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第17話
雪丸はほとんど放心状態で与えられた夕飯を食べ終えた。腹が満ちてきたあたりで、解熱剤が効き始めたのか、思考が徐々に働き始めた。
ベッドにもたれるようにして英語のプリントを見ている道慈に視線を移す。勉強机があるのにわざわざ雪丸の横に座っているのは、雪丸が何かを要求した時にすぐに動けるようにだろう。
「なにしてんの?」
「お前寝てたから知らねぇのか。明日、単語テストあるぞ」
「ふうん」
雪丸は自分で聞いておいてあまり興味のない返事をした。道慈の餃子のようにふっくらした耳を見つめながら、適当に会話を続ける。
「覚えた?」
「ほとんどな。お前もやるか?」
「具合が悪いからやらない」
道慈が見せてきたプリントから目を背ける。本心だった。何故か英単語の羅列を見たら具合がいっそう悪くなった気がする。
不意にやるべきことを思い出した。勉強から話を逸らすための話題を見つけたとも言う。
「道慈、俺のカバンからファイル取って」
道慈が学生鞄から歪んだクリアファイルを取り出した。
「お前カバン汚すぎだろ。なんで中間の解答まだ入ってんだよ」
雑に突っ込まれた着替えに押しつぶされてしわくちゃになった解答用紙を拾い上げて道慈が呆れたように言った。
渡されたクリアファイルからへろへろになった家庭訪問の希望調査を取り出す。今朝担任から新しくもらったものだった。
「これ全部斜線引いて。備考欄に土日も対応できませんって書いて、大人っぽい字で」
「お前な……」
道慈が渡されたプリントを見下ろして、一層呆れている。
「ちゃんと親父に聞いて無理って言われたんだよ」
「……やっぱ調子悪いのか? 親父さん」
「仕事が忙しくてこれ書く暇も無いってさ」
道慈が眉を顰めてそれはおかしくねぇかとぽつりと溢した。
雪丸はその言葉に、顎に手を当てた。確かにおかしい。親が記入すべきプリントを同級生が記入しなければいけない状況は誰がどう考えてもおかしいだろう。書くことが決まっているのならば、1分で済むことだ。
雪丸はしばし黙ってから、別に道慈じゃなくても良いかと思い直した。雪丸の字は汚すぎるため、書いたら一目で本人とバレてしまう。隣人に頼めば良い。彼女ならすでに大人だ。
「やっぱ良いや。しまっといて」
「これとっくに期限過ぎてんだろ」
「今週中って言われたからまだ大丈夫。やっぱ親父に書いてもらうわ」
道慈はがしがしと頭をかいてから、ボールペンと定規を手に取った。
道慈が何を天秤にかけたのか雪丸もわかった。自分が書かなかったときに、また雪丸の頭に瓶が降ってくることを想像したのだろう。
座卓の上で丁寧に文字を書き始めた道慈の字を覗き込む。額に貼った冷えピタが半分剥がれてぶら下がった。
「おー、やっぱお前の字きれいだね。はは、俺の親父よりきれいだよ」
「お前さ……」
道慈が何かを言いかけて口を噤んだ。プリントに視線を落として黙り込んだかと思うと、深いため息をついている。
「大丈夫だって。先生もさすがにお前が書いたなんて気づかねぇよ」
雪丸の軽い言葉に、道慈が苛立ったようにボールペンを置いた。
「そこじゃねぇよ……」
いつもより低い声に、雪丸は目を瞬いた。道慈は額を擦りながら詰まったような息を吐きだしている。
じゃあなに。見ていてもわからず、ついに言葉にして聞こうとしてから、雪丸は口をつぐんだ。
道慈が目頭を押さえて俯いたからだ。
その仕草が数十分前の自分と重なり、雪丸は一瞬話しかけるのを躊躇った。鼻を啜る音が聞こえてくる。
「……え、泣いてんの?」
返事がない。動揺のあまり笑ってしまった。
道慈が泣いているのを見るのなんて、小学生の時柔道の試合で負けていた時以来だ。
道慈が震える声を落とした。
「ばか、お前が泣くとこなんだよ……」
言葉の意味を理解しきれないまま、雪丸はとりあえず箱ティッシュを渡してやる。道慈がティッシュを一気に2枚取り、勢いよく鼻をかんだ。
雪丸は言葉を選ぼうとして、途中で諦めた。
「……俺のために泣いてるってこと?」
道慈が俯いたまま黙り込んだ。
道慈は雪丸が何を恐れているのか知っているようだった。沈黙は肯定に等しい。
雪丸は先ほど味わった屈辱感が口の中に蘇るのを感じた。こうも全身で同情されてしまったら、立つ瀬がない。
しかし不思議と、先ほど感じた指先から冷たくなるような絶望感はなかった。
どころかじんわりと胸が熱くなり、張り詰めていく。
「……っ、」
雪丸は初めての感覚に唾を飲んだ。見て見ぬふりをしていた心の中の底抜けの穴が、じわじわと満たされていくような。くすぐったいような、もどかしいような感覚。
羞恥心も屈辱感も覆い尽くすような形容し難い巨大な感情。雪丸はこの感情の名前を知らなかった。
「お前さ、可愛いね」
恥ずかしいのか顔を上げない道慈の頭に手をのばす。短い髪の毛が指の間を通った。両手でくしゃくしゃと頭をかき混ぜる。
雑に手の甲で涙を拭った道慈が顔を上げた。目が赤くなっている。
道慈のこんな顔を見る機会はそうそう無い。目に焼き付けておこうとよく見ていたら、道慈の手が伸びてきた。
太い指が剥がれた冷えピタをなぞって貼り直していくのを目で追う。
今度は道慈の手にやたらと反応することはなかった。
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