14 / 28

第14話

 あの日の練習試合以来すこぶる調子が良い。数人の上級生にすれ違いざま舌打ちされても気にならない程度には絶好調だった。 「お前、あれなんとも思わねぇの」  隣を歩いていた竹田がすれ違った上級生を振り返りながら言った。  先ほど終わったばかりの体育の授業は2クラス合同だった。選択球技のサッカーの試合中、オーバーヘッドキックを外して派手に転けた竹田は体育着が泥だらけになっていた。 「あれって?」  雪丸は首をかしげた。  何故かお前もオーバーヘッドやれよと無茶振りされ、雪丸は奇跡的にボールを捕えはしたものの、ソフトボールをやっていた女子の尻にボールを当ててしまい死ぬほど謝る羽目になった。  そして案の定着地で失敗して体育着は同じように泥だらけである。 「え、お前あのバカでかい舌打ち聞こえなかったの?」 「あの人たちの挨拶の返事はああなんだよ」 「いやお前にだけだよ」 「中学生活最後の大会で自分が登板して負けたい奴の挨拶はああなんだよ」  舌打ちした上級生の内、3年生の陣内はこの前の練習試合で雪丸と交代でベンチから外れたピッチャーだ。ここまでは分かる。なぜレギュラーの猪狩と、道慈が入ったせいで控えから降ろされた3年生の田岡にまで舌打ちされてるのかは雪丸には理解できなかった。 「雪ちゃん、どうしてこんなに性根がひん曲がっちゃったのかしら……環境が悪いの?」  竹田が頬に両手を当てて高い声を出した。雪丸はちらと横を見て、真顔で応戦した。 「やーねぇ、タケちゃん。アンタだってアタシが女子にボールぶつけた時爆笑してたじゃない。ホントサイッテー」 「だってぇ! 雪ちゃんの焦った顔超面白かったんだもん!」  竹田が思い出したのか笑い出した。 「あの一瞬時が止まった雪丸の顔忘れらんねぇ! だいたいどうやったらオーバーヘッドであんな遠くにかっ飛ばすんだよ!」 「笑い事じゃねぇんだよこっちは。セクハラとか言われるし」 「ひゃはは、間違ってねぇだろ!」  体育の授業の時は雪丸のクラスが男子更衣室代わりになっていた。汗のきつい匂いが天井に設られた扇風機の風によって教室内に循環している。  半裸の道慈が二人の姿を見て呆れたように口を開いた。 「お前ら汚れすぎだろ」  雪丸はさっさと汚れた体育着を脱ぎ、巾着の中に雑に入れていく。  竹田は着替えることなく道慈を指差して笑っていた。 「裸になったらまじで進撃の道慈じゃん」  サッカーの試合中、道慈自身はボールを取ろうとして追いかけていただけなのに、その巨体にびっくりした同級生たちが一斉に同じ方向に逃げ出したために名づけられたあだ名だった。 「誰が進撃だ」  シャツに袖を通しながら道慈が返す。  石倉が女の子走りで走りだすと竹田がきゃーきゃー言いながら転がった。試合の場面を再現しているらしい。 「そろそろ女子戻ってくるぞ」  道慈の言葉に、二人はあわてて着替え始めた。 「あれ、雪丸は?」  先ほどまで側で着替えていた雪丸がいなくなっていた。  三人が視線を移すと、ドアの前にワイシャツ姿の雪丸が控えていた。  女子の集団が教室に入ってくると、目的の女子を見つけて席までエスコートしている。荷物を持って椅子をひいてあげる仕草はまるで執事のようだった。 「ああ、佐藤」 「めっちゃ気にしてんじゃんあいつ」  件の女子――雪丸にボールをぶつけられた佐藤は、もう大丈夫だからと言ってしきりに前髪を整えていた。  雪丸は着席した佐藤の前にしゃがむなり、ほんとに? 湿布とかいる? とその顔を覗き込む。見る間に佐藤の顔が赤くなった。  クラス中の視線が集まっているのにも関わらず、雪丸は全く気にしていない様子だった。クラスメイトの好奇の視線と純粋に心配している目に耐えきれなくなったのか、ついに佐藤が音を上げた。もういいから、あっち行って。  雪丸はその余裕のない表情に、目を瞬いてから笑った。オッケー。呼んでくれたらいつでも運ぶから。それだけ言い残して立ち上がる。  雪丸が席から離れるや否や、佐藤の周りに女子が一斉に集まった。キャーキャーと騒ぐ声が3人にも届いた。 「あいつ中学でもあの距離感なの?」 「たらしめ……」  竹田と石倉は茶化すのも忘れて呆然としていた。 「タケ、授業始まるぞ」  道慈の言葉に竹田がやべっと声を上げて着替えをかき集めるなり走って教室を出た。  リビングのテーブルに置いてある回覧板を見つけて、雪丸は父親の部屋をノックした。最近父親は仕事が忙しいのか、部屋に篭りきりだった。夕飯も後で食べるから先に食べていろと言われることが多くなった。  ノックしてもドアが開かないのはいつものことだった。集中したいので鍵をかけているそうだ。 「回覧板読んだんなら回しとくけど」 「ああ、頼む」  ドア越しのこもった返事が聞こえてきた。  父が酒浸りだった時、数週間回覧板を回していなかったら近所から苦情がきた。それ以来回覧板に「読んだらすぐに回しましょう」「騒音に気をつけましょう」という張り紙まで貼られるようになった。どうやら自分たちの怒鳴り声が外にまで響いていたらしい。  数年前から隣の家には若い夫婦が住んでいた。旦那が単身赴任で話し相手がいないらしく、嫁の方は会うたびに何かと話しかけてきた。騒音の一番の被害者のはずだが、直接それについて苦情をもらったことはない。それどころか母が亡くなってからは回覧板を回しに行くといつも必ずおかずやお菓子を持たせてくれる。話し相手が欲しいというのは建前で、同情されているだけなのかもしれない。  理由がなんであろうが、手作りの料理はありがたい。雪丸が父に回覧板を任せず自ら渡しに行こうとしている理由だった。  いつも通り回覧板を回しにいくと、おおげさに喜ばれ、お菓子あるわよと家に誘われた。雪丸はどの年齢層だろうが女性に優しくされるのが好きだった。昔から女好きとは母に言われていたが、母が亡くなってからは特に愛情に飢えていたのかもしれない。隣人のふくよかな体型はどこか亡き母を彷彿とさせた。  ただ話を聞くだけでなんやかんやと褒められて食べ物をもらえる。気分がいいし楽だし、不思議と心のどこかが満たされる。  だからその先があることなんて予想していなかった。  寝室の間接照明を新しくしたの。誰かに見て欲しくて。そう言われてついていった寝室のダブルベッドの上に自然と二人で座った。ぼんやりとした茶色の光が暗い部屋の中に二人の影を作る。この時点で中学生男子の頭にはもうそっちのことしかなかった。  とどめを刺すかのように左手にそっと柔らかい手のひらを重ねられたら、雪丸は考えるより先に口に出していた。いいの? 中学に入ってから使い始めていた敬語も、使うのを忘れていた。  女が微笑んだ。弾力のある肩を押し倒す。俺、初めてだから下手かも。ベッドに沈んだ女を見下ろすと、女がにっこりと笑って頭を撫でてくれた。全部教えてあげる。  女はとにかく要求が多かった。これをやれあれをやれと言われて一瞬部活を思い出したくらいだ。しかしその要求に応えるのは不思議と苦ではなかった。良い子ね、と褒められると、いくらでも頑張る気力がわいた。欲のままに動きそうになる度に、女にダメよと言われて我慢した。女の子が先じゃないとダメ。全部教えてあげると言う言葉の通り、女の教育は徹底していた。  暴走しそうになるとダメよの一言に止められて、褒めて欲しくてひたすらに頑張る。その繰り返しでいつの間にか夜が更けていた。  帰り際、女がいつも通りタッパーに入ったおかずを持たせてくれた。それからこれ、と左手を取られた。女は雪丸が右手を触られるのが苦手なことを知っているみたいだった。  左手に握らされた五千円札を見て、雪丸は呆然とした。 「……くれんの?」 「うん、友達と遊んだりするでしょ?」  その代わり、今日のことは誰にも言っちゃダメよ。念を押すように言われて、雪丸は無言のまま頷いた。  雪丸は玄関を出て、手の中を見下ろし愕然としていた。  父親が酒浸りだった時、あんなに手に入れるのに苦労した金がこんなにも簡単に、良い思いをしたら手に入った。  時折隣人の家に訪れるようになってしばらく経った日だった。部活終わりのミーティングで、夏の大会の地区予選のメンバーが発表された。ピッチャーは先発が2年の平良、抑えに雪丸が選ばれた。道慈はスタメンに選ばれていた。  試合で投げると道慈のテンションが上がるので、雪丸も釣られて上がる。普段はあまり表に出ない道慈の自信と傲慢さが、試合という場で露わになる瞬間が好きだった。  投げる場所が試合かどうかが重要じゃないのは雪丸だけで、道慈は試合が好きなのだ。なら、やっぱり俺にとっても試合は重要なのかもしれない。  ぼんやりとそんなことを考えながらいつも通り冷蔵庫を開けると、普段は父親が買い置きしてくれている惣菜がなかった。最近は3日に1回くらいしか買い物に行っていないようなので、惣菜を冷凍していることもあった。  しかし冷凍庫を開けても何もない。  急に、この家の静けさに違和感を覚えた。  そういえばもう何日も父親と顔を合わせていなかった。隣人のほうがよほど顔を合わせているほどだった。  流石に生きてるよな、と雪丸はちょっと不安になった。父親の部屋の前に立ち、ノックする。返事がないのでドアノブに手をかけると、意外にも鍵はかかっていなかった。  ドアが開いた瞬間匂ってきた異臭に顔を歪める。公衆便所と酒の臭いが混ざったような、鼻をつく臭い。  部屋の電気は付いておらず、パソコンの青い光が部屋を照らしていた。オフィスチェアに腰掛ける父親の後頭部のシルエットが床に影を伸ばしている。それがふいに、リクライニングしながらこちらを向いた。 「お前なぁ、入ってくんな」  背もたれにもたれたまま逆さまになった顔は、誠実な父親を演じる父の顔ではなかった。見慣れた僅かに熱った酔っ払いの顔貌。普段と違う間延びした声も知っている。  雪丸はやっと気づいた。部屋に篭りがちになっていたのは、隠れて酒を飲むためだ。証拠にデスクの下には大量の酒の空き瓶が置いてあった。いくら酒浸りとはいえ、とても一日そこらで飲める量ではない。 「親父酒、やめたんじゃねぇの……何だよこの臭い」  約束が違うと責める衝動が湧いてこない。逆に身体から力が抜けていくのを感じた。部屋でしてはいけない臭いがするからだ。 「お前がいると俺は便所も行けねぇ」 「は? うっ」  部屋に踏み出した足が冷たいものに触れた。床が濡れている。父親の言葉を処理するのに時間がかかった。遅れてその正体に気づく。 「嘘だろ……」  並んだ焼酎のボトルは蓋がされていなかった。そこから漏れた液体を踏んだようだ。中身は酒ではない。 「父さんなぁ、お前と顔合わせるのが恥ずかしくて、部屋から出れなくなっちまった」  パソコンに向き直った父親の顔は見えなかった。  父の言葉を理解しようとしてもできなかった。ただ脇の下に汗が滲むのを感じていた。 「何言ってんだよ」  問いかける声が震えた。 「お前はしらねぇだろうがなぁ、お前の言葉は人を傷つける」  雪丸は口を開こうとして、言葉を飲んだ。意味わかんねぇ。こっち向いてちゃんと話せよ。酒やめたんじゃなかったのかよ。  肩を掴んで目を合わせてそう言うべきだったのに、雪丸は何も言えなかった。この部屋の異常性に言葉が出せなかった。  部屋のドアを閉める音が静かな廊下に響く。  閉まったドアを茫然と見つめてから、濡れた靴下に目を落とす。 「うっ」  込み上げてきた吐き気に、トイレに駆け込んだ。便器に縋りついて吐き戻す。口の中に酸味のある味が広がった。出てくるのは胃液ばかりだった。当たり前だ。昼飯を食べてから6時間以上経っている。  家で静かに実の親が壊れていっていることに、今日気づいた。  カビの生えた便器を見下ろしていると、父親が言った一言一言が頭に浮かんでは消えた。  ──お前と顔合わせるのが恥ずかしくて  ──お前の言葉は人を傷つける  濡れた床と逆さまの父親の顔、並んだ酒瓶。鼻をつく悪臭。まるであの状況すべてが一人の悪者によってつくりあげられたとでも言うかのように。 「靴下、洗わないと……」  掠れた声がポツリと便器に落ちた。トイレの床が埃だらけなのも、今膝をついてはじめて気づいた。掃除なんてとっくの昔に父親はやめていたのだ。飯だけは買い足して、洗濯物も取り込んで、なんとかバレないようにこそこそ酒を飲んで。ドア越しに声をかけられても普通の声を出して。そしてついに酔いが回ってそれすら出来なくなったのが今日。  誰が悪いんだ。雪丸は洗面所で靴下を洗いながら俯いた。黒いソックスから砂混じりの水が流れていく。ソックスを擦り合わせる手が震えた。  ちょうど数週間前この脱衣所で父親と取っ組み合った。今はそうすることもできなくなった人間が同じ家にただいる。父親の仮面を被ることもやめた、ただの弱い人間が。  誰が悪いんだ。逆さまの自分によく似た顔が頭の中で問いかけてくる。  俺かよ。全部俺が悪いのかよ。  雪丸は耐えきれず、洗面台に手をかけてしゃがみ込んだ。くすんだ色の床が見えた。    

ともだちにシェアしよう!