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第16話
試合前の調整のため、普段より練習が早く切り上げられた。体力を使い切ることもなく、何人かの部員は自主練習してから帰路についた。
雪丸は少しだけ道慈とキャッチボールしてから部室に戻った。いつもと違い、すし詰めになっていない室内は空気がこもっていない。教室に物を取りに行くという道慈を三川と雑談しながら待っていた。
「この前成績思ったより低かったから、母さんめちゃくちゃ怒ってさ」
三川がうんざりした顔で言った。
雪丸はシャツのままベンチに寝転がっていた。天井に向かってボールを投げながら、ちらとその顔を見る。
「お前成績良かったじゃん」
「そりゃお前よりは大概の奴がいいよ」
褒めたのにも関わらず貶された。まあその通りだけど。雪丸は黙って話を聞いた。
「今から勉強しないと高校受験間に合わねぇから部活やめた方がいいとか言い出して」
「あー、カワの母ちゃんそういうのちゃんとしてそうだもんな」
雪丸は三川の母親を思い出した。ジュニアの時挨拶したことがある三川の母は、楕円の眼鏡をかけていた。神経質そうな顔をしていて、いつも髪をお団子にきっちりとまとめていた。
昔から三川を遊びに誘っても塾だからと断られることが多かった。
「普通受験勉強なんて部活終わってからなんだよ。3年の先輩達だって勉強全然してねぇじゃん」
「今部活辞めたってずっとは勉強できねぇだろうしな」
「そうそう。勉強ばっかの中学生活とかクソだろ。わかってねーんだよ、母さんは」
「確かに、わかってねーな」
灰色の天井に大きなシミを見つけた。ぼんやりとそれを眺めながらボールを取る。
「雪丸は成績なんも言われねぇの?」
「言われねぇ」
母親がいた時も勉強や宿題をしろと言われたことはあまりなかった。小学生の時宿題をやらなすぎて担任に親を呼び出された時は流石に言われたが。
「雪丸んちって結構放任だよな。良いなぁ」
良いもんかよと雪丸は内心でぼやいた。
ここまで放任されてしまったら生きるのも一苦労だ。
俺だって多分、何も求められていないわけじゃない。強いて言うなら父の目の前から居なくなることを求められている。
中学3年間が終わったら、お望み通り家から消えてやる。それが最大限の親孝行だろう。
雪丸が三川の強要される苦悩を全く理解できないように、三川もまた雪丸の苦痛は理解していなかった。
「あ、わかった」
雪丸は思いつくままにしゃべった。
「お前の母ちゃん内申点好きだろ。お前3年になったらキャプテンやったら良いじゃん。キャプテンって内申良いらしいぜ」
「やだよキャプテンなんて……副ならまだしも。それに部長はどうせ道慈がやるだろ」
「また道慈かよ」
少年野球では確かに道慈がキャプテンをやっていた。雪丸は道慈がキャプテンをするのがあまり好きではなかった。キャプテンだからって必要以上にみんなが道慈を頼りだすからだ。道慈もそれにいちいちちゃんと答えるので、なおのこと頼られる。それが雪丸は面白くなかった。
「お前がやれば良いじゃん。道慈より向いてるよ」
すこし臆病なところがある三川は本人の言う通り副キャプテンくらいがちょうど良いと内心では思いながらも、雪丸は真逆のことを口にした。
「ええ、そうかなぁ」
三川もまんざらでもない顔をしている。そうそうと雪丸は笑った。正直キャプテンなんて道慈か監督に物言えぬ能無しじゃなきゃ誰でも良い。その点三川はビビリだが理論武装はできるので及第点は超えている。
二人が気の早いことを考えている時、ばん、と乱暴に建て付けの悪いドアが開いた。
「シャース!」
突然現れた上級生の姿に、ベンチから立ち上がり二人して挨拶する。上級生はとっくに帰っていたと油断していた。
忘れ物でも取りに来たのか、3年の陣内は部屋に入るなりロッカーを漁り始めた。
「1年のくせにベンチ入り確定した翌日に遅れてくるとか、舐めてんだろ」
吐き捨てられた上級生の言葉に、びくりと肩を揺らしたのは雪丸では無く三川だった。
独り言かと思い、反応しないまま雪丸が窓を見て髪を整えていると、三川に太ももを叩かれた。何か返せとその目が言っている。
「……俺の話ですか?」
仕方なく聞き返す。
「お前、ちょっと調子乗りすぎだろその態度」
三川が口パクで謝れと言ってくる。遅れたのなんて昨日の話だ。それもグラウンドに着いた瞬間に大声で謝罪している。
「担任に呼び出されて遅れました。それが何か?」
「それが何かだと? お前の行動がみんなのテンション下げてんのわかんねーのかよ」
「みんなって陣内先輩のことですか? そりゃテンション下がりますよね。すみません、俺がメンバー選ばれちゃって」
三川がぶんぶんと首を横に振った。謝るのはそこじゃねぇ! もはや小声で叫んでいた。
「おい、お前、二川だっけ。ちょっと出てろ」
陣内が額に血管を浮かせながら三川を振り向いた。
「三川です。いや、えっと……」
三川があせったように雪丸を見る。
「カワ、先帰ってていいよ」
手を振ると、三川が口を引き攣らせた。でも、と三川がためらう。先輩の前でこんなに煮え切らない態度を取るのは珍しい。それだけ陣内の様子が尋常じゃないようだった。
雪丸は最近尋常じゃない人間を見過ぎて、そこら辺の回路が鈍くなっていた。寝不足というのもあった。
ただ、ビビリの三川を先輩の説教に巻き込んだら、またあとでぴーぴー文句を言われる羽目になるので、それだけが気になっていた。
「三川テメェ先輩の言うこと聞けねぇのか? 出てけっつってんだよ!」
ついに怒鳴られ、三川が慌ててカバンを手に取りドアに引っかかりながら出て行った。
二人きりになった部室の中で、陣内がトレーニング用のチューブを取り出した。
「前から思ってたんだけどよ、お前みてぇなのは一回教育しないとな」
部室のドアが開き、さらに2人の上級生が入ってきた。
猪狩と田岡だ。ドアの鍵が閉まる音が部室に響いた。
出口を塞がれた。この状況は流石にまずい。雪丸はここにきて初めて危機感を覚えた。
昨日の練習中、2年のピッチャーの平良に言われたことが何故か今頭をよぎった。お前目立ちすぎ。そのうちしばかれるぞ。その神妙な顔が妙に記憶に残っていた。
「まじかよ……試合前だぞ?」
「おい敬語はどーした敬語はぁ!」
上級生の怒声と共に、腹部に鈍い衝撃が走った。かはっと、喉から空気の塊が漏れる。雪丸の腹部を蹴ったのは陣内の足だった。腹に走った痛みに、こんなにも簡単に選手の身体を蹴れるものなのかと驚愕する。
衝撃に愕然としている間に、両腕を体格のいい田岡に後ろから捕えられ、自由を失う。右肩に回った腕の不快さに我に還り、肘を振り回す。それが顔面に当たったのかより一層強く抑えられた。
「テメェクソガキ!」
再度腹を蹴られて痛みにえずく。もう驚きは無くなった。あるのは容赦のない痛みだけだ。
油と土の匂いがするウェスを口の中に突っ込まれる。先ほどグローブを拭いていたものだった。まるで人間として見ていないかのような扱いに顔から血の気が引いていく。
声が奪われたのに遅れて気づいた。
慣れてやがる。
にやにやと笑う複数の目が見下ろしてくる。必死にまずい布切れを口から出そうとしても、一層奥に突っ込まれるだけだった。
逃げられない。その事実に耳鳴りがしてくる。
猪狩は陣内からチューブを受け取ると、雪丸の首にかけた。2個目までボタンの開いたワイシャツの中、ハイネックのアンダーの上に真っ黒のチューブが撒かれる。
「ぐっ……! んんっ――!」
首の前で交差したチューブが引っ張られる。首が締まり、酸素が奪われる。苦しさに暴れる身体が後ろから圧倒的な力で抑え込まれる。
笑い声が耳に入ってくる。
「調子乗ってるとこうなるって覚えとけよ」
「良い顔だなァ、神楽ぁ。え? 何がメンバー選ばれてすいませんだよ」
先輩、傷ついちゃったなぁ。酸欠で赤く染まり始めた雪丸の額から頭にかけて、陣内の汗で湿った手のひらが撫でていく。チューブはしまっていく一方だった。
朦朧とし始めた意識の中で、逃げられないと悟った瞬間に消えかけた何かに、再び火がついた。
全身に鳥肌が立つほどのそれは、腹の底からの怒りだった。
――先輩、傷ついちゃったなぁ
――お前の言葉は人を傷つける
聞きなれた声が耳の奥に蘇った。しつこく囁いてくる声に頭を振る。
うるせえ。うるせえ! うるせぇんだよ!
ひゅうっとウェスの中で喉が音を立てた。目からぼろぼろと生理的な涙が落ちていく。
「はは、泣いてら」
「顔が自慢の神楽くん、台無しだぜ」
「おい、ちょっと緩めろ死ぬぞ」
笑い声の後に、チューブが緩まり一気に呼吸が再開する。しかしウェスに邪魔されてうまく酸素を取り込めずにむせる。腰を折りたくても後ろから抑えられている手に邪魔されて満足に息のしやすい体勢も取れない。
「がはっ、がふっ……んぐ、」
「ほら、すみませんは? 今まで失礼なことばかりしてすみませんでしたって言えよ」
猪狩の手にウェスを取られ、雪丸は血走った目を陣内に向けた。
「っにが――ごほっ、」
「早く言え」
まるでサンドバッグでも殴るかのように腹を殴って謝罪を促され、痛みが怒りに変わる。
「何が、げほッ――何が、傷ついただよ! 傷つく奴が悪ぃだろうがよ! 弱ぇ奴は全員死ねよ!」
叫びにも似た怒鳴り声が部屋の中に響き渡る。
乾いた喉で無理矢理声を張り上げたせいで、半分掠れた声は怒りに満ちていた。喉が切れたのか、血の味がしても雪丸は気にならなかった。
反抗的な下級生の目に、上級生の顔が歪む。
チューブが再び締まり、ウェスが喉奥深くに突っ込まれる。苦しさにむせても口の中の異物に唾液を吸われるばかりだった。
酸欠にもがきながら、悔しげに歪んだ二つの顔を目をかっ開いたまま睨み続けた。
「がほっ、ぐっ」
全員死ね、死ね、死ね! 被害者面するだけの何もしねぇ役立たずはみんな死ね!
苦しさに頭が満たされても怒りが消えない。頭の中に自身の叫び声がこだましていた。
ガンガンとドアの叩く音がして、暴行の手が止む。ウェスを突っ込まれた口を上から分厚い手に抑えられる。雪丸は狭まった視界の中で空っぽのコップを啜るストローのような音を立てている自身の呼吸音を聞いていた。
「おい、何してんだ! 開けろ!」
「あ? この声伊佐じゃねぇか?」
「ちょうど良い、伊佐にもやらせようぜ」
「バカ、やめとけあいつ有段者――」
陣内の言葉に田岡が否定した瞬間、部室のドアが蹴破られた。建て付けの悪かったドアの蝶番が片方外れる。
「何やってんすか……!」
部室に入ってきた道慈が一瞬状況に唖然とする。そして我に返った瞬間大股で部屋の中を進み、田岡の襟首を掴んで雑に退けた。
ようやく解放された雪丸は、むせながら口の中のウェスをコンクリートの床に吐き出した。唾液と共に土色に汚れたウェスがぼとりと落ちる。
雪丸は四つ這いのまま、手探りでバットスタンドから誰かのバットを掴んだ。
「ごほっ、道慈……そいつ抑えとけよ……」
バットを支えにして立ち上がる。血と土の味が混ざった唾をコンクリートの床に吐き捨てた。怒りに支配された体は、自由を手にした瞬間全身の痛みを忘れた。
このクソデカブツ。ぶっ殺してやる。振りかぶったバットを田岡の脳天に落とす。田岡が一瞬遅れて手で頭を庇ったのが見えた。
頭をかち割る勢いのバットはしかし、丸太のような腕に止められた。
「は? 邪魔すん――ぶへらぁっ」
皆まで不満を口にする前に、頬に衝撃が走りベンチに前から倒れこむ。からんころんと手から離れたバットが床に転がった。
干した布団のような形で蹴られまくった腹がベンチに押されて、雪丸は痛みに呻いた。
「ぐっ……どうじ、てめ……!」
これには上級生も唖然としていた。友人のピンチに駆けつけたと思われた男が真っ先に助けた友人をビンタしたのだから当たり前だ。
「バットは人を殴るもんじゃねぇ」
引っ叩いた張本人は凛々しい眉を顰めたままぴしゃりと正論を口にしている。
そのまま道慈は掴まれたままの襟首を振り払おうとしている田岡の頬にも張り手をお見舞いする。鈍い音と共に田岡の首が勢いよく回り、そのまま膝から床に頽れた。
歩み出した道慈に、陣内と猪狩がわずかに下がる。
「おま、先輩だぞ……!」
猪狩の声は震えていた。道慈の手は容赦なく猪狩の頬も張り倒した。陣内に至っては言い訳している最中に引っ叩かれ、舌を噛んだのか声にならない声を上げて床に崩れ落ちた。
ただ一人を除いて全員が床に沈んだ部室の中で、道慈は怒りに拳を震わせていた。
「あんたら何してんすか! 小学校上がりたてのガキ相手に試合前に……分別がねぇにもほどがあんだろ!」
道慈の怒声が静かな部屋に響き渡る。雪丸がベンチからおり、ずるずると床に座った。
誰も反応しないのを認めて、道慈が訝しげに眉をしかめた。
「……聞いてんすか?」
雪丸は全身の痛みと張り手による脳の揺れでくらくらする頭を押さえながら、僅かに切れた口を無理矢理開いた。
「……お前、体重差2倍近くある奴にビンタされてみろよ……」
凹んだドアが音を立てた。壊れたドアの隙間から顔を出したのは、焦った様子の三川だった。
「監督来るぞ!」
それまで伸びていた4人の顔色が変わる。田岡が床に転がったバットを拾った。
「おい、お前ら早く行け。試合出れなくなってもいいなら知らねぇけど」
加害者らしからぬ傲慢な言葉に、あ? と雪丸が苛立ちのままに身を乗り出す。瞬間、その体を道慈が肩に担ぎ上げた。
「うぐっ、そこ、やべ……!」
集中的に蹴られた腹が肩に圧迫される形に、雪丸は呻き声をあげた。
雪丸の荷物を三川が引っ掴み、部室から足早に退散する。雪丸は一歩踏み出すたびに腹にくる衝撃と痛みに、脂汗をかきながら道慈の肩を叩いた。
「下ろし……しぬ、ひぬ……っ」
舌まで噛んだ。学校から離れた住宅街まで来てようやく下ろしてもらい、雪丸は一息ついた。道慈に肩を貸してもらいながらいつもの帰り道を歩く。
ぽつぽつと街灯が点き始めた住宅街の景色が時折歪んで見える。歩くたびに腹が痛んだ。何度も蹴られたワイシャツの腹部は、茶色い靴の跡が残っていた。
「くっそ、拷問かよ……」
「大丈夫か?」
道慈の言葉に、雪丸は笑おうとして失敗した。頬が痛すぎる。
「バカ、お前にぶたれたとこが一番痛ぇよ」
道慈が心底ほっとしたように肩を撫で下ろした。
「じゃあ大丈夫だな」
「なんで大丈夫だと思うの? マウンテンゴリラにビンタされたことあんのお前」
2人のやりとりを聞きながら、三川が恐る恐るといった様子で雪丸の顔を覗き込んだ。ハイネックから僅かにのぞいた赤い痕を指差す。
「本当に大丈夫か? 首……これ、あいつら首絞めたの?」
「ああ……そういうプレイが好きみたい」
無理矢理口端を持ち上げる。
「笑い事じゃねぇよ。犯罪だろ」
三川が深刻な顔でやっぱ先生に――と言い出したところで、雪丸はその肩を叩いた。
「お前今日塾は? サボったらまた母ちゃんに怒られるぞ」
三川の家は道慈と雪丸の家とは反対方向だった。心配でついてきてくれてるのだろう。
先生に報告したところで、状況は良くならない。むしろ部活動停止と大会出場停止が待っているだけだ。それは誰にとっても望ましいことではなかった。
田岡の言い方なら、あの場は上級生がうまく誤魔化すつもりなのだろう。腹部とハイネックでギリギリ隠せる首しかやられていない。明らかに慣れたやり口だった。
この部活の悪しき伝統なのか、それとも今の3年の代がそうなのかは雪丸には判別できなかったが、事後処理もうまくやるつもりなのだろう。やってくれなきゃ困る。
「いやでも――」
「お前いても変わんねぇから。道慈の家でちょっと寝たら俺も帰るし」
今家まで帰る体力も、家で寝る気力もなかった。
見た目ほどやばくねぇからと自分の現状を見てもいないのに適当に嘯く。
三川は何度も躊躇いながら、なんかあったら電話しろよと言って、走って帰って行った。
「あいつ今から帰ってもどうせ母ちゃんに怒られるぜ」
はは、と声だけで笑う。
「走れば間に合うんじゃねぇか?」
道慈がどうでもいいことを真面目に返してくる。
「……道慈、おんぶ」
雪丸は下を向いたまま呟いた。道慈の腕に支えられないと、もうほとんど立っていられなかった。全身が痛くて、疲れて眠たい。
しゃがんだ道慈の上に乗っかり、首に手を回してから、ビンタされていない方の右頬を広い肩に預けて目を閉じる。気を遣って歩いているのか、先ほどのように一歩踏み出すごとに衝撃が来ることはなかった。
鈍い痛みの中でまた、傷ついた顔が囁いてきた。
――先輩、傷ついちゃったなぁ
――お前の言葉は人を傷つける
黒いチューブを掴んだ手が、震えるほどに歯を食いしばって首を絞め上げてくる。酸素がなくなる苦しみの中で、憎しみに満ちた目と目が合う。少し老けた、自分とよく似た顔。くるりとその顔がふくろうのように逆さまになった。
「あああっ」
叫んでベッドから飛び起きると、今度は腹に痛みが走る。
「くっ……そ……!」
腹を抱えて布団の上でうずくまる。自身の荒い呼吸音が耳に響いてうるさい。
恐る恐る首に手を当て、そこに何も巻きついていないことを確認する。何もないのに手の震えが止まらない。呼吸までもが震え出していた。
不意にベッドが軋んだ。
「雪丸」
大きな影に全身を覆われる。固い手のひらが額に当てられるのに、鳥肌が立った。額から頭にかけて湿った手に撫でられながら首を絞められた記憶が蘇る。
その手を勢いよく振り払うと、一拍置いて手の主と目が合った。僅かに驚きが滲んだよく知る顔に、緊張で固まった身体から徐々に力が抜けていく。
「くそ、お前かよ……」
誤魔化すように額の汗をシャツの襟で拭う。こっそりシャツの中で呼吸を落ち着けてから、振り向いた。
「なに……」
いつからいたんだこいつと思ってから、自分がいる場所が道慈の部屋であることに気づいた。さっきの無様な叫び声も全部聞かれていたことを遅れて自覚し、羞恥が込み上げてくる。
「触るぞ」
道慈の分厚い手が今度は一言断ってから右頬に触れた。今は一人になりたい気分なのに、冷たい手が気持ち良くて、されるがままになる。
そもそも一人になりたいもなにも道慈の部屋だった。
「やっぱお前熱出てんな」
道慈は叫んだことを突っ込んでくることも、振り払ったことに対して何か言ってくることもなかった。まるで何も見ていないと言うかのように。
「あ、そ……」
雪丸は気まり悪さに目を逸らした。
「痛み止め。熱にも効くって。お前アレルギーとかある?」
道慈の手が薬の入ったシートを渡してきた。
「わかんねぇ。多分ない」
言われるがままに薬を口に入れ、渡された水で飲み下す。口の中が未だ汚れたウェスの土の味がして気持ち悪かった。グラスの水を飲み下しながら、土と油の味が流れていくのを感じる。
空っぽのグラスにすぐに水が満たされ、また渡される。一口飲んでそれを返してから、雪丸はゆっくりと横になった。
「寝る……」
「飯は? 食えそうか?」
「いらねぇ」
「ゼリー飲むか?」
雪丸は少し黙ってから、飲む、と口にした。身体を抱き起こそうとしてくる道慈に良いと断って自ら起き上がってから、やっぱりだるくて道慈の体にもたれかかる。
道慈が寄りかかりやすいように座り直すと、巨体の股の間に座る形になった。
「はは、カップルみてぇ」
パウチのゼリーを咥えながら笑う。笑うと顔面が痛い。道慈は冗談に反応することなく顔を覗き込んできた。
「身体痛ぇか? 骨は?」
「骨は多分大丈夫。腹しか殴られてねぇし」
シャツとアンダーを一気に捲り上げると、赤く腫れた腹の上に何枚か湿布が貼ってあった。
「なにこれ。気づかなかった」
「お前寝てたからな。他は?」
「ほっぺと腹が痛すぎてわかんねぇ」
言いながら右腕を少しだけ回してみる。異常はなく感じるが、腹がこの状態でまともにコントロールできるかがわからない。歩くのもきついのだ。
「4日後か……」
舌打ちが出る。とんでもない時期にやってくれた。
「休んで良い。初戦は東中が相手だから平良さんと猪狩で十分だ」
その言葉に、後ろを振り向こうとして痛くてやめた。
「なんで俺じゃなくて猪狩が出んだよ。おかしいだろ」
「俺もそう思う」
簡潔な返答に、道慈がどんな顔をしているのか気になった。しかし確認する気力が湧かない。痛いからじゃない。大会の直前にヘマした自分がどんな顔で見られているのか、怖くて見れなかった。
「もうお前部活で一人になるなよ」
道慈の声は淡々としていた。
「同じ目に二度も合うかよ。くそ、ありえねぇ……」
情けなさに声が震えてくる。上級生に対する怒りは、いつの間にか自分に対する憤りに変わっていた。
「飯食ったら早く治るぞ」
「ほんと?」
道慈の言葉に顔を上げる。藁にもすがる思いだった。
投げないと死ぬ。役立たずになるのは嫌だった。
「ああ。母さんもう作ってるし。持ってくる」
「まじかよ、先言えよ。いいよ、降りる……」
ベッドから立ちあがろうとして、道慈を仰ぐ。やっと目を合わせた道慈の顔は、ただ心配そうにこちらを見ているだけだった。その顔の中に失望がないのを認めて安堵する。
「京子になんて言ったの?」
「疲れて熱出たから家で休ませるって」
「じゃあ部屋から出ない方がいい? 風邪うつるよな。お前はいいの?」
「風邪じゃなくて熱出てるだけだから移んないだろ、多分。持ってくるから休んでろ」
道慈の手が頭に置かれる。かと思ったら直前で引っ込められた。誤魔化すように手を振って離れようとする道慈の手を掴む。
「どした?」
無意識に掴んだので、何をしたかったのか自分でもわからなかった。
「……なんでもない」
雪丸は道慈の手を離した。道慈が出て行った扉を見るうちに、指先から冷たくなってくるような感覚がした。
道慈の手が頭に触れそうになった瞬間、一瞬反応した身体に気づかれて気を遣われた。いまさっき自身を見下ろしていた道慈の目が脳裏にこびりついていた。
同情している目だった。
可哀想なものを見る目だった。
役立たずの被害者を見る目で見られた。
「はは、笑えねー……」
熱くなってきた目頭を指で強く押さえる。これ以上惨めになるなと自分自身に念じた。
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