってんだよ」
「いや冷静だったぜ。がんとして自分が小学生のコスプレしてる変態って認めないとこが」
「本当に小学生だっただろーが。事実逆にすんな」
「ごめんごめん。変態のコスプレしてる小学生か」
「ぶっ飛ばすぞ」
その後も、道慈は習い事が終わる時間までくだらない話に付き合ってくれた。
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