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第12話

「今日ランニング行こう」  帰り道、誘ってきた道慈の言葉に雪丸は首を傾げた。 「柔道は?」 「今日は休みになった」 「ふうん」  相槌をうちながら、冷蔵庫の中身を頭に思い浮かべる。ちょうど米が底をつきそうだった。それからトイレットペーパーと洗剤も無くなりそうだ。今日こそ父親から金をもらって買い物に行かないといけない。最近父が会社に行っている姿をとんと見ていなかった。一日中パジャマで家にいる気がする。外に出る時は酒とつまみを買う時くらいだ。株がどうのと酔っ払って言っていたが、収入があるのか、貯金があるのかもよくわからない。今のところ財布が空になっている日の数日後には本人も買い物に行くらしく、財布に現金が補充されている。これが補充されなくなる日を想像してしまうと末恐ろしい。  一番怖いのが給食費を払えなくなった時だ。それすなわち死を意味する。 「家帰ってから決めるわ。電話するよ」  道慈は携帯電話を持っていた。周りの同級生のほとんどは小学校高学年か中学に上がった時に最新式の携帯電話を買ってもらっていた。二つ折りのアンテナがついていないものだ。家に電話するの面倒臭いから雪丸も早く買えよと周りから言われるが、正直それどころじゃない。スパイクとユニフォーム代をもらうだけでも一苦労だったのだ。 「今日は母さんが雪丸の分も飯作るって言ってたぞ」 「は? なんで?」 「お前に飯食わせたいんじゃないか」 「この前の土曜行ったばっかじゃん。なんも手土産とか用意できねぇんだけど」 「いらねぇだろそんなの」 「いや……」  雪丸は眉を寄せた。そういうわけにはいかないはずだ。  小学生の頃から雪丸が伊佐家に入り浸る度に雪丸の母親が定期的に菓子折りを持たせてきた。こっちばっかり何度もいただくわけにはいかないでしょと雪丸の母は毎度言っていたが、今になって意味がわかる気がする。飯を用意するのはこの上なく面倒臭い。それを他人の家のガキにもやるとなったらもっと面倒臭いはずだ。  母が亡くなって父が酒浸りになってからはもう何も返せていない。 「京子ってなんでそんなに俺に優しいの?」 「お前がめちゃくちゃ美味そうに飯食うから嬉しいんじゃねぇかな。俺たちは反応が薄いって言われた」  慣れるとそうなるのかと雪丸は思った。贅沢な奴。  買い物は道慈の家に行った帰りでいいかと雪丸は結論づけた。せっかく用意してくれてるなら食べに行こう。雪丸だって食べれるものなら毎日でも京子のご飯を食べたかった。    家に着くと、まず確認するのが部屋の状態だ。キッチンが出しっぱなしの水で水浸しになってることも、嘔吐物が撒き散らされている訳でもないことに安心する。ゴミ袋と酒瓶が並んだリビングはいつも通りだ。  父親は相変わらずパジャマ姿でテレビをつけっぱなしにしながら酒を飲んでいた。赤らんだ顔が雪丸を見つけて破顔する。 「おう雪丸お帰り。お前デカくなったか?」  今日は機嫌がいいらしい。座卓の横の壁はビールの空き缶が積み重なり、トーテムポールのようになっていた。  洗っていない食器で埋まったシンクの中からコップを取り出し、水道水を飲む。そろそろ食器も片付けないと、臭くなってきている。 「なってねーよ。いっつも飯食え飯食えって言われてさ。毎日家に飯があったら食ってるっつーの」  直接的な嫌味を返すと、父親が一升瓶を片手に缶ビールを煽りながら笑った。 「そら野球やるなら飯は命だろう」  まるで他人事かのように宣った男に、こいつが親で間違いなかったっけと雪丸は考えた。もしかしたらこの親から生まれたわけじゃないのかもしれないと疑うレベルだ。 「その飯のために買い物行くから金ちょうだい」 「金ぇ? タダではやれねぇなぁ」 「そういうのいいから。うぜぇんだよ」  財布を抱え込んだ父の姿に苛立ちが湧き上がる。 「なんだぁ? その態度。お前ときたら、親の肋骨折りやがって。ロクでもねぇガキだ」  父の言葉にぴくりと眉が上がる。 「病院行ったの?」 「あったり前だろ。胸が痛くて酒しか飲めねぇ」  感じるかと思った罪悪感が何も湧いてこない。おかしいなと雪丸は思った。人を怪我させたらどんなに軽傷でもそういう感情が生まれた経験があるのに。 「……病院代、もったいねぇな」  ぽつりとつぶやいた言葉が届いているのか届いていないのか、父親はつまんだエイヒレの先端を向けてきた。 「お前実の父親になぁ、やっていいことと悪いことがあるだろ。学校行かせてもらって野球やらせてもらって、誰のおかげだ? ああ?」  くどくどと始まった酔っ払いの説教に、腹のむかつきが増幅する。  一度冷静になるために2階に上がり運動できる格好に着替えた。洗濯物を取り込んでから、階下に戻り脱衣所の引き出しにタオル類と下着をたたみもせずに突っ込んでいく。そろそろリビングに溜まったゴミも出さないと部屋まで臭くなってしまいそうだった。  父親はトイレに行ったようだった。座卓に無防備に置かれた財布から今のうちに金を取る。渡せないと言っただけあり、数千円が手に入った。  トイレからトイレットペーパーもう無くなるぞという呑気な声が聞こえた。  罪悪感の代わりに湧き上がった底なしの苛立ちにテーブルを蹴る。一升瓶が倒れてエイヒレを水浸しにした。  ビールばっかり飲んでいる時は酔いもそこまで酷くないので、会話ができたりもする。野球関連のものだってその時にねだったら、うだうだ言いつつも金を出してくれた。この度数の強い焼酎がいつも状況を悪くするのだ。  酒瓶を手に取り、シンクの中の溜まった食器の上で逆さにする。フライパンの上を流れていくきつい酒の臭いに顔を顰める。  代わりに水を入れて座卓に戻しておく。あれだけ酔っ払ってるんだから分りゃしねえだろと思った。壁に沿うように並べられた封の空いていない酒瓶も急いで開けて、水を満たして元の位置に戻す。一気に酒臭くなったシンクの食器を洗って証拠を隠滅する。  トイレから出てきた父親はごろりと横になりながらビールを飲んでいた。  その様子を横目に、溜まったゴミ袋を結んでいく。父の手が一升瓶を掴んだ。 「ん? なんだこれ、なんか薄いな……」  あ、バレるかもしれない。雪丸は立ち上がった。 「ってこれ水じゃねぇか! 雪丸お前か!」  一升瓶を手に立ち上がった父親の顔は真っ赤に染まっていた。これまで見たこともないくらい釣り上がった目に、動揺してゴミ袋を取り落とす。  父親が大股で近づいてくる。反射的に雪丸はランニングシューズを突っかけて玄関を飛び出した。 「テメェ雪丸! このクソガキ! ぶっ殺すぞ!」  息子に骨を折られてもへらへらしていた男がこの荒れようである。ぱりんと何かが割れる音が聞こえてくる。  新しい酒買ってこい! 玄関を閉めても聞こえてくる怒声を背中に、家の門をくぐった。  道慈が塀の前で驚いた顔で待っていた。 「雪丸、この声……親父さんだよな」 「うん。早く逃げよう」  ランニングシューズの踵を地面に擦り付けて無理矢理履く。心臓がどくどくと音を立てていた。  地面を蹴って走り出した雪丸に、道慈が怒鳴り声の響く家を気にしながらもついてきた。 「お前一体何したんだよ」  ほぼ全力に近いスピードで走りながら、背後を振り返る。鬼の形相の父親が追いかけてきていないことを確認して安堵する。いつものランニングのスピードに落とすと、早鐘を打っていた心臓がだんだんと落ち着いてくる。 「酔っぱらいすぎてうぜえから、焼酎の瓶の中身を水と入れ替えたらああなった」 「ああ……」  道慈がなんと返答したらいいのか分からない顔をしている。雪丸はその顔を見て、舌打ちしたくなった。家の前で待ち合わせしたのは失敗だった。 「そのうち酔い潰れて寝るから大丈夫」 「……今日うち泊まるか? 親父さんの酔いが覚めるまででも」  魅力的な提案だった。父親があそこまで怒っている顔は初めて見た。もはや人外じみて見えた。父親が飲んだくれになって以来初めて恐怖心を覚えた。  だからと言ってここで伊佐家に甘えてしまったら、癖になってしまうかもしれない。あるいは父親が普通の父親だったなら、雪丸も遠慮せずに道慈の家にこれまで通り入り浸っていたかもしれない。  道慈の家を避難所にしてはいけない。避難所にしてしまったら、都合が良いのは雪丸だけだ。道慈の親に雪丸の面倒まで見る義務はない。実の親すら子どもの面倒を見切れない現状が目の前にあるというのに。  雪丸はにやと笑った。 「なに、どうじくんってば俺と一緒に寝たいの」 「茶化すなよ」 「気持ちは嬉しいんだけど、今日は女の子の日だから無理」 「おい」  真剣な目が見つめてくる。今にも走るのをやめて向き直りそうな道慈に、冗談だよと広い背中を叩く。 「今日の飯何?」 「……角煮カレーっつってたな」  道慈はそれ以上追求するのを諦めたようだった。 「最高じゃん。京子のカレーってなんであんな美味しいんだろう」 「お前がくるからって張り切って昼から煮込んでるらしい」 「はは、俺もう京子と結婚したいわ」 「やめろ気色悪い」  話を逸らしたものの、まだ胸の中に奇妙な焦燥感が残っていた。  道慈の家から帰った後に、父親が起きていたら。もし殴り合いの喧嘩になったら。家の中で使えそうな鈍器が頭に浮かぶ。切羽詰まって、今度こそ殺される前に殺してしまうかもしれない。むしろそれは正当防衛が成立するんじゃないだろうか。  浮かんだ思考を振り払うように額に浮いた汗をティーシャツの肩で拭った。  ランニングを終えるといくらか気分が落ち着いた。あの酔っ払いの怒りがそこまで持続することはないだろうと嫌な想像に終止符を打つことができるほどには。  伊佐家に雪丸を合わせた5人で囲んだ食卓。カレーと色とりどりのサラダ、チキンにグリルした野菜までもがてんこ盛りに並んでいる。みんなで手を合わせて挨拶するのに、雪丸はくすぐったい気分になった。 「雪ちゃん最近全然来てくれないから私気合い入れちゃった」  京子がにこにこしながら小皿に分けたサラダのドレッシングを順番に配っている。 「聞いたよ。昼から煮込んでたって」  一口カレーを食べて、給食ではない手作りの味に一瞬涙が出そうになる。味は辛すぎず、甘すぎず。肉の脂がルーに溶け込みまろやかなコクが出ている。控えめに言って絶品だった。 「すげぇ美味い。俺今死んでも良いかも」  本音だった。もはやこの幸せな記憶のまま全部投げ出して死ぬのが正しい気すらする。 「やだ雪ちゃん大袈裟。おかわりいっぱいあるからね」  京子が嬉しそうに笑ってお茶を注いでくれる。 「うん、ありがとう」  道慈の一個下の妹、一慈が不満そうに声を上げた。長いポニーテールが揺れる。 「雪ちゃん中学生になったら全然ウチこなくなったよね。前までずっとウチにいたのに」 「中学生は忙しいんだよ」 「今日この後ダンスしようね。雪ちゃんと踊ろうと思ってたやついっぱい溜まってるから」  一慈は幼い頃からダンススクールに通っていた。初めは習ったダンスを兄の道慈と弟の善慈に教えて一緒に踊りたかったようだが、二人ともセンスがない上にかなり嫌がるので、いつの間にか標的が雪丸にシフトしていた。  言われるがままに一慈のスパルタ特訓に付き合っているうちに気に入られてしまったのだ。 「善慈、お前やれよ」  雪丸に話を振られた善慈は、小学校に上がったばかりだったが、伊佐家の男らしく同学年の子どもたちより頭一つ分大きかった。小さい頃の道慈のようにふっくらしていた。  頬にカレーを目一杯含んだまま善慈が必死に首を横に振っている。  一慈が立ち上がって抗議してくる。 「雪ちゃんが良いの! おにぃも善慈も下手な癖にすぐ休もうとするからムカつく! あとおにぃはこの前ターンで転けて床がヘコんだからダンス禁止になった」  雪丸が隣の道慈に目を向けると、静かに目を逸らされた。状況を想像してじわじわと笑いが込み上げてくる。目が合わない男の肩に手をかけて、その居た堪れ無さそうな顔を覗き込む。 「受け身取らなかったのかよ、柔道家」 「足が意味わかんねぇ形で絡まってたんだよ」  ぶはっと吹き出す。 「なにそれ、めちゃくちゃ見てぇ」 「もう無理だ。ダンス禁止だから」 「嬉しそうじゃん」 「やっと解放された」  満足気に道慈が笑った。 「兄ちゃんだけずりぃよ……俺も床破壊しようかな」  善慈が道慈の隣で不穏な発言をしている。京子がわざとやったら本当に怒るからねと釘を刺した。  結局ご飯を何杯もおかわりした後、雪丸は一慈のダンス練習に小一時間ほど付き合う羽目になった。 「待ってまじでカレー出てきそうなんだけど。なんでこんな反るやつばっか……」 「雪ちゃん文句じゃなくて体動かす! ここはもっとセクシーに、腰から糸が引っ張られてる感じで起き上がってっ」 「ちょっ、掴むなそこは」  腰の際どいところをほぼブリッジの状態で掴まれ、雪丸が慌てた様子で起き上がる。 「そう、その感じで起き上がって。上手だよ雪ちゃん。最初のフォーエイトからもう一回ねっ」 「…………はい……」  リビングで繰り広げられる特訓に、弟の善慈はそそくさと2階に逃げた。兄の道慈は茶をしばきながらいつも通りの光景を眺めていた。  伊佐家の門を抜けると、ぽつぽつと街灯が光る住宅街の道路が続いている。  仄暗い道路に出て初めて、雪丸は待ち受けている現実を思い出した。軽やかだった心が一気に重たくなる。  不意に玄関が音を立てた。さっき挨拶して別れたはずの道慈がランニングシューズをつっかけて外に出てきた。 「俺もスーパー行く」  道慈は手に持った財布をハーフパンツのポケットに入れた。 「何買うの?」 「……ティッシュ」  道慈が頭をかきながら答えた。雪丸は京子に頼まれたのかと納得した。 「じゃ、俺んち側のとこ行こうぜ」 「ああ」 「良いの? 遠くね?」  ダメ元で言ったのに簡単に頷かれてびっくりする。ほぼ雪丸の家まで行くような距離だ。 「走って帰るからいい」 「箱ティッシュ持って?」 「うん」  ティッシュなら反対側のドラッグストアのが安いけど。思ったが、伝えはしなかった。少しでも長く現実から目を背けたかった。  道慈がランニングシューズの紐を結んで立ち上がる。踏み出す足取りがにわかに軽くなった。このまま二人でどこか遠いところに行けたら良いのにと思った。  結局道慈はスーパーで買い物をした後もついでだからと言って雪丸の家まで着いてきてくれた。 「なんかあったら電話しろよ。俺の番号覚えてるよな」 「うん」  道慈の携帯の番号は電話しすぎて暗記していた。  両手に買い物袋を抱えたまま、道慈と別れて家に入る。相変わらず鍵は空いていた。幼い頃危ないから絶対に鍵を閉めろと注意してきた父親自身が、まったく鍵をかけないようになった。  後手に鍵をかけながら、玄関の惨状に目を落とす。靴棚の上で埃を被っていた写真立てが割れて床に散っていた。踏まないようにスリッパを出して履き、家族3人が写った写真立てを拾い上げる。ひび割れた写真立ての中で、まだ若い母親と父親、それから幼い雪丸がはにかんだ顔でピースしていた。初めて野球の試合でピッチャーに起用された時の写真だった。雪丸よりも父親の方がよほど嬉しそうな顔をしている。  何でこうなってしまったんだろう。母が生きていたら違かったのだろうか。  考えてもしょうがないことが頭に浮かんでは消える。写真立ての上に落ちたガラス片を拾って集めながらリビングに向かった。  父親はいつも通り座卓の向こうでいびきをかいて寝ていた。一気に肩から力が抜ける。  割れた写真立てをガラス片ごと紙袋に入れて縛る。  冷蔵庫に食材を入れてから、掃除機を引っ張り出した。細かいガラスを吸わないと裸足で歩けない。いつもなら掃除しろよと座卓を蹴っているところだが、今日はあまり刺激しない方が得策だろう。  そう思って掃除機のスイッチを入れると、その音に寝ていた男が起き上がった。 「うるっせぇな……なんだよこんな時間に」 「あんたが散らかしたガラス片付けてんだよ」 「雪丸お前、ちゃんと酒買ってきたのかぁ?」  からからと音を立てながら掃除機がガラス片を吸っていく。掃除機をかけ出すと、埃だらけの床が気になってくる。ついでに廊下を掃除しながら舌打ちした。 「買うわけねぇだろ」 「お前なぁ、あの酒いくらしたと思ってんだよ。お前のスパイクより金かかってんだぞ」  込み上げてくる苛立ちを唾を飲むことで抑える。 「野球なんてやめちまえ。金ばっかかかって役立たずなんだからよ」  抑えきれなかった。買ったばかりのトイレットペーパーの袋を引っ掴み、父親の顔面に向かって投げる。 「黙れよ! 役立たずはこっちの台詞なんだよ! 何で俺がてめぇの壊したガラスの処理しなきゃなんねぇんだよ!」 「てめぇ雪丸親に向かって……」 「掃除もしねぇ買い物もしねぇ金もださねぇ、酒飲んでクソして寝るだけのくずが! 死ねよ!」  掃除機を乱暴に投げ捨てる。がしゃんと派手な音が響いた。勢いのままに座卓を蹴る。察して逃げようとした父親が一歩遅れて座卓と壁に挟まれて呻いた。机の上に置かれたビールがこぼれる。 「雪丸お前……!」  父親に向かってテレビのリモコンを投げる。 「痛っ! てめえ雪丸、」 「役立たずは誰だよ」  去年の夏から放置してある扇風機を持ち上げる。コードが引っ張られて悲鳴を上げた。父親の顔が青ざめる。 「悪い、悪かったから。そんなの投げるな」  謝ってくる父親に鼻を鳴らして投げようとしていた扇風機を床に戻す。  どすどすと音を立てて散らかった部屋をそのままに脱衣所に向かった。  早く着替えて寝ないと朝練に寝坊してしまう。今日はもう疲れた。  思いながらティーシャツを脱いだところで、父親の叫び声が聞こえてきた。 「あああ! これ……! 全部水に……! この、ガキ、全部、全部入れ替えやがったのが!」  先とは明らかに違う声音に手が止まる。まさか焼酎を全部入れ替えたのに気づいていなかったのか。じゃああの一本の焼酎だけでスパイク代と一緒? 嘘だろ? 酒ってそんなに高いの?  廊下を突き破るような勢いで足音が近づいてくる。混乱する頭で、音の方に目を向ける。  脱衣所の扉が開いた瞬間、逆さの一升瓶が目に映った。間髪入れず、頭に割れるような痛みが響く。 「このクソガキ!」 「っ――!」  割れた破片が脱衣所に飛び散る。ブレる視界の中で、咄嗟に左手で父親の髪を掴み下ろす。  暴れる身体に足がもつれ合い、ガラスの散った床に二人の体が倒れ込んだ。 「ぐっ」  床に散ったガラス片が雪丸の素肌の背中を抉った。上から頬を殴られ、明滅する視界の中で雪丸は左手をがむしゃらに打った。  馬乗りになっていた男の勢いがやにわに止まり、黒目がぎょろりと上を向く。ガクンと急に体重が乗ってきた。  荒れた脱衣所の中で、自身の吐息の音だけが響く。 「……死んだ……?」  玄関から自身の名を呼ぶ声が聞こえて、はっとする。 「う、うわぁ!」  力の抜けた父親の身体の下から這い出し、乱暴な音を立てている玄関に走る。裸足の足がガラスで切れたのも気にならなかった。  震える手で何度も失敗しながら鍵を開ける。やっと戸が開くと、焦った顔の道慈がいた。目が合った瞬間その顔が息を呑む。 「雪丸お前血が……!」 「道慈、やばい、どうしよう。死んだかも」  ひっきりなしに頭から垂れてくる水もそのままに、道慈に縋り付く。掴んだティーシャツの上の顔が青くなった。雪丸の体を押し除け、道慈が靴も脱がずに家の中に入った。  明かりのついた脱衣所の中で、床に臥した父親の首に手を当てて道慈が脈拍を確認する。  雪丸はその様子を突っ立ったまま呆然と見下ろしていた。無言で手を当てていた道慈が口を開いた。 「……大丈夫。生きてる。気ぃ失ってるだけだ」 「……本当に?」 「どこ殴った?」 「顔……顎かも」 「それだな。多分お前の血の方がまずい。タオルあるか?」  道慈が父親の身体を横に向かせて、呼吸を確認している。 「ある」  タオルを引っ張り出して道慈に渡すと、たたみ直したタオルで頭を押さえられた。 「ここ、強く押さえて座ってろ」  言われるがまま押さえながら、視界の端に映った赤色を二度見する。鏡の中のタオルが赤く染まっていた。顔には擦れた血の痕が伸びている。酒瓶に入った水だと思っていたものは、自身の血だったらしい。  急に頭に鋭い痛みが走り出す。  道慈が携帯を開いて何やら電話していた。 「住所は?」  問われるがままに答える。眩暈がして体がふらつき、壁に寄りかかる。道慈が床に散ったガラス片を足で蹴ってどかした。 「雪丸、ゆっくり座れ」  体を支えながら言われて、ずるずると座り込む。道慈の手が頭にかぶせたタオルを痛いほどに押さえてくる。目の前にあるティーシャツを必死で握りこんだ。視界がぼやけ始めていた。  何も考えられない。  遠くからサイレンの音が聞こえてきた。  

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