13 / 28

第13話

 結局親子で救急車に運ばれ、二人とも脳に衝撃を受けていたため、即日で検査入院となった。雪丸はその日のうちに頭を6針縫った。翌日のCTの結果、二人とも脳に異常は無かった。父親の治りきっていない肋骨は悪化していた。  道慈は適切な対応を救急隊員に褒められていた。そして救急車の中で保護者かと思われていた青年が中学1年生と判明し、たまげられていた。  この一件で、一ヶ月ぶりくらいに酒の抜けた父親を見ることができた。病院のベッドの上で泣きながら謝られた。酔っ払ってる時とはまるで違う人間かのようだった。もう酒はやめると約束してくれた。  家に帰って二人で荒れた脱衣所を片付け、残っていた酒を全部捨てた。シンクに酒を流している最中、父親はごくりと唾を飲み込んでは首を振っていた。 「親父、そういえば仕事どうしたの?」 「ああ、独立するために会社は辞めたんだ。」  父親は壁に積まれたビールの空き缶をゴミ袋に捨てながら苦笑いした。 「金あるの?」 「子どもがそんなことを心配するんじゃない」  いや心配するだろ。明日の飯を心配してんだよこっちは。父親が酔っていたらそう言ってただろう。  しかし大丈夫と言うので、雪丸は深く追及しなかった。 「じゃあもう一回家事分担しよう。ずっと家にいるなら掃除はしてよ。あと買い物と飯も。洗濯物と風呂掃除は俺がやるから」  さりげなく飯当番を押し付ける。金があるならいっそ手作りの飯じゃなくて毎日コンビニ弁当でも良かった。食べれるならもはやなんでもいい。  実のところ自分の担当である風呂掃除なんてもう一月はしていなかった。白いタイルの壁は赤カビだらけになっていた。 「ああ、もちろんだ。お前は部活があるからな」 「あとランシュー小さくなったから新しいの欲しい」  包帯で巻かれた足を見下ろす。今は切り傷が圧迫されるのでサンダルくらいしか痛過ぎて履けないが、どちらにせよランニングシューズは必要だった。 「じゃあ週末買い行くか?」 「やだよ恥ずかしい。自分で買い行くから金ちょうだい」  会話ができる時に金を無心するのはもはや癖になっていた。  頭の怪我のせいで二週間運動禁止を言い渡されているので、今すぐに買いに行く必要もなかった。  それよりも二週間も投げられないのが辛い。野球を始めて以来初めてそんなに長く休む。上級生の投球にけちをつけていたらこのザマだ。 「ああ、もうそんな年か……」  父親が胸を押さえながら立ち上がり、財布を手に取った。よっしゃと思った。平穏な日常が返ってきたのが嬉しい。  1万円札を受け取りながら、ティーシャツの上から巻かれたコルセットに目を落とす。 「……肋大丈夫?」 「……大丈夫だ。お前、いつの間にかでかくなったよな」  雪丸の上背はすでに父親と変わらない程度になっていた。酔っ払った時と同じことを言っているのに少しもやっとしたが、この平和な雰囲気を壊すほどではない。それに謝られた時に散々今までムカついてたことを本人にぶちまけたので少しスッキリしていた。 「そういえば、道慈くんにもお礼しないとな。今度会ったら謝らせてくれ」  スッキリしていたはずの胸にさらにもやが広がる。  今度会ったら。その言葉を頭の中で繰り返してみる。  どの面を下げて息子の友達に会うつもりなのか。普通の親としてあり得ない振る舞いを他人の子どもに見せておいて。  胸の中のもやを吐き出すように大きくため息をつく。 「親父ってさ、恥ずかしくねぇの?」 「……え?」 「俺は道慈に親父会わせんの恥ずかしいよ」  部屋の中に沈黙が落ちる。父親の喉仏が上下するのが見えた。父親の顔を見ずに万札をポケットにしまい、片付けを再開する。どんな顔をしていてもムカつくのは分かっていた。  部活は当然参加できず、見学になった。着替えもせずにベンチで一生球を握りながら退屈な見学をして1日を終える。初めこそ何があったと興味津々で聞いてきた部員も、日を重ねるにつれて次第に休んでいる雪丸を羨ましがるようになった。羨ましいのはこっちだっつうの。何度その言葉を口の中で呟いたかわからない。  不幸中の幸いだったのは、中間テストがあるため一週間部活が休みになることだ。フラストレーションばかり溜まる見学をしなくて済むのがありがたい。テストが開けたら練習に参加する予定だった。  テスト勉強をするために学校終わりに道慈の家に寄った。日が暮れる前から帰路に着いたのは入学式以来で、少し新鮮な気分になった。  怪我なら俺ので慣れてるし母さんもそこまで過剰反応しねぇよ。そう道慈が言ったので安心して家に邪魔した結果、会った瞬間京子に悲鳴を上げられた。その悲壮な顔に一瞬来たことを後悔した。綺麗な顔が台無しじゃないとかもう抜糸したのとか色々聞いてくる京子を適当にかわして二階に逃げる。 「話が違ぇじゃん」 「いや、俺にはあそこまで反応しねぇんだけど」  道慈が半ば不満そうに頭を掻いている。ベッドに座ると、制服でベッドに座るなと間髪入れずに言われた。  しょうがなく学ランとスラックスを脱いで放り、ベッドに寝転がる。床に放られた学ランとスラックスが道慈の手によってハンガーにかけられた。代わりにハーフパンツを投げられ、寝転がったままブカブカのズボンを身につける。 「雪丸、お前勉強しに来たんだよな?」 「うん。疲れたから休憩してからやる」  言いながらベッド横の本棚の漫画本に手を伸ばそうとすると、手首を掴まれた。 「一回読み始めたらとまんねぇだろ」 「頭痛いから30分だけ漫画読む」 「漫画読んでも痛いのは治んねぇよ。こっちこい」  怪我していても容赦なく正論をぶつけてくる。仕方なく起き上がり、ずり落ちそうになるズボンを引き上げながらベッドから降りた。  わざわざベッドと逆サイドの机の前に座らされ、鞄から勉強道具を取り出す。ノートを開いてみても、字が汚過ぎて自分でも読む気が起きない。ノートを見たら更にやる気が削がれた。握ったシャーペンの行き場がなくなり、ペン回しを始める。  テーブルの角を挟んだ隣では道慈が静かに国語の教科書を読みながらノートにシャーペンを走らせている。  頬杖をついてその様子を眺める。道慈の字は筆圧が濃く達筆だった。京子に字の書き方をかなり教えられたと言っていた。  大きな手に正しい持ち方で握られたシャーペンがやたら小さく見える。真剣に教科書を読んでいた道慈が視線に気づいたのか顔を上げた。 「範囲わかるか?」 「うん。ノート汚いからやる気失せた」 「どこ? 俺の見ていいよ」  今し方何かを書き留めていたノートを躊躇いなく渡してくる道慈に首を振る。 「いい。道慈の勉強が終わったら道慈のノート写すから」 「直前になるぞ」 「大丈夫。赤点取らなきゃ良いんだろ」  野球部は赤点を取ったら試合に出さないと言われていた。6月に入っても試合に出られなかったらたまったものではない。 「お前な」 「じゃあ暗記系は道慈にまかせて俺は数学やろ」  数学なら自分のノートを見なくても問題集に答えがある。わからないところは道慈に聞けば良い。  開いたままの国語の教科書の上に数学の問題集を広げた。  気づいたら時間が経っていた。階下から聞こえてくる騒がしい喋り声に、集中の糸が切れる。勢いよく部屋のドアが空いた。今日一緒に勉強する予定だった竹田と石倉だった。三川は塾があるので来ていない。  机に広げた教科書類と筆記用具を床に置いて場所を開ける。 「やっべー、俺何も勉強してねぇ!」  竹田が言いながら角を挟んだ道慈の隣に座った。遅れて石倉が空いた座布団に座る。 「俺も何もやってねぇ。うわ、雪丸が勉強してる」  石倉の目が雪丸の乱雑に数字が書かれたノートに向いた。雪丸はドヤ顔で笑った。 「当たり前じゃん」 「お前もさっき始めたばっかだろ」  道慈が呆れたように言った。 「なぁ、さっきさ、長谷川先輩見たぜ! やっぱ超かわいいよなあの人」  竹田がナップザックから勉強道具を取り出しながら話し出した。その言葉に石倉が頷く。 「すっげースカート短いしな」 「ありがてぇよ本当。サービス精神の塊だよな」  言ってから、竹田が机の上に身を乗り出した。出された教科書は開かれることなく竹田の肘の下敷きになっている。 「そういえば雪丸、お前この前も長谷川先輩に話しかけられてただろ」 「……ああ、怪我のこと聞かれたやつ?」  包帯でぐるぐる巻きの体で登校した日から、それこそいろんな人に大丈夫かと聞かれている。3年生の長谷川にも、すれ違うたびに良くなったかと気にされていた。  そもそも長谷川がいつも一緒にいる制服を着崩した女子の先輩グループは、用もないのにやたらと呼んでくるところがあった。雪丸くーん! そう呼ばれて挨拶すると、こっち向いたとか可愛いとか騒いで、ひとしきり盛り上がってから去っていく。いつもそれをやられてピンポンダッシュでもされたかのような気分になる。 「良いなぁお前! いっつもなんか呼ばれてるし。長谷川先輩に心配までされてさ!」 「お前も顔にあざ作ったら心配してもらえるよ」 「やだよいてぇじゃん」  嫌そうな顔をする竹田の斜め向かいで、石倉がふっくらとした頬を僅かに上気させて両手で頬杖をついた。  大きな身体でそれをやると一気に机が狭くなる。勉強を再開していた道慈が静かに教科書を自分の方に引き寄せた。 「タケ、実はこの前俺も長谷川先輩と話した」 「まじかよイッシー、いつ?」 「この前雪丸といたらさ、先輩たちのグループとすれ違って。イッシーも元気? って聞かれた!」 「えー! 良いなぁ!」 「要はあの人達、雪丸が呼んでる名前を覚えてんだよ。道慈の名前も覚えてるし」 「そしたら俺不利じゃん! クラス違うから。長谷川先輩達が1階通るのって朝と昼休みくらい? 俺お前らのクラス通おうかな」 「そんなに呼んで欲しいならそんな遠回しなことしないで自分から呼べば良いじゃん」  雪丸は心底不思議そうに竹田を見た。 「バッカ、それはちげーだろ! 恐れ多いわ!」 「何で向こうは用もねぇのに人の名前散々呼んでくるのにこっちは呼んじゃダメなんだよ、おかしいだろ」 「おっ前相変わらずだな! 頭怪我してちょっとはネジ締まったかと思ったら全然じゃん! そーいうのは向こうが先輩だから許されんの!」  ヒートアップする竹田に、道慈がついにシャーペンを置いて顔を上げた。 「お前らいつ勉強始めんの?」 「道慈、これはテスト勉強よりも大事だ。俺の青春がかかってるかもしれない」  竹田が真面目な顔で返す。そうして今度は情けない声を出した。 「だってこん中で長谷川先輩に呼んでもらったことないの俺だけだろ? ずるくねぇ?」 「代わりに俺が呼んでやる。タケ、勉強しろ」 「こんなゴリラに呼ばれても嬉しくねぇよ」 「タケ、どんまい」  石倉が竹田の肩を叩いた。 「タケ、喉乾いた」  雪丸が空のグラスを竹田の方に押し出す。 「ああもうむさ苦しいタケはいらねぇんだよ!」  竹田が頭を抱えて叫んだ瞬間、部屋のドアが開いた。 「みんなお疲れ様。喉乾いたでしょ? 道慈ったら竹ちゃんと石ちゃんにお茶出してないじゃない」  お茶をお盆に乗せた京子だった。竹田が背筋を正して座り直す。スナック菓子が乗った皿を見つけて、石倉が急いで机の上を片付け出した。 「ああ、忘れてた。ありがとう母さん」  道慈が立ち上がってグラスを受け取り配り出す。京子はちらとテーブルに目を落とした。教科書が開かれているのは今のところ道慈と雪丸の前だけである。竹ちゃんと石ちゃんもお茶飲んで勉強頑張ってね、とだけ言い残して部屋を出た。  雪丸は急に静かになって教科書を開き始めた竹田をじっと見つめた。坊主頭の下の顔が僅かに赤く染まっている。 「タケってなんで京子の前だと良い子ぶるの?」 「良い子ぶってねぇし」  雪丸は覚えた悪戯心のままに竹田の顔を覗き込む。先ほど頭のネジがどうのと言ってきた意趣返しもある。 「なんか顔も赤くない?」 「赤くねぇし!」 「竹ちゃんは長谷川先輩よりも人妻がいいんだ」  竹田の顔が更に赤くなった。  道慈が眉を顰めて面白そうに笑っている雪丸を睨んだ。 「雪丸、お前人の母親を人妻呼びすんなよ」 「だってタケが京子に興奮してるから」 「いや――」  だからそれを止めろってと道慈が続けようとしたところで、竹田が叫んだ。 「だって、そりゃ興奮するだろ! 道慈の母ちゃん綺麗だもん!」 「いや興奮すんなよ。やめてくれ。頼むから」 「なんて言うの? 大人の色気? 長谷川先輩とはまた違う良さがあんだよ。こう、長谷川先輩がひまわりなら道慈の母ちゃんは椿の花みたいな」 「おい止めろ」  顔を引き攣らせる道慈の前で石倉が頷いた。 「わかる。長谷川先輩がショートケーキなら道慈の母ちゃんはガトーショコラって感じ」 「ああ、長谷川先輩がおかずなら京子は――」  続こうとした雪丸の頬を道慈の手が掴む。 「雪丸、お前本気でぶっ飛ばされたいのか?」  怒った時にしか出ない低い声に、雪丸はそれ以上言うのをやめた。かわりに何で俺だけ、と頬を潰されたままふにゃふにゃと控えめに文句を言う。治りきっていないあざが痛い。 「明らかにお前の例えが度を越してんだよ」  道慈が呆れたように手を離した。雪丸は熱を持った頬を撫でて回復をはかった。 「雪丸、お前そんな涼し気な顔して長谷川先輩のことそういう目で見てたのか……」  先ほどまで鼻の下を伸ばしていた竹田までちょっと引いたような目を向けてくれる。  雪丸は内心で首を傾げた。長谷川があえて校則を破って短いスカートを履いて歩き回ってるのは、男をその気にさせたいからだ。竹田も石倉もそう思っているはずなのに、どうしてこんな目を向けられるのか。  短いスカートがファッションという発想は残念ながら中学一年生の雪丸には無かった。  ふと雪丸は道慈を見上げた。先ほどから思春期の男子の話題に乗ることなく突っ込み一辺倒な幼馴染の内心が気になった。 「道慈は? 長谷川先輩のことどう思う?」 「どうって、普通だろ」 「普通って、長谷川先輩とやりたいって思うってこと?」  雪丸の素直な欲望が部屋に落とされ、竹田と石倉が頬を染めた。 「なんでそうなんだよ、普通に、可愛いとかそういうのじゃねぇの」  言い淀んだ道慈の耳が僅かに赤らんでいる。  中学生らしい道慈の反応は、いつもならからかってやるところなのに何故かその気が起きない。  雪丸はじろじろと道慈の顔を眺めながら頬杖をついた。 「ふうん。可愛いって思うんだ」 「まあ……小さいし」  道慈の目が雪丸の視線から逃れるように逸らされる。  お前から見たら誰でも小さいだろ。そう口の中で呟きながら、雪丸は視線を落としてシャープペンを回した。  ペン先が机にぶつかる度にかつかつと音を立てた。  中間テストは勉強の甲斐あり赤点を取らずに済んだ。数学だけは一夜漬けにしなかったので平均点以上も取れた。雪丸が誇らし気に点数表を見せると、三川にはよくその点数でドヤれるなと引かれたが、竹田と石倉はうわ、負けたと雪丸の少ない自尊心を満たしてくれた。  道慈はちょっとがっかりしていた。 「もうちょっと行けただろ……」 「なんで? 目標達成してるじゃん。もっと褒めろよ」 「目標低すぎんだよ。なんのために俺を巻き込んで徹夜してたんだよお前」 「テスト中眠たくてちょっと寝ちゃった」  もう絶対お前の徹夜付き合わねぇと道慈がぼやいた。    怪我も順調に回復し、部活にも復帰できた。中間テストが終わってからは体力と感覚を取り戻すのに集中していた。実のところ怪我する前より調子は良かった。  家でのストレスが減り、飯も規則正しく食べられるので体力配分の計算をそこまでしないで済む。  帰って部屋が片付いているだけで気持ちが安心した。父親は以前のようにリビングで飲んだくれることなく、自室でパソコンに向き合っている事が多くなった。そのせいか会話は少ないが、夕飯は一緒にテーブルを囲んで食べている。それまでは家では立ち食いする事が多く、ご飯を食べるというよりタスクを済ませる感覚に近かったので、少し変な気分だった。買った惣菜や冷凍食品ばかりで栄養が偏りがちだったので、タンパク質が欲しいとねだったら鶏胸肉を焼いてくれるようになった。調理の仕方が悪いのかパサパサで喉に詰まる事が多いが、あるだけいい。洗濯物も取り込んでおいてくれている。  そして何よりも投げられるようになったのが大きい。復帰後数日様子を見てから、新入生だからと今まで一切させてもらえなかった投球練習が解放された。球数と力の制限は指定されているものの、しゃがんだ道慈に投げるだけで身体と心が歓喜するのがわかった。そう言えばこの悦びのために野球をしていたんだと思い出した。  練習でピッチングできるなら、試合にまでこだわる必要はない。どうせなら投げたいが、それまでみたいに他の投手が登板した練習試合を見てやたらと苛つくことは無くなった。無駄に先輩や監督を挑発したくなる欲求も湧いてこない。ただ、先にベンチ入りした道慈が他の投手の球を捕る度に、なんでそこにいるのが自分じゃないのかという不満があったくらいだ。結局その欲求不満も、練習試合の後に投球練習に道慈を付き合わせたらすっきりと解消できた。他の部員は雪丸のわがままに付き合わされている道慈に同情していたが、むしろ雪丸はこれが本来の姿だと思っていた。  俺は道慈に投げるためにこれまでずっと投げてきたし、俺の球を捕るのは道慈の義務だ。これを忘れていたから、今までうまくいかなかったんだ。  雪丸の傲慢な思考はそう結論づけていた。  この精神面の些細な変化が吉と出たのか、単純に球質を評価されたのか、6月2回目の練習試合で雪丸はベンチ入りを言い渡された。  天気予報の通りに梅雨入りし、4回裏から細かい霧のような雨が降り始めた。新入生の応援が静かな雨を切り裂くようにグラウンドに響く。雪丸はジャンパーを羽織ったまま、静かに手の中の球を見下ろしていた。時折興奮した様子の竹田の尻が膝にあたっても気にならなかった。  不意に監督が振り向いた。神楽、肩慣らしとけ。  その言葉にすぐに立ち上がる。斜め前で道慈も立ち上がった。  次第に雨足が強くなってきたグラウンドの端で、グローブを着けて球を投げる。弧を描いた球が何度か行き来してから、距離を離していく。雪丸がジャンパーを脱いだところで、道慈が屈んでミットを構えた。  バシッ。雨粒を弾きながらミットが音を立てる。  道慈が笑った。久しく見ていなかった、少年のような笑顔。  ああなんだと雪丸は思った。飢えていたのは俺だけじゃなかった。 「雪丸、緊張してるか?」  雨に濡れた短い黒髪が光っている。雪丸はどこか満足そうな道慈の顔を見上げて、にやっと笑った。 「全然。滑って球こぼすなよ」 「誰に言ってんだよ」  分厚い右手が後頭部をなぜた。雪丸はキャップを被り直して走り出した。  久々に立ったマウンドは、雨の匂いがした。  軽く踵で地面を踏み、ロジンを触る。濡れたボールを申し訳程度に太ももで拭った。グローブの中で球の縫い目を指先で確認する。  しんしんと降りしきる雨の向こうにしゃがんだ道慈が見える。濡れたマスクの奥の顔が、打者を一瞥してから向き直る。  5回表4対4、走者なし、一番バッターはインコースが苦手だが、どんな球でも割と当てられる。記憶の中の情報が、道慈と目が合った途端に溶けるように消えていく。  その瞬間、降りしきる雨音も、応援の声も、全て無くなった。自身の呼吸も、心臓の音すら聞こえない。  完全な無音の世界で、あるのは一つ、18.44m先のミットだけ。  息を吸う。胸が膨らんだ。振りかぶる。肩が回る。腕がしなる。  バシッ。ミットが鋭い音を立てる。  先ほどのように道慈は笑わなかった。  返球を捕り、地面をふむ。同じルーティンを無意識の中で行う。  指先でボールの縫い目を確認してから、マスクのむこうの目と合わせた。そんなもんじゃないだろ。挑発的な瞳に口角が上がる。  お前が欲しいもの、全部やる。  だから、お前も俺にちょうだい。  この場所を一生俺に。  膝が上がる。踏み出す。胸が開く。腕がしなる。指先がボールを押す。  雨粒を切ったボールがミットに吸い込まれる。  道慈が片眉を上げて笑った。  試合は4対5の勝ち逃げで終わった。7回表最後の打者を3振で仕留めた瞬間、道慈が立ち上がった。  分厚い手に頭をかき混ぜられ、体が一瞬前のめりになる。至近距離で道慈のきらきらした目と目が合った。雪丸、お前やっぱ最高。その言葉に全身に快感が迸るのを、歯を噛み締めて我慢する。たまらず笑みが溢れた。当たり前。      

ともだちにシェアしよう!