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第15話

   何が正しいのかわからなくなった。考えても考えてもわからなかった。一睡もできない夜は人生で初めてだった。  代わりに授業を全て寝て過ごし、気づいたら昼休みになっていた。 「お前寝すぎだろ。今日起立と礼しかしてねぇぞ」 「うん……」  昼休みに昼ごはんをたくさん食べたら尚のこと眠くなり、道慈の言葉に話半分で答えながら机に伏せる。 「雪ちゃんなんかあったの? 試合不安になっちゃった? 俺が変わる?」  竹田の声が聞こえた。なんでこの教室にいるんだ。雪丸は思いながらも、起き上がる気力が湧かず、目すら開かずに答えた。 「予選程度で不安になるかよ……寝溜めするからどっか行って」 「でも今日、長谷川先輩お前に会いに来るってよ」 「長谷川先輩……? なんで」 「なんか話があるんだって。雪丸君に言っといてって言われちゃった」 「話せたんだ。よかったじゃん」 「タケって言われちゃった」  正直死ぬほどどうでもいい。開いた目を再度閉じる。 「今日は忙しいって……言っといて……」 「え? 寝んの? 長谷川先輩が会いに来るのに?」  竹田が何やら騒いで道慈に宥められているのが遠くの方で聞こえる。  家の中より騒がしい教室のほうがよほど寝やすかった。  結局目が覚めたら1日が終わっていた。授業をほぼ寝て過ごしたお陰で眠気はマシになっていた。ただ頭が重たいだけだ。担任の連絡が終わった瞬間荷物を持って立ち上がろうとした。その時だった。  神楽はこの後職員室こい。担任が真顔で言った。  思わず後ろの席の道慈を振り返る。バカ。口の動きだけで言われた。  内容は予想通り授業を寝て過ごしていたからだった。各科目の先生からどれだけ起こしても起きないと報告があった。担任が難しい顔で腕組みしながら言った。  雪丸は手を背中で組んで立ちながら、斜め前から感じる視線に額に汗が滲むのを感じていた。刺すような視線の正体は監督だった。頭は重いが状況の悪さは流石に理解できる。赤点を取ったら試合に出させない程度には監督は学生の本分を重視していた。 「家で寝てないのか?」 「昨日は、寝れなくて」 「なんかあったのか?」  初老の担任は決めつけで怒るような教師じゃなかった。しかしそのせいで部活に行く時間がじわじわと遅れていく。 「何も……いや、試合に出れるのが嬉しくて、興奮して寝れなかったです」 「試合って部活の?」  担任の目がちらりと監督の方を向く。監督の厳しい視線が僅かに柔らかくなった気がした。 「そうなんですか、関口先生」 「ああ、昨日ちょうどメンバー発表だったんです。どうやらうちの神楽が迷惑かけたみたいで、すみません」  監督が待ってましたと言うかのように担任の言葉に頷いた。 「野球部で1年が試合に出れるってなかなかすごいことなんじゃないか」  野球の素人の言葉に、雪丸は一瞬その話今する必要ありますかと聞きそうになった。さすがに自分からこの話を振っといてそんなことを聞いたら監督に張り倒される。 「はい、だから嬉しくて……」  精一杯健全な野球少年の顔を作る。そもそも健全な野球少年なはずなのに、なぜわざわざその振りをしなきゃいけないのか。 「それもわかるがな、授業はちゃんと起きろ。今回はまあしょうがないから大目に見るが、次は無いぞ。ねぇ、関口先生」  やめろ、関口に振るな。雪丸は心の中で担任に突っ込みながら頭を下げた。 「以後気をつけます! サーセン!」  職員室中に響くような声に担任が苦笑いした。返事はいいんだよな、野球部は。呟いてから、デスクの上の束ねたプリントの角を整え始めた。 「あとお前な、家庭訪問の日程希望調査まだ出してないだろ。期限今日までだぞ」 「あ……」  解放されてると思っていたのに、更に別の話題だ。しかも今一番聞きたくない話だった。  確か一週間前ごろに家庭訪問のプリントを配られて、父に渡した。正確にはリビングの机に置いといてくれと言われ、置いといたら翌日回収されていた。  あの時からすでに酒は再開していたのかもしれない。  そもそも家庭訪問なんてできるような状態じゃない。他人が入れる家の状態でもなければ、父親が他人と普通に関われるのかもわからなかった。  どうする気なんだろうか。期限を見ていなかったのだろうか。それとも回収したは良いがプリントの存在は酔っ払って忘れてしまったのだろうか。 「……父から言われてるんですけど、仕事があるので無理だそうです」 「いや無理って……。本当にお父さんがそう言ったのか?」 「はい」 「無理だとしてもプリントはちゃんと提出してくれないと。全部プリントに書いてあっただろう。日程以外の日で希望があれば聞くから。もう一回書いて提出してもらえ。今週中だぞ」  そもそも一度あの部屋に入ってしまったプリントが今無事なのかわからない。雪丸はため息が出そうになるのを抑えた。 「……わかりました」  帰ったらプリントを持っているのか父に聞いて、無かったらまた担任からもらうしかない。またあの部屋をノックしなきゃいけないというだけで気が重くなる。 「最悪土日でも良いから」  断る選択肢が削られていく。  そもそも先月家族揃って病院に運ばれた生徒の家だ。検査で学校を休んだ日、父が学校に濁して怪我をしたことを連絡してはいたが、怪しまれるに十分な要素は整っていた。頭部外傷に顔面の打撲、足と背中の切り傷。登校した後も何度も担任になんの怪我か確認された。  棚から瓶が落ちてきて親子二人でずっこけたという説明にあまり納得していない様子だった。  それでも投げれば嫌なこと全部その瞬間は気にしなくていい。まるでボールと身体が一体になったかのように、ただ投げて、ミットにボールが収まり、そして返ってくる。  この動作の繰り返しに毛羽だった心が落ち着いていく。余計なことは考えなくていい。ただ道慈のミットに投げるだけでいい。そしたら道慈が球を捕って、返してくれる。これだけのために生きればいい。  部活を終えて家に帰ると、案の定冷蔵庫の中には何も無かった。干しっぱなしの洗濯物を取り込み、服を着替える。この後道慈と軽くランニングする予定だった。淡々とやるべきことをこなしてから階下に降りた。  父の部屋のドアの前だけ、空気が淀んで見える。プリントの件について聞かなければならなかった。ランニング後でも良いかと後回しにしようと思ってから、ダメだと思い直した。また寝付けなくなったら困る。  ドアをノックしても返事はない。  ドアノブに手をかける。ドアノブにかけた手が動かない。代わりにかたかたとドアノブが音を立てた。手が震えているのだ。部屋の中を見るのが恐ろしかった。 「親父、家庭訪問のプリント今日までだったんだけど」  仕方なくドア越しに声をかける。部屋の中からごそごそと音が聞こえてきた。  しばらくしてドアの下の隙間から、プリントの角が出てきた。それを摘み上げて拾うと、案の定湿っていた。 「……っ、」  込み上げる吐き気を飲み込む。  異臭を放つそれを人差し指と親指でつまみ上げたまま、内容を確認する。  滲んだプリントの調査欄は空白だった。 「日程合わないって言うけどそれで良いよな?」  返事がない。 「担任から電話きたら対応してくれよ」  がさがさと物音が聞こえて、そのあとは無音になった。  返事くらいしろよ。思いながらも、前回父が酒浸りになってた時のように苛立ちが湧いてくることはなかった。  以前なら、要件を言ったら、すぐに飯は? と聞いていただろう。そしてまともな返事がなければ苛立ちのままに金をよこせと簡単に言えた。なのに今はそれができない。  きっとドアに鍵はかかっていない。酔っ払った父は鍵をかけないからだ。  だから雪丸が無理矢理部屋を開けていつものように財布から金を奪えば、きっと金が手に入る。  現実は、それを確かめるのが怖かった。もし鍵がかかっていたら。もう父親は、雪丸が飢えて死んでもなんとも思わないのかもしれない。  金なら隣人からもらっている小遣いがあった。飢えることもないから、雪丸は確かめる勇気すら失っていた。  プリントをキッチンのゴミ箱に捨てる。そして何度も手を洗った。一度じゃ足りず、二度三度と石鹸を使って手を洗った。  名前のつけられない感情が胸を渦巻いて吐きそうだった。気持ち悪い。これが多分一番近い。雪丸はそう自分に言い聞かせた。自分の親が気持ち悪い。  知ってるはずの感情から必死に目を背けた。  悲しんだら、もう立っていられなくなる。  日中は気温が上がってきたが、日の落ちた後の公園は木々の間を通る風もあって涼しかった。細長く伸びた街灯の影の横に、大きな影が並んでいる。待ち合わせしていた道慈だった。  会った瞬間顔を覗き込まれた。 「雪丸、お前大丈夫か?」 「何が?」 「顔色悪いけど」 「ああ、寝不足だからじゃない」  薄暗い中でもわずかな変化に気づいた相方に驚きながらも、わざとゆっくりとした口調で返す。  軽く股入れして、アキレス腱だけ伸ばし、舗装された道路の上を走り出す。 「メンバー選ばれて浮かれて寝れなくなったから?」 「なんで知ってんの」 「監督が言ってた」 「大人って口軽いな」  道慈の視線がこめかみに刺さるのを感じた。疑われている。道慈は雪丸がそんなことで眠れなくなるような神経の持ち主じゃないことを知っていた。いつもなら簡単に出てくる軽口が思い浮かばない。  雪丸は気づいたら口を開いていた。 「なぁ、道慈は俺の言葉に傷ついたことある?」 「傷……?」  道慈が首を傾げた。 「ムカつくことはいくらでもあるけど……傷まではねぇな」 「だよな」  雪丸には不思議だった。  取り返しのつかない傷を負っている人間もいれば、これだけ一緒にいるのに全く傷ついていない人間もいる。この差はなんだろう。ただ遊んだり、同じ目標に向けて頑張るだけの友人関係と、明らかな義務が伴う親子関係を一緒に考えてもしょうがないのかもしれない。  何故実の親が子どものなんの気ない一言にあそこまでまで傷つくのかわからなかった。もう一度過去に戻ったらあの言葉を投げかけないかと聞かれたら、絶対にもう一度言うだろう。  だって本心だから。 「早く家出てぇな」  早くあの家を出て、一人になりたい。あるいは早くあの家を出ないと、いつまで父親が持つのかわからない。 「また喧嘩したのか」 「いや」  実際は喧嘩にもなっていない。 「中学生って一人暮らしできねぇのかな?」 「できないだろ」 「ずりぃよな、大人は自由にできんのに」  それこそ家に引き篭もろうがどこでトイレしようが自由だ。あそこはもう引きこもりの王国だ。雪丸がいるべき場所ではないのだ。そこまで考えてから、逆かと思った。自由じゃないから引きこもってるのだ。リビングにいれないから引きこもってるのだ。  他でもない雪丸がいるから。 「今日泊まってくか?」 「いや、いい」  道慈は何も聞かずに家に迎え入れてくれる程度にいつも優しい。こうやって断り続けたら、いつか誘ってくれなくなるかもしれない。  道慈と別れた後、雪丸は隣人の家を訪ねた。隣人は何も聞かずに家に迎え入れてくれて、晩御飯を振舞ってくれた。それからいつも通り寝室に足を運ぶ。  最近隣人の要求が少しエスカレートしている気がしたが、雪丸は大人ってすげぇなくらいにしか思っていなかった。  気づいたらありえないところをいじめられて、身も世もなく頭を振り乱すはめになることもあった。だが、今の雪丸にはそれが好都合だった。何も考えたくないから、何も考えられなくなる行為はありがたかった。そして雪丸が素直に言うことを聞けば、女はたくさん褒めてくれた。  何度ももう一回とねだって、ついに女が今日はおしまいと切り上げた時、雪丸は女に頼んでみた。今日泊まって良い? 柔らかい肌から離れがたいのはいつものことだが、いつも以上に離れがたかった。  答えはわかっていた。ダメよ。赤い唇がしっとりと笑う。雪丸は女のダメに逆らえたことがなかった。いつもより多めの小遣いを握らされて、家を出た。  目覚ましを止めながら布団から起き上がる。昨日よりは早く寝付けたが、気分的にはほとんど寝ていないに等しい眠気だった。  缶コーヒーを飲んで朝練習は何とか乗り切ったが、終わった瞬間眠気が来た。自分の席に着くなり机に伏せる。少しでも寝ないと、部活が持たない。 「雪丸お前昨日も寝れてないのかよ」  道慈の呆れたような声が降ってくる。 「夕練までには復活するから……」  そう言って寝ようとした瞬間、隣から声が聞こえてきた。 「雪丸バカだな、授業中伏せて寝たらそりゃ呼ばれるって」  声の主は石倉だった。雪丸は腕を枕にしたまま振り向いた。 「……どういうこと?」 「背筋真っ直ぐ立たせて寝るんだよ。黒板に顔向けたまま」 「……なにそれ。顔でバレねぇ?」 「俺それで呼び出されたことねぇもん。政治家も国会でよくやってるだろ」 「イッシーお前天才かよ」  試しに雪丸は背筋を立たせて黒板に向き直り、目を瞑った。 「こんな感じか」 「そうそう。ヘドバンだけ気をつけろよ」  確かに、体を起こしたまま寝入ると、頭が前後にカクカクと揺れてしまう。雪丸は後ろを振り向いた。 「ヘドバンしたら起こして道慈」  道慈が呆れた顔をしていた。 「イッシーは目小さいからバレないかもしんないけど、お前は明らかに目瞑ってるのバレるぞ」 「目蓋に目書くか」 「書いてやるよ」  石倉が雪丸の目蓋にサインペンで目を書き出す。近くの女子がそれを見て笑っている。 「どう?」  振り向いた雪丸が目を閉じる。そこにはやたらキラキラした瞳が描かれていた。道慈が吹き出した。 「逆に目立つわ」  その日雪丸は何度も教師に二度見されながら1日を終えた。  

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