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第19話

 中学3年、雪丸の最後の夏は県大会ベスト4で終わった。  試合が終わった瞬間、顎から流れ落ちる汗もそのままにマウンドで見上げた空はどんよりと濁っていた。1点差で負けたことに悔しさはあった。自分の力が及ばず、道慈に投げ続ける機会を失った。何よりも大きいのは足元から崩れるような絶望感だった。  これからどうやって生きれば良いのか分からない。  マウンドの上で迷子のような気分になるのは初めてだった。道慈に背中を押されて挨拶のために並んだ。涙を流す同級生達の横で帽子をとって頭を下げた。涙も出ない。自分だけ別の空間にいるかのようだった。  この2年半、道慈に投げるためだけに生きていた。もうそれしか無かったのに。無くなったらなんのために生きれば良いのか分からない。  父親の部屋はいまだに悪臭を放っていた。悪臭がドアから漏れてくるほどだった。  そしてある時期からは、部屋から常に独り言が聞こえるようになった。独り言にしては長く、いつもぶつぶつと喋っていて、時折怒鳴り声を上げている。  たまに家の階段が水浸しになることもあった。2階に行くために雑巾ですべて拭う羽目になる。何度も雑巾を絞るのが面倒でバスタオルで拭くと、掃除をしていないせいでバスタオルが埃だらけになった。  つい最近、父が霧吹きで階段に水を撒いているのを見つけた。浄化がどうのと独り言を呟いていたが、雪丸を見つけた瞬間部屋に逃げていった。  久しぶりに見た父の顔は頬はこけ、窪んだ目元は黒ずんでいた。髭も髪も伸びきっており、一瞬誰かわからなかった。  もはや酔っ払いの行動の範疇を超えている。精神がおかしくなっているとしか思えない。そしてその精神がおかしい人間と一緒に住んでいると、父がおかしいのか、自分がおかしいのか、だんだんわからなくなってくる。  日常の中心だった野球がごっそりとなくなり、雪丸はストレスの解消の仕方がわからなくなっていた。  寝る時耳にティッシュを突っ込んでも父の独り言が聞こえてくる。野球をやっていた時は、最初こそ動揺したが、次第に慣れて無視して眠ることができたのに。もはや睡眠を阻害してくるそれが父の独り言なのか自分の幻聴なのかわからなくなっていた。  そうしてどうしても寝れなくて隣人の家を訪ねて肌を重ねる。同級生を頼って熱を分けてもらう。不思議と人肌を感じた日は寝つきがましだった。  部活を引退した後の中学生活は雪丸にとって死ぬほど長かった。毎日誰かとセックスして、次の日が来るのをひたすらに待つ日々だった。 「お前、高校行くのか?」  見慣れた天井を眺めながら、ベッドでぼんやりと球を投げる。道慈が床でストレッチしながら話しかけてきた。 「……行かない」 「推薦きてたろ」 「家でてぇから働く」  頼みの綱の隣人は、雪丸から興味を失いつつあった。おそらく身体が成長したからだろうと雪丸は踏んでいる。夏の試合まで飯を食わせてくれたのはありがたかったが、中学を卒業したらもう頼れない。  本格的に働いてさっさと家を出ないといけない。 「……そっか」  道慈にしては小さな返事だった。雪丸は球を片手でキャッチしながら尋ねた。 「お前は? 柔道やんの?」  道慈は野球の大会で敗退した直後に柔道の選抜の大会に出ていた。後から知ったが、全国大会に出場していたらしい。野球と両立して全国に行けるくらいだからしょぼい大会なのかと思ったら、朝礼で大々的に表彰されていた。  道慈にも野球の推薦が来ていることは知っていた。しかしどう考えても柔道の方が将来性がある。それに、雪丸のいないところで野球している道慈なんて想像したくもなかった。 「柔道の推薦きてるからそれでいく。ちょっと遠いけど」  やっぱり柔道だ。雪丸は内心で安堵した。 「どこ?」 「神奈川」 「通うの?」 「寮」 「ふうん」  雪丸は見慣れた天井の凹んだ箇所をぼんやりと見つめた。昔道慈が寝ながら投げた時に凹ませてしまったらしい。  道慈の携帯が音を立てた。道慈が片手で携帯を開き、またかよと呟いた。小さな画面を見せてくる。画面の中には泣いた顔の絵文字が写っていた。 「佐藤からメール来たぞ。お前が約束の場所にいないって」 「ああ……約束してたっけ」  雪丸はのろのろと起き上がり、野球ボールを道慈のベッドに投げる。道慈がそれを認めて一瞬ためらってから口を開いた。 「お前本当に高校行かないんだよな?」 「うん。私立行くほど金ねぇし」 「公立は?」 「だから働くんだって」 「じゃあもう俺推薦の解答するぞ」  雪丸は学ランを羽織りながら道慈の顔を見た。 「どういう意味」 「そのまんまだよ」 「俺が高校いかねぇのとお前の推薦何の関係があんの」 「お前が高校でも野球やんなら俺もやるから」  道慈がなんでもないことのように言った。  雪丸は一瞬理解できずに黙った。理解した瞬間、ひくっと喉が鳴る。瞬間的に頭が熱くなった。  気づいたら怒鳴っていた。 「行かねぇっつってんだろ! 行けねぇんだよ! お前と違って恵まれてねぇんだよこっちは!」  学生鞄をひったくるように取って部屋から出る。名前を呼ぶ声が聞こえたが、無視して階段を駆け下りる。途中で京子が声をかけてきたが、それにも答えず家から出た。   頭が熱くなって、視界が滲む。悔しい。本気で悔しいと思った。試合で負けた時よりもずっと。  この3年間見ないふりをしていた嫉妬心が溢れ出して心臓が握りつぶされるようだった。  あのいつも恵まれている親友をぐちゃぐちゃに泣かして、この手で汚してやりたい。それぐらいしても許されるくらい、不公平だ。  当然のようにそう思ってから、自分に愕然とした。    あの一件以来、道慈を避けている。道慈の前で今まで通りの自分でいられる気がしなかった。  初めて正面から見つめた欲は、日に日に大きくなっていた。親友をぐちゃぐちゃに泣かせて、なんの汚濁も知らない面を汚して、自分だけを見るようにしたい。自分のためだけに泣くようにして、自分だけのものにしたい。道慈に投げたいのとおんなじように当たり前に、その欲が心の中心に居座っていた。  野球部の面子も受験モードになり、一切勉強せずに女とばかり遊んでいる雪丸とは次第に会話もなくなっていった。  クラスが違うので道慈を避けるのは簡単だった。昼休みと放課後は空き教室で女子と一緒にいることが多かったので、道慈もここまでは入ってこれない。そう思って油断していた。  夕日が差す空き教室の中は、暖房が切れて僅かに寒い。ブレザーの中に手を差し込み、ブラウス越しにブラジャーのホックを外す。年齢の割に大きな胸に顔を埋めた瞬間、教室の窓が開いた。ドアの鍵は閉めていたが、窓は盲点だった。先生かと思って咄嗟に乱れたブラウスの上に学ランを被せたら、道慈が顔を出した。 「雪丸テメェ、いつまで逃げてんだよ。そっち行くぞ」  低い声は怒っている時の声だ。幼馴染が乱入してくる前に、雪丸は女子に断って教室を出た。  教室の外には道慈が仁王立ちしていた。中学3年間で伸びた身長は頭ひとつ分も雪丸より高くなっている。 「……なに? 覗くの趣味なの?」  雪丸は道慈の顔を見れなかった。目を合わせたら、不適切な感情を見透かされてしまうのではないかと思った。 「あのな、ここそもそもやる場所じゃねぇだろ」  制服を着直した女子が真っ赤な顔で教室から出てきて、道慈にぶつかりそうになりながら走り去っていく。誰もこないって言ったじゃん! 雪丸のバカ! 捨て台詞が聞こえてきた。 「それで、なんか用?」  雪丸は腕を組んだ。放課後にやれる子を逃したのは痛い。今日は隣人が不在だった。  お前が代わりに相手してくれんの? そう言ってやろうかと思ったが、もう軽口にできないほどに大きな感情になっていた。 「お前、感じ悪ぃぞ。こっち見ろよ」  顎を掴まれて、無理矢理視線を合わせられる。雪丸は小さく息を呑んだ。太い指に触れられたところから手に負えないほどの充足感が生まれて、腰が震える。手が離れた瞬間、胸を撫で下ろした。  道慈は少し気まずそうな顔で口を開いた。 「この前、悪かった。俺が無神経だった」  真剣な顔に、雪丸は乾いた笑いを漏らした。道慈のあれが無神経なら、この世界が雪丸に対して無神経だ。あるいは道慈の存在そのものが、無神経だ。  恵まれた、暖かい家庭で、すくすく育って、好きなことを選べる選択肢があり、他人を気遣う余裕がある。  腐り切った家庭でなんとか生き延びて、自分のことでいっぱいいっぱいで、しまいには自分のために泣いてくれた親友を汚したくなっている雪丸とは大違いだ。  あれから何度も自分の感情を整理する機会はあった。それしか考えていなかったともいう。 「俺、別にお前に怒ってないよ」  ただ道慈が妬ましくて、普通は持っているものを持ってない自分にも環境にもムカついて、でも道慈が望んでくれたことが本当は嬉しかった。  そしてそのぐちゃぐちゃの感情の中で、自分の欲を見つけてしまっただけだ。出会った頃から道慈に対しては特別執着していた。それに初めて名前がついただけだ。 「じゃあなんで逃げんだよ」 「……わかんない」  沈黙が落ちた。雪丸の曖昧な言葉に道慈は困っているようだった。 「もう逃げんなよ。探すの面倒くせぇ」  別にお前が俺を探す義務なんて無いのに。  思いながら何も言わないでいると、温かい手が頬に触れた。ぴくりと指先が反応する。冷えた頬がじんわりと温かくなるのが心地良い。同時にうなじのあたりがくすぐったくなるような快感に喉がなりそうになるのを必死に抑えた。 「……痩せたな」 「そりゃ今は部活やってた時みたいに食いまくってねぇからな」  雪丸は努めて普通の声を出した。離れていく道慈の手にほっとするのに、名残惜しくて無意識に見つめてしまう。 「イッシーは逆に太ったぞ」 「見たよ。まだ20合炊きで食ってんだろ」  雪丸は廊下ですれ違った大きな体格を思い出して笑った。学ランの肩が張り詰めすぎて今にも破れそうだった。 「みんな、お前が女子とばっかいるから話しかけづらいって」 「ふうん」  雪丸の生返事に、道慈は眉を寄せた。 「なぁ、お前大丈夫か?」  質問が何に対しての大丈夫かわからない。部活をやっていた時なら、動けるかどうか答えれば良いから簡単だった。なら今は、動けるかどうかは問題じゃない。頭の中はあまり大丈夫じゃないが、とりあえずは生きてるから大丈夫ということになるだろう。 「うん」 「就職先決まったのか?」 「先生が住み込みのとこ紹介してくれたから、多分そこいく」  建築現場の仕事だった。実際には保護者の同意書を取るのに難航している。就職先は直前まで待てると言ってくれてはいた。 「そっか。近く?」 「うん」 「……そっか」  道慈は確かめるように頷いた。雪丸は道慈が何を考えているのか、今度は聞かなくてもわかった。  雪丸が避けてていても、道慈は最後まで待ってくれていたらしい。しかし状況は変わらない。道慈に答えるためのものを雪丸は持ち合わせていなかった。    そして待ちに待った3月が来た。  卒業式の前日、課業を終えて家に帰った瞬間違和感に気づいた。父の独り言が聞こえない。  静かな家は本来普通のはずなのに、雪丸の家においては異常だった。  学生鞄をリビングに置いて洗面所に行くと、洗濯機の中に父の脱いだ服があった。そして風呂場に普段はない影を見つけた。  人がいるとは思えない静けさだった。  ドアを開けて息を呑む。浴槽から長い髪が伸びて床についている。呼吸が震えた。  2年ぶりに触れた父の身体は冷たくなっていた。  救急車を待っている間、救急隊員の指示通りに心肺蘇生を行なったが、すでに体は動かなくなっていた。諦めそうになっても、電話で励まされるままに心臓マッサージをし続けた。  医者の診断はヒートショックだった。  高齢者で多い症例だが、アルコールが入った状態で寒い時期に風呂に入ると若年でも起こることがある、と医者に説明された。雪丸はその言葉の半分も理解していなかった。  その後は役所の職員が来た。翌日は会ったこともない父の兄が家に来た。火葬した後は専用の山に遺骨を散骨することになった。墓を用意する費用が無いからだろうが、山に撒くのはちょうどいいと雪丸は思った。ずっと引きこもっていたのだから、死んだ後まで暗い部屋に篭る必要はないだろう。  群馬の山から叔父の車で帰ってきた時、道慈が家の前に待っていた。鼻の頭が赤くなっている。いつから待っていたのだろうか。  数日知らない中年男性と過ごして気疲れしていた雪丸は、見慣れた姿が目に入った瞬間ホッと息をついた。  雪丸は叔父に一言断って、公園に向けて歩き出した。道慈が隣で叔父に会釈している。 「後で線香あげにくる、母さんと」  雪丸は道慈の言葉に首を振った。 「家汚ねぇから来ないで」  叔父も部屋の惨状には言葉を失っていた。自身の弟がその状態のまま死んだと気づいて、どんな気持ちだったのか雪丸には想像もできなかった。  公園のベンチに座ると、中1の時父親を殺したくなって道慈にこのベンチに連れてこられたことを思い出した。  殺さないでも父親は勝手に死んでくれた。 「息が詰まるよ。あのおっさん俺のおじさんらしいけど、会ったことねぇし」  雪丸はベンチに座りながらぼやいた。吐く息が白い。  道慈は黙って聞いていた。 「あの人が俺の保護者になるらしいから、就職の同意書書いてくれるって。はは、親父がいねぇほうが全部スムーズだ」  雪丸は俯いた。父の遺骨の粉を山に撒いている最中、心に訪れた感情は安堵だった。やっと解放される。本当に解放された。  なのに、どうしてだろうか。自分でも意味のわからない不安のようなものが心を渦巻いていた。 「……清々するよ。もうずっと喋ってるの聞かなくて良いし、階段が水浸しになることもないし」  ぽつりとパンツの太ももの上に水滴が落ちた。太い腕が首に回ってきて、ジャンパーの硬い胸に額を押し付けられる。道慈の体温を間近で感じた。  雪丸は自身の喉が鳴る音を聞いた。とめどなく涙が溢れては、道慈の黒いジャンパーに染み込んでいく。 「……っ、一人だ……。……もう俺、本当に一人になった……」  自分が出て行ったらもしかしたらまともに戻るかもしれないと思っていたのに。あと少しで出て行ってやれたのに。  最後までろくな会話もしないまま、気づいたら死んでいた。お互いがお互いを恐れて怖がって、結局何もできなかった。  道慈の手が背中を強く抱きしめてくる。  道慈は何も言わなかった。何も言えなかったのかもしれない。全部もっている道慈に雪丸の気持ちがわかるはずがないのだから。  しばらくそうして道慈の腕の中で嗚咽を漏らした後、雪丸は自分の身体の変化に気づいてそっと身体を離した。こんな時でも身体は正直だった。こんな時だからなのだろうか。  道慈もそれには気づいていたようだったが、何も言ってこないのが逆にいたたまれない。  雪丸は沈黙に耐えきれず、自分から口を開いた。 「俺、最近セックスしないとダメなんだよ。親父がアル中なら俺はセックス中毒かもな。はは、カエルの子はカエルってやつ」  袖で顔を拭って立ち上がる。道慈の顔が見れない。  終わった。あとちょっと隠し通せば良いだけの話だったのに。たった一人の家族が死んだと思ったら、今度は道慈まで失うことになった。  雪丸は壊れた涙腺からまた涙が滲んでくるのを感じた。  もう行くわ。そう言い残して立ち去ろうとした瞬間、手を掴まれた。咄嗟に引こうとした手が強い力に逆に引かれる。 「雪丸、キャッチしよう」 「……え?」  雪丸は耳を疑った。この状況お前見えてんの? その言葉が口から出なかった。  道慈はまるで部活で次の練習の指示を出す時のように普通に喋った。 「俺グローブ持ってくるから、お前トイレ行ってろ。すぐ戻ってくるから、逃げんなよ」  鞄ここ置いてくわ。道慈はベンチに鞄を置くなり、スニーカーのつま先を数回ならしてから走り出した。 「……嘘だろ」  雪丸は数秒で見えなくなった背中を見送り、呟いた。お前で抜くけどいいの?  道慈はすぐに戻ってくるという言葉通り10分もせずに現れた。この公園から道慈の家まで往復3キロはある。暑いのかジャンパーを脱ぎながら僅かに上がった息を整えている巨体を見て、相変わらず化け物だなと雪丸は思った。  道慈のグローブは引退して半年以上経った今でも手入れがされていた。わずかに手のひらが余るグローブをはめた瞬間球が飛んできた。咄嗟に手が動き、球を捕る。久々の感覚に心が高揚した。  気づいたら夢中で投げていた。  喉の渇きが潤うかのように、身体の奥深くが満たされる。ずっとこれを求めていた。求めていたけど、どうやって求めたら良いかわからなくなっていた。  言葉もなく距離を離していき、道慈が屈んだ。  プロテクターも何もない、まっさらな体にミットだけ。スパイクすら履いていない。  それでも良い。  振りかぶった球がミットに吸い込まれる。  乾いた音がなった。  道慈の休憩、という声に雪丸は我にかえった。いつの間にか日が落ち始めていた。西日に照らされた道慈の顔が逆光で見えなくなっている。  自分でもびっくりするくらいスッキリしていた。なぜあんなにセックスに執着していたのか疑問に思うくらい、欲が収まった。  ベンチに腰掛けると、雪丸はいつものように喋ることができた。 「そういやお前の柔道の試合、小学生のとき以来見てないな。負けて泣きべそかいてたやつ」  小さい頃からしっかり者だった道慈が泣いている姿に雪丸の方が気まずくなって、それ以来試合は見に行っていない。 「最悪なので止まってんじゃねーか。高校も大会あるから観に来いよ」  雪丸は苦笑いした。高校に行けないやつによくそれ言うなと思ったが、今度は激情は湧いてこなかった。道慈は十分待ってくれたし、自分の大会を観にこいと言う自己肯定感の高さが嫌いじゃなかった。 「気ぃ向いたらな」  雪丸は手にしたグローブを撫でた。道慈の分厚い手の形に広がったそれは、雪丸が使うには手首が少し緩い。 「なぁ、これ貸して」 「お前自分のあんだろ。……野球すんのか?」  道慈の言葉に、するわけねぇだろと思いつつも、曖昧に首を振った。 「今度返すわ」  道慈は不可解そうにしながらも貸してくれた。 「使ったら手入れしろよ」 「道慈ももう使わねぇだろ」 「わかんねぇだろ。キャッチぐらいはするかもだし」 「俺がいないところで?」  道慈は頭をかいた。あのな、と言ってから、ため息をついてる。 「じゃあお前がすんのか? 俺と」 「神奈川まで行かなきゃいけねぇのか」  雪丸がぼやくと、道慈が笑った。 「お前が来んのかよ」 「貸してもらってるからな」  雪丸も道慈の笑顔を見て嬉しくなって笑った。  道慈のグローブをつけ直し、球の結び目を触って確かめてから上に投げる。額の上で落ちてきた球をキャッチした。やっぱり捕りやすくはない。 「卒業式、どうだった?」  父が卒業式の前日に亡くなったため、忌引きで出られなかった。正直それどころじゃなかったので本音はどうでも良かったが、道慈とまだ喋りたくて話題に上げた。  雪丸の中学生活は部活を引退した時に終わったようなものだった。 「写真撮ったな、たくさん。あとで野球部の写真に、カワが編集してお前の顔ぶち込むって」  道慈が携帯を開き、写真を見せてきた。学ランの胸に花飾りをつけた見慣れたメンツが丸筒を片手にポーズをきめている。 「はは、そんなことできんの。卒アルみてぇ」 「卒アル持ってきたぞ」  道慈がカバンの中からアルバムを取り出した。右手で受け取ってベンチに置く。  再度ボールを投げてキャッチする。 「あと、女子にお前のボタン貰ってこいって言われたな。もう会わねーのにどうやって渡すんだよ」 「はは、あげようか? 俺のボタン」 「いらねぇよ」  道慈が雪丸が置いた卒アルのカバーを取った。大きな手が裏表紙の裏のメッセージボードを開く。 「タケが雪丸の卒アルだけはムカつくから女子に絶対書かせねぇって」  白いメッセージボードはインクが伸びたような跡で汚れていた。その下には油性ペンで書き殴られた、汚い字の雑な寄せ書きがある。「雪丸やり過ぎて死ぬなよ!」「ヤリチン万歳」「お前たまにまじムカつくことあったけど、時々良いやつだから結局嫌いになれなかったわ、3年間ありがとう」「女に刺されて死ぬなよ!」「高校行ったら俺もバイトする。絶対野球はもうしねぇ」「スライディングのやり方教えてくれてありがとう」「ミスタークソすけこまし」「一球入魂」「お前が空気読まずに頑張ってたから俺も頑張れた、8年間ありがとう」「クソ女好き地獄に堕ちろ、俺らとも遊べよ」「何があっても死ぬな」  雪丸は笑ってしまった。 「なんでみんな俺が死ぬと思ってんの」 「お前が死にそうな顔してるからだろ」 「これお前の字じゃん」  雪丸は一つだけやたらと達筆な字をなぞった。油性ペンでも筆圧が濃いのがわかる。何があっても死ぬな。  別に死ぬ気ないけど。言おうとしてやめた。  グローブを借りて、守らない口約束をして、本当のところは生きる理由を探しているのかもしれない。 「俺に生きて欲しい?」  雪丸は道慈の肩に手をかけて顔を覗き込んだ。殺してたら、どうじくんは俺の味方になってくれんの? 3年前そう聞いた時とは声変わりした声は、わずかに低くなっていた。  あの時は場合によると即答された。  道慈は今回も迷うことなく即答した。 「当たり前だろ」 「はは、じゃあ生きる甲斐があるな」  ちょうど今、生きる理由が見つかった。  

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