18 / 28

第18話

 雪丸は喉が潰れるような苦しさで目を覚ました。自身の首を触って確かめ、何もないことに気づいてベッドの上で放心する。上級生にリンチされてから2日も経ったというのに、未だにこの悪夢に悩まされている自分に唖然としていた。  開けっぱなしのカーテンから月明かりが差し込み、勉強机の陰を伸ばしていた。  今日三川と口論になった。  昨日はなんとか三川が監督に告げ口するのを阻止できたが、日が経つにつれて三川の考えは「この件について大人に報告したほうがいい」から、「しなければならない」に変わりつつあった。上級生の暴行に対するためらいのなさと後処理に対しての焦りの欠如を見ても、これが初めてでないことは明らかだった。  であるならば、次の被害者候補は雪丸か、目撃者である2人の可能性が高い。道慈は簡単にリンチできる相手ではないし、試合に出たがっているので上に告げ口する心配はほぼない。となれば雪丸を除く残りの狙いは三川だ。彼らはそうやって目につく後輩を黙らせてきたのだろう。  三川の暴力を許してはいけないという主張は正論だし、彼が不安に思うのも理解できる。しかし雪丸はこれで部活が停止になったら自分を維持する方法がもうわからなかった。  ――お前はすごいよな、あんだけやられても平気な顔してられんだから。俺は無理だよ。お前みたいに強くない。  三川の今にも泣きそうな顔が頭に浮かぶ。昼休みに職員室に向かおうとする三川を空き教室に引きずり込んで必死に説得した。  一ヶ月絶対に俺か道慈と行動しろ、そうすればあいつら手出してこねぇよ。あと一ヶ月待てばもう引退だから。頼む。絶対守るから。一生のお願い、言わないで。  後半は半ば懇願になっていた。  なんでそんなに隠したがるんだよ! やられたのお前だろ? お前のためでもあるのに。  三川に理解できないものを見る目で見下ろされても、引き下がれなかった。三川は自分のためが大きいが、周りのためにもそうするべきだと思っていたし、雪丸も同様にそう思っていた。  3年は最後の大会なんだぞ? 今お前がチクったら全員大会に出られなくなるんだぞ。  雪丸は三川がこの手の言葉に弱いことを知っていた。正直3年が最後かどうかなんてどうでも良かったが、自分のためだけじゃ主張として弱いことはわかっていた。  お前は3年全員の3年間の努力の責任取れんの?  雪丸の言葉に三川はくしゃりと顔を歪めた。なんだよそれ。なんだよその言い方。俺が悪いみたいに。どう考えてもあんなことする奴らが悪いだろ。  雪丸は真剣な顔で頷いた。わかってるよ。いいか? あいつらが仮にお前を狙うとしたら一人の時だから。俺の時もお前を追い出してただろ。だから絶対一人にならなきゃ良い。なんなら家まで送る。  三川が雪丸のマスクをじっと見つめてきた。怪我をしたと監督に言うわけにはいかないので、風邪を装って部活を休むために雪丸はマスクをしていた。  三川が目を伏せて自嘲した。なんでお前が俺を守るんだよ。おかしいだろ。俺お前がやられてた時逃げてたのに。  雪丸は真剣な顔で首を振った。  お前は逃げてねぇよ。先輩の言うこと聞いただけだろ。  三川が欲しい言葉を与えてやる。欲しい言葉をくれる相手の言うことは聞きたくなるからだ。雪丸は身を持って知っていた。打算はあったが、言った言葉に嘘はなかった。  ここが正念場というかのように雪丸は追い討ちをかけた。  俺といればあいつらは俺の方見るからそんなに心配しなくて良い。防波堤になってやるよ。道慈も協力してくれるし、な。  三川はため息をついた。お前なんでそんなに試合にこだわるの? この前まで、投げられればなんでも良いって感じだったのに。  雪丸は三川の言葉に自分が必要以上に焦っていることに初めて気づいた。確かに、投げられればなんでも良いと思っていた。でも今は、自分のせいで部活が停止して大会が無くなるのが恐ろしくなっていた。役立たずになりたくない。  投げられない上に人の可能性まで奪うようなら生きてる意味がない。  部活が休みになっても投げりゃ良いじゃん。小学校の時みたいにみんなで集まってゲームしても良いし。  ぽつりと三川が続けた。その通りだ。雪丸だけならそう言っていただろう。  でもそれじゃ足りないんだよ、道慈は。  雪丸はその言葉を飲み込んで、三川の肩を叩いた。  もう小学生じゃねぇだろ、俺ら。  三川は何か言いたげな顔をしていたが、最後には折れてくれた。わかったよ。  三川の前であれだけ豪語したくせに、いまだに寝汗をかいている自分に嫌気がさす。寝ないと回復も遅くなるのに、やっと寝付けたと思ったらしょうもない理由で目を覚ましている。  夢に現れる父親は雪丸を憎んでいた。階下にいる本物の父親に自分を憎んでいるのかと一言確認すれば悪夢も見なくなるかもしれないのに、そうする気力がない。  何日かに一回は洗濯物も出されているし、時折玄関にある父のサンダルの位置がずれていることからも、雪丸がいない間は父は部屋から出てきているようだった。たまに買い置きした食材も減っている。  一瞬父にこの身体を見せれば、病院に二人で運ばれた時のように父が正気に戻るかもしれないとも考えた。しかしその期待が裏切られ、喜ばれでもしたら、もうどうしたらいいかわからない。それに、このあざだらけの身体で父の主張が正しいことをわざわざ証明してやりたくもない。  無意識に思考は悪い方へとばかり向かう。何も考えなくて良い時間がないと自分の思考に殺されそうだった。  二日経って体の痛みは徐々に減りつつあった。ちょっと無理すれば走れる程度には回復している。明日は練習に出ようかと考え始めていた。もう練習じゃなくてもいい、投げないと。投げないと死ぬ。  一昨日唐突に泣き出した幼馴染を思い出す。自分のために泣く人間がいるのは不思議と悪くない気分だった。悪くないどころか、不謹慎なまでの充足感があった。  明日道慈に投げよう。他の面倒臭いことは全部置いといて、今はそれだけのために寝よう。  そう思うと、自然と心がおだやかになった。瞼が勝手に落ちてくる。忘れていた眠気を思い出した。  試合当日、未だに体調を崩している雪丸に監督は怒っていた。体調管理も試合のうちだと説教された。  雪丸以外にも変化はあった。先日の一件以降、猪狩が道慈相手だと若干タイミングが狂うようになってしまったのだ。それに伴って道慈が通しで捕る予定だったのが、ピッチャー交代のタイミングで捕手を変えることになった。監督は自分の采配がことごとく裏切られ、怒っていた。それはそうだ。試合直前に調子を崩すピッチャーが2人もいたらどんな監督でも怒る。チームの士気もそれなりに下がっている。  猪狩がわざと演じているわけではないことは雪丸にもわかった。理由は簡単だ。あの一件以来猪狩は道慈にびびってしまっているのだ。  雪丸はベンチに戻ってきた道慈が熱心に試合を見ているのを横目に眺めていた。刈りたての坊主頭をがしがしとかいている。  あーあ、いらいらしてる。雪丸は内心でつぶやいた。太い足の貧乏ゆすりが雪丸の膝に当たってきていた。  道慈が入ったせいで正捕手を降りたものの、猪狩のおかげで再び舞い戻った3年の澤田のプレイが気に入らないのだろう。澤田は1アウト1・2塁のこのシーンで無理しない配球を選ぶ堅実な捕手だった。道慈ならさっさとこの回を終わらせるためにダブルプレーを狙うだろう。猪狩も道慈のリードなら自信を持ってそうすることができていたはずだ。  トーナメント戦なので負けたらここで終わりだ。猪狩の変化は道慈も予想していなかった。6回表3-2でリードはしているものの、この2イニングを守り切れるか危うい。先発の平良はよく投げていたが、球数を使っていた。監督は平良の肩を守るために下げたのだろうが、雪丸だったら平良に7イニングすべて投げさせる。2回戦が来週なら尚更だ。  おそらく攻守交代したら道慈が代打で呼ばれるだろう。  見てるだけはつまんねぇなと雪丸は思った。いらいらしてる道慈を見ている方がよっぽど楽しい。  あっと道慈が声を上げた。打球がセンターの頭を抜けた。ランナーが走り出す。2人がホームに戻った。ヒットを打った打者が2塁にスライディングする。セーフ。3-4で逆転された。 「……神楽、お前熱は」  監督が振り向いた。額に血管が浮いている。 「ありません」  道慈にもらった痛み止めは一応飲んでいた。 「肩慣らせ」 「ウッス」  立ち上がって首を鳴らす。隣で道慈が不機嫌な顔で立ち上がった。 「いけんのか? お前」 「あれよりはマシなんじゃない」  マウンドで俯いている猪狩を顎で指す。追い詰められた時に首をがりがりと掻くのは猪狩の癖だ。そしてこの癖が出た後、猪狩の調子は更に落ちる。 「無理すんなよ」  道慈が思ってもいないことを言っているのに、雪丸は笑ってしまった。 「3年の見せ場作ってやろう」  粘られたら身体が持たないことは自覚していた。好みではないが、打たせて取るしかない。  雪丸の不遜な物言いに道慈は眉を寄せた。 「おい、あんま考えんな」 「15球で抑える」 「……20球無理か?」 「どの口で無理すんなとか言ってんだよ」  雪丸は楽しくなってきた。まあギリかなと付け加える。  結果は6対5で勝った。結局22球で勝負が決まり、雪丸は額に浮いた脂汗を肩で拭った。試合が終わった瞬間、アドレナリンで忘れていた痛みが蘇る。  挨拶を終え、グラウンドから出た途端に道慈に脇を支えられる。雪丸は自分がふらついていることに支えられてから気づいた。  ふとベンチに戻る途中で猪狩が目に入った。その顔には隠しきれない安堵が滲んでいた。  目が合った瞬間、決まり悪そうに視線が逸らされる。音は聞こえないまでも、舌打ちしているのがわかった。  興奮した様子の竹田に勢いよく肩を組まれて、一瞬倒れそうになる。太い腕に体を支えられた。道慈が竹田の頭を叩いている。 「あ、雪丸まだ風邪引いてんだっけ。治んの遅くね?」 「うるせーな、移すぞ」  竹田に顔を近づけると、いやぁと高い声を上げてすぐに離れた。  次の週の試合からは雪丸は完全に復帰した。結局夏の大会は県大会に出場し、2回戦で敗退した。上級生は地区予選の初戦以来手を出して来ることはなかった。時折人目のつかないところで雪丸の首を後ろから掴んでくるような嫌がらせはあったが、それだけだった。  県大会はレベルが違った。小学生の頃に戦ったことのある相手のレベルが上がっていたり、見たこともない上手いチームがいる。2回戦は文字通り打たれまくってボロボロの結果にはなったが、楽しかった。あのチームに次勝てば、道慈はどんな顔をするだろうと思った。  野球そのものじゃないところばかりで足踏みしていた自分に反省もした。  つまらないことで悩む時間がもったいない。自分を好いてくれる人のことだけ考えて生きることにした。幸い目の上のたんこぶだった3年は引退して、父親は引きこもっている。自分を憎んでいる人間に対して何も期待しなければ、期待が裏切られることもない。 「髪、ちょっと伸びたね」  細い指先が髪を撫でて来る。雪丸は制服のベルトを締めながら撫でやすいように頭を下げた。  大会から2ヶ月も経てば少しは髪が生えて来る。乱れたブラウスのまま机に腰掛け、撫でてくる長谷川のボタンを両手で閉めていく。リボンの結び方はわからなかったので諦めた。 「雪丸くん携帯買わないの? 今度デートしたいな」  長谷川が自分でリボンを結びながら、潤んだ目で見上げて来る。携帯とデートになんの関係があるのか雪丸は理解しないまま首を傾げた。 「携帯買う金ないっす。デートって何したいんすか?」 「カラオケ行ったり、映画行ったり。駅前のカラオケなら安いよ」 「週末部活終わった後なら」  部活のみんなでカラオケに行くことはあった。週何度か隣人の家に行けている時は小遣いがあるので雪丸もたまに参加する。隣人に今度カラオケに行くといえばやたらと多めにくれることもあった。代わりに少しハードなことを求められるが、隣人はいつも雪丸に最後は優しいので好きだった。  同じように以前は呼んでは盛り上がるだけだった長谷川が、最近では会うたびにはにかんでなんやかんやと優しくしてくれるので好きになった。 「じゃあ日曜日、部活終わるまで待ってても良い?」 「学校来るんすか?」 「うん、だって雪丸くん携帯持ってないから合流できないじゃん」  いつも遊ぶ時は道慈がいるので、道慈の家に行けば流れでみんなに合流できる。思い返してみれば、道慈も携帯で何かやりとりしていたかもしれない。  一瞬部活が終わった後だと汗臭いが良いんだろうかと思った。結局今も朝練が終わった後適当に水道の水を浴びてタオルで拭いただけの身体なのでそう代わりは無いのかもしれない。 「ずっと思ってたんだけどさ、雪丸くんって童貞じゃないよね」 「まぁ先輩とやってますし」 「なんでそんなうまいの?」 「うまいんですか? 俺」 「うん、今までの人の中で一番」 「なら良かったです」  顎を掬い上げて軽くキスをする。  長谷川とこうなったのは、呼び出されてそういう雰囲気になったからだった。長谷川のことは好きだし、もはや好きじゃなくても女子とそう言う雰囲気になろうものなら断る理由はない。以前道慈が可愛いと言った身体に興味があったのもある。しかし実際に体験してみると、長谷川の身体は細すぎて骨が当たって少し痛い。  できればもっと肉をつけて欲しいと思っていたが、言ったら怒られそうなので口にはしていない。  昼休み終了の予鈴が鳴り、雪丸は空き教室を後にした。  

ともだちにシェアしよう!