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第11話
夕暮れのグラウンド、テニス部の女子たちの黄色いかけ声が校庭の端まで届いていた。
上級生がグラウンドで守備練習している間、野球部の1年生は木陰で筋力トレーニングに励んでいた。坊主頭やまだ刈り込んでいない頭が芝の上にまばらに並ぶ。
頭の後ろで手を組み、背筋を伸ばしたまま腰を落としては、掛け声に合わせて膝を伸ばす。
額からだらだらと汗を流したまま石倉が呟いた。
「俺テニス部に転部しようかな」
「今俺もそれ思ってた。女マネいると思ったらただの応援に来たキャプテンの彼女だったし。もう野球部入った意味ねぇよ」
竹田が真っ先に頷く。
「テニス部入っても男女別だろ? 入るなら陸上部じゃねぇの」
雪丸の言葉に二人がハッとして振り向いた。
「雪丸お前天才か?」
「ある意味陸上部のユニフォームが一番エロいって先輩言ってたよな」
「どうせ外周するなら女子のシャンプーの匂いかぎながら走りてぇよな」
な、道慈。当然のように竹田に話を振られて、道慈は想像したのか嫌そうな顔をした。
「走ってる時に甘い匂いすんの好きじゃねぇ」
「っかー! 道慈くんはわかってねぇなぁ!」
竹田が声を上げた。監督の視線が飛んできて、馬鹿でかい掛け声で誤魔化してから、道慈にヒソヒソ声で言い募る。
「女子から発された匂いっていうのが大事なんだよ。もはや匂いそのものは重要じゃねぇ。女子の匂いならたくあんの匂いでもいい」
「おばあちゃんじゃねぇか」
スクワットの回数も終わりに近づき、そろそろ太ももが弾けそうなくらい痛くなってきていた。竹田はもはやしゃべって気を紛らわさないと続けられないのだろう。
先まで元気に話していた石倉が静かになっていた。雪丸が横を見ると、今にも地面に尻をつきそうな体勢で太ももをぶるぶると震わせている石倉がいた。
「あ、もう無理」
咄嗟に雪丸の手が伸びた。落ちかけた腰を掴むことで食い止める。
「重ッ」
ここで一人脱落したら連帯責任でまた1からスクワット開始だ。気づいた道慈が反対隣から石倉のズボンのベルトを掴んだおかげで、尻は地面につくことなく持ち上げられた。
「ああん、もうやめて……」
「やめてじゃねぇよ踏ん張れイッシー! 頼むぞ!」
竹田が声だけで応援してくる。
雪丸は石倉の介護を道慈に任せて、無意識に出してしまった右腕の状態を確認する。筋を痛めていることはなさそうだった。
「雪丸、さっき猪狩先輩すげーお前のこと見てたけど、なんかあったの?」
となりの三川が声をかけてきた。雪丸は額の汗を拭ってから手を頭の後ろで組み直す。
「いつ?」
「フリーバッティングの時」
「言われたとおりに投げてただけだけど」
上級生のフリーバッティングでピッチャー役として呼ばれたので、ふざけることなく真面目に投げた。猪狩がバッターとして雪丸の球を打っていた記憶はない。
「俺と自分の才能比べちゃったんじゃない」
雪丸はにやっと笑った。三川がうえぇと声を上げる。
「お前そういうの絶対先輩の前で言うなよ」
「言わねぇよ。愛想良くしてんだろ、ちゃんと」
「お前の愛想良いって何?」
「今日だったら猪狩が昼休みに絡んできた時、誰にも聞こえないように歯に海苔ついてんの教えてあげた」
「完全に地雷じゃん!」
「なんでだよ。優しいだろ」
「いやお前それはもう無視でいいんだよ! 歯ノリ指摘できるほど仲良くねぇだろ! もはや煽ってんじゃん!」
最後のセットが終わった。太ももがぱんぱんに張り詰め熱を持っている。雪丸は片足の足首を後ろ手に持ってストレッチを始めた。隣で三川が頭を抱えている。
ひたすら球拾いをしている時に、ピッチャーをやれと言われた時は正直ラッキーだと思った。あっちこっちに走らされてへとへとだったのだ。
一緒に呼ばれた同級生が捕手でもなんでもないポジションの奴だったので、道慈の方が良いとは思ったが、さすがにあそこで文句は言えない。同級生が怪我しないように気をつけながら投げていたら、少し緩すぎたようだった。3年生にもっとキレを出せと言われ、その通りに投げたら案の定同級生が球を取りきれず転んでいた。
そこで初めて道慈が呼ばれてまともな投球になった。最初から取れる奴を使えと思ったが口には出していない。
「じゃあ今度お前に歯ノリついてたら無視するわ」
「いやそれは無視すんな! こっそり教えて!」
叫んでいる三川をよそに、地面に伸びている石倉を起こしている道慈に目を向ける。
「道慈、ストレッチ」
「ん? ああ」
スパイクを脱ぎ、芝の上に座って足を開く。石倉から離れてやってきた道慈に開脚した状態で背中を押してもらった。道慈の手が両膝を押さえ、腰から前に押し出すように体重をかけられる。重力に従って胸が地面近くまで降りていく。
「いやイッシーのストレッチの介護すんなら道慈のがいいだろ。雪丸道慈独占すんなよ」
竹田はそう言いながらも、自分は石倉と組みたくないのかすでに別の同級生と組んでいる。
「カワ、イッシーが伸ばして欲しいって」
雪丸が体を伸ばしたまま石倉を指す。かろうじて座っているが、足を開いて座る様は生気の抜けたテディベアを彷彿とさせる。
「おんぶダッシュの時は絶対道慈と組まないくせに」
三川が石倉の背中を押してやりながらブツクサと文句を言っている。雪丸は真面目な顔で答えた。
「当たり前だろ。こんなのと組んだら足がいくつあっても足んねーよ」
その言葉にされるがままになっていた石倉が反応した。
「いつも道慈おぶってる俺の身にもなれよ」
「いやイッシーそれこっちのセリフだからな」
道慈が真顔で振り向く。横に大きい石倉の体重は長身で体格も良い道慈の体重を優に超えていた。
「道慈はいいよ。俺おんぶしても余裕じゃん。でも俺は俺の体重を運ぶだけでいっぱいいっぱいなんだよ。毎回毎回ドンケツでゴールだしさ」
「おんぶダッシュじゃなくても同じだろそれは」
「せめて3ミリ俺から浮いてくれよ」
「リニアか」
「でも応援はして」
「甘えん坊か」
言いながら道慈は寝転がった雪丸の体を跨ぎ、片足を持ち上げて裏腿を伸ばしていく。地面に伸ばした足が曲がらないように膝で太腿を押さえる。
雪丸の胸がゆっくりと上下した。吐く息とともにじんわりと押さえた肢体が伸びていくのが道慈の手にも伝わってきた。
雪丸は自分からは他人に気安く触る割に、人から触られるのを警戒するところがあった。
特にピッチングに関わる右腕に関しては敏感で、触られそうになったらいつもさりげなく避けている。
だからストレッチのペアも力加減がわかっている道慈じゃないと嫌なのだ。
下半身を終え、芝の上にうつ伏せになった雪丸の右腕を曲げて肘を押す。そのまま肩甲骨を片手で押していく。
「んっ……」
「息吐いて」
一瞬詰まった呼吸が吐かれるのに合わせて力を入れていく。背中から力が抜け、伏せた身体が押す力を無防備に受け入れている。
道慈自身も、他はまだしもこの部位だけはストレッチにあまり興味のない他の部員にやらせたくはなかった。
交代してストレッチを終えたあとはグラウンド整備が待っている。新入生がトンボで丁寧に整地している中、不意に雪丸に声がかかった。監督だった。
走って監督の元まで行き、背中で腕を組む。
球速を測ったことあるかと聞かれ、雪丸は顎を引いた。
「多分ありますが速度は覚えてないです」
「そうか。投球は誰に教わった?」
少年野球のコーチの名前を口にする。監督が考えるように顎を触った。不意に右肩に手を伸ばされ、咄嗟に半身になって左手で監督の手に指を絡ませる。
真顔で見つめ合いながら恋人繋ぎを始めた二人に周囲の視線が集まった。
「なんの真似だこれは」
「……手繋ぎたいのかなと」
「何言ってんだ。ちょっと身体見せろ。しゃんと立て!」
手を振り払われながら怒鳴られ、真っ直ぐに立つ。すると今度こそ右肩を掴まれ、眉がはねた。不快感に背中が粟立ち始める。
「捕手は……伊佐か」
「そうです」
「いつから組んでるんだ?」
筋肉を確かめるように触ってくる手が腕から胸へと移り、肩から力が抜ける。そこで初めて雪丸は自身の肩が強張っていたことに気づいた。
「小2からです」
雪丸の言葉に答えず、無言で監督が背中、腹部と手を下ろしていく。しっとりとした手が体幹部を確認するように撫でていくのに、雪丸の顎がわずかに上がる。腰骨に触れた手が不意に止まった。
「お前飯ちゃんと食ってるのか?」
またこれだ。雪丸はうんざりした。まともに飯があったら食ってるに決まってんだろ。苛立ちが瞬間的に言葉に乗る。
「それ、答えたら試合に出させてくれるんすか?」
「……なんだと?」
怒気の乗った監督の返事に、周囲の空気が凍る。整備から戻ってきた三川が引き攣った顔でこちらを見ている。その隣で竹田がダメだこりゃと言うように両手を上げた。二人の後ろでは道慈が頭を押さえていた。
帰り支度を済ませた上級生の何人かが場の雰囲気に足を止めた。
「すみません、試合に出たくて言っちゃいました」
雪丸は真顔のまま謝った。
「調子に乗るな。大体こんな身体じゃ3イニングも持たないぞ。質問に答えろ」
「持たせます」
「何度も言わせるな。質問に答えろ」
次第に低くなっていく監督の声音に、後ろで道慈が親指と人差し指を立てて下に切ったのが見えた。外角捨て球。もう切り上げろと言ったところか。
息を吸い込み、通る声を出す。
「食ってます!」
突然の大声にその場にいた全員がびくりと反応した。監督がわずかに下がる。
「今の2倍食え」
「ウッス!」
「もう小学校は卒業したんだからな。親に頼ってばかりじゃなくて自分で自分の身体を作るって意識を持て」
「ウッス!」
お前らもだぞ。監督が新入生のギャラリーに向き直り、説教が始まる。練習の疲労を顔に残したまま、整備用具を持ったままの一年生も監督のもとに集合した。
上級生が興味を失ったように監督に挨拶して去っていく。そんな中で、猪狩だけはカバンを肩にかけたまま雪丸の背中をじっと見つめていた。
立ち止まったまま道を塞いでいる猪狩の肩を三年の澤田が叩いた。
「猪狩、何してんだ?」
「いや、別に」
視線を離して猪狩が歩き出す。澤田は猪狩の視線の先を追って、ああ、と声を上げた。
「あいつ、誰だっけ。雪だるまみたいに呼ばれてる奴。監督にあの態度は無ぇな」
「神楽だろ。舐めてんだよ、世の中を」
「そうそれ、神楽。でもあいつ結構良い球投げるよな」
むっつりと黙った猪狩に澤田が続ける。
「来月あたり使う気だろ、監督のあの言い方は」
「はぁ? まだ早ぇだろ」
「俺もちょっと捕ってみてぇ。あいつの本気の球」
「なんだと?」
「速さはまあ小卒にしてはってくらいだけど、良い音してたぜ。フリーバッティングのとき」
猪狩の眉間に深い皺が刻まれる。前を向いて歩いている澤田は気づいていないようだった。
「ピッチャー増えたらお前肩温存できるし、良かったじゃん。まあ夏までにモノになるかはあいつ次第だけど」
猪狩が澤田を見上げる。良いわけねぇだろ。聞こえるか聞こえないかの声で吐き捨てられた言葉は澤田には届かなかった。
「いやそれより伊佐だよ。あれ小卒って嘘だろ? ランドセル背負ってたの? 犯罪だろ」
「まあ、でかいな」
猪狩は興味なさそうに相槌をうちながら、発疹のでた首をワイシャツの襟越しにさすった。
それだけじゃねえよと澤田が興奮した様子で続けた。
「足早ぇわ投げれるわ打てるわ捕れるわ、怪物だろ。スタミナもあるよな」
「あいつは礼儀もちゃんとしてるしな」
「あとこの前トイレで見たけどちんこもデカかった。思わず二度見したわ。今まで見た中で一番でかかった」
能天気に喋り続ける澤田の横で、猪狩は話半分で聞きながら赤くなった首をがりがりと掻いた。
野球部の部室はとかく臭い。特に放課後の練習後はこの後帰るだけなので制汗剤を使う部員も少なく、汗の匂いが密室に閉じこもっていた。誰かが窓を開けたが、あまり効果はない。
真っ先に練習着を脱ぎ捨てた雪丸に、竹田がベンチにカバンを置きながら声を上げた。
「ちょっと頼むぜ雪ちゃーん」
「なに?」
「監督に喧嘩売るなんて何考えてんだよ。お前が監督と手繋いだ瞬間吹き出しそうになったじゃんか」
竹田が思い出したのか笑っている。
雪丸は別に喧嘩売ってねぇよ、と答えた。
雪丸からしたら、ピッチャーの肩に断り無しで触ろうとしてくる監督の傲慢さが気に入らなかった。少年野球の監督はそこをちゃんと理解していたし、むしろ肩と腕を大事にしろと散々指導された。
今の監督は真逆だ。新入生でポジションも正式に決まっていないからといって舐めているとしか思えない。年上に対して敬意を払えとは言うが、そもそも向こうが選手に対して敬意を払っていないじゃないか。
言葉にしたらまた生意気だなんだと言われそうだから口にはしないものの、心の中は不満で満ちていた。
部室に入ってきた三川が眉を顰めて竹田を見た。
「笑い事じゃねーだろ。試合出さしてくれるんすかはやばいって。先輩達見てたぞ」
結局小言が始まった。雪丸は納得いかない顔でぼやいた。
「だってこの前の練習試合イマイチだったじゃん。俺が出てたらもっと抑えてたね」
日曜日の練習試合、新入生の仕事は主に応援、水分の補給、ビデオ撮影だった。投手は3年の猪狩と2年の平良が行っており、もちろん一年生の出番はない。
相手校の打線に粘られ、猪狩は早い段階で消耗していた。投手交代しても相手の勢いは止まらず、点差は開いていく一方だった。
「だからって監督にあのタイミングで言うのは違うだろ。なんでわざわざ波風立てんだよ。ただでさえ先輩達今年の1年は生意気だとか言ってんのに」
不安気な顔で言う三川に、雪丸はアンダーシャツを脱ぎながら笑った。
「なんだ、生意気なの俺だけじゃないんじゃん」
「屁理屈言うなって」
雪丸の態度に段々と苛々してきた様子の三川の肩を、まあまあと竹田が叩いた。竹田が笑うと唇の端から八重歯が覗いた。
「そもそも監督だって使える奴ならその内使うって。わざわざせがまなくたってさ」
竹田の言葉に部室に沈黙が落ちる。雪丸は無言で制服のシャツを身につけた。部員の衣擦れの音だけが狭い部屋に響いた。
「この竹田くんとかな」
沈黙を破り、竹田が親指で自分を指差して笑った。
「いや石倉くんだね」
ずぼんが足首から抜けないのか、片足でぴょんぴょん跳ねながら石倉が続いた。いや俺だね。いやいや俺だね。いやお前はねぇよ。わちゃわちゃと乗り始めた部員達に、三川がため息をついた。
「道慈もなんか言ってくれよ」
「……いや、伊佐くんだね」
道慈がやや躊躇いがちに口にした。
「道慈が言うとシャレになんねぇよ。雪丸にだよ」
「カワ達が言うべきこと全部言ってくれたよ」
ありがとうな、言いづらいこと言ってくれて。
道慈の大きな手が三川の長身の頭にぽんと置かれる。三川は決まり悪そうに唇を尖らせた。
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