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第20話

 広いベッドの上であぐらをかいたまま、雪丸はオイルでベタつく指をウェスの綺麗な部分で拭った。手入れしたばかりのグローブは塗り込んだ油で僅かに湿っていた。左手でベッドサイドのタバコを手に取る。先端に火をつけて一息ついた瞬間、空気清浄機が静かに稼働し始めた。  膝の上のグローブを見下ろす。黒い皮は色褪せてはいるが、たまに手入れしているので硬くはなっていない。  父親が死んだ後すぐ、父が負っていた借金が判明した。叔父の指示に従った結果、雪丸が借金を相続することは無かった。代わりに雪丸の実家は無くなった。就職先が寮に早めに来て良いと言ってくれたので、数着の衣服と卒業アルバムと借りたグローブをすかすかのボストンバッグに詰めて、3畳1間の部屋に移り住んだ。  父の財産に当たるものは家から持ち出してはいけないと言われたが、当時の雪丸は何が財産なのかよくわからなかった。卒業アルバムと道慈のグローブは父親の財産でないことは明らかだったので持っていけた。布団も何もない薄寒い部屋の毛羽だった畳の上で、グローブを抱きしめて寝たのを覚えている。  不安定な時期に支えてくれたグローブにそっと唇をつける。油と革の懐かしい匂いがした。  結局あの日から一度も道慈とキャッチボールはしていない。  道慈はもうグローブを貸したことすら忘れているだろう。一度地元のメンバーの草野球に誘われた時、道慈は当然違うグローブを使っていた。雪丸はその日の前日、仕事で太客数名が被って朝までシャンパン合戦が繰り広げられたため、酔っ払ったまま送りの車で集合場所に直行するはめになった。野球どころかグラウンドで吐くことしかできなかった。こんな田舎まで来たことを褒めてほしいと竹田に主張したところ、真顔で二度と来んなと言われた。  グローブをサイドテーブルに置いて乾かしながら、ハーパンを脱いでワイドめのパンツを身につける。クローゼットからセットアップのシャツを取った。  シャワーの時に取っていたピアスを付け直す。軟骨に二つずつ、耳たぶに一つずつ。昔半ヒモ状態だった時に世話になった女に開けられたピアスホールだった。  今日は道慈と少し飲んだら、拡張の続きでもしてもらおう。考えるだけで頬が緩んだ。    同僚全員が行きたがらないVIPの警護に道慈が抜擢された。今までは気を遣われて外されていたらしいが、あまりに社員が任務を嫌がるので、ついに行ったことのない道慈にお鉢が回ってきた。  話には聞いていたが、企業の重役の中年の男は、大分下卑た趣味を持っていた。表向きは社交パーティと称した乱交パーティの惨状を見下ろしながら、道慈はひたすらに時が経つのを待っていた。依頼人が勝手に自分で薬をキメてラリる分にはどうでもいいが、ハニートラップは警護の責任にされかねない。いちいち依頼人に耳打ちして興を削がれたという顔をされるのも苦痛だった。  パーティが終わると、依頼人はベッドルームで複数の裸体の男女に囲まれて就寝した後、僅かにふらつきながらシアタールームに向かった。  この直後に道慈はなぜ自分がこの任務に今まで通されなかったのか理解することになる。  依頼人はもはや自分の趣味がボディガードにどう見られようと気にしていないようだった。ついてくる番犬くらいにしか思っていないのだろう。これに関してはよくあることだった。  薄暗い部屋の中、出入り口付近で手を組んで立つ。窓とドアの動線を目だけで確認していると、不意にスクリーンに見慣れた顔が写った。眩暈がした。 「お、新作は6Pか。いいねぇ。監督は……この人やっぱわかってんなぁ」  また6Pである。本当に厄払いに行った方がいいかもしれない。  依頼人は神楽雪丸のファンだった。  大画面で幼馴染が男根に囲まれながら喘いでるシーンと依頼人の独り言のレビューを同時視聴することになり、道慈は胸が悪くなるのを感じていた。  いっそ今こいつの命を誰か狙ってくれと思った。  窓に控えた同僚が気まずそうに見てくる。道慈は無言で首を振った。  同僚のほとんどが道慈が雪丸と幼馴染だということを知っていた。一度雪丸がふざけて道慈の会社に警護を依頼したせいだ。実際ストーカー被害はあったようだが、警護している間道慈が酒も飲まないし遊んでもくれないと文句を言って2週間の契約を2日でキャンセルしやがった。その後なぜか道慈が上司に怒られた。  全員が依頼人の近くに控えるのを嫌がっているため、室内の担当は時間制になっていた。道慈は腕時計をチラと見た。あと3時間はある。  雪丸の喘ぎ声が聞こえてくる。少し誇張しているが、多分全部が演技ではない。何となくわかってしまうのがより不愉快だった。  必死にソファの縫い目を眺めようとしても、スクリーンが視界に入ってくる。  複数の手に性感帯をいじられ、穴を男根で責められながら、熱を帯びた顔で身体を震わせている。口元に陰茎が近づくたびに躊躇いなく自ら咥えている。淫乱の好き物がそこにいた。  吐き気に似た気持ち悪さを感じた。  不意に依頼人がスマホを手に取った。 「あ、雪丸の生配信始まってるじゃないか。また突発だよ……事前通知してって言ってるのに……ログもない時あるし。一応いい大人だろ……」  不満気に呟くなり、今度はごそごそと動き出した。  道慈は再度腕時計を確認して、まだほとんど時間が経っていないことにうんざりする。これなら乱交部屋にいた方がマシだ。  配信が始まってもゲイビデオは流れ続けていた。どっちかにしろよと内心で思った。 「雪丸ベロ見せて……」  ソファの背もたれから男の背中がのぞいていた。四つ這いになっているようだった。  機械越しの雪丸の声が聞こえてくる。ゴカイドウじゃん、投げ銭サンキュー。なんでいつもベロ見たがるの? ……エッチ。  男の興奮したような鼻息が聞こえてくる。ソファが横に揺れ始めた。  同僚の顔がドン引きしている。向こうからだとスクリーンは視界に入らないが、依頼人の姿は全て見えているからだろう。 「乳首、乳首も……」  雪丸ののんびりとした声が聞こえてきた。強欲だねぇゴカイドウ。毎回言ってんだろ、さすがにここで脱げねぇからストリップの投げ銭は答えらんねーって。AV見てよ。全部でてっから。 「ちっ、ガード固いな、毎回……ど淫乱ケツマンコの癖に……」  状況を知りもしないとはいえ、こんな男に優しく語りかけている雪丸が聖人に見えてくる。  スクリーンの中では白濁に濡れた尻がドアップで抜かれていた。もうやめてくれと思った。  雪丸の配信が続いている。そういう系の配信やんないの? んー、俺が楽しくねぇからなぁ……一人でやんのあんま好きじゃねぇし。ま、気が向いたらな。  また適当なことを言っている。  結局依頼人は2時間ほど推し活という名のマスターベーションをした後、仕事に行った。元気な男である。  やっと交代の時間になった。身体はそうでもないが頭が疲れきっている。  社用車で無線を外していると、同僚がうんざりしたように言った。 「お前初めてだったよな。毎回これだぜあのおっさん」 「……結構きついな」 「お前神楽雪丸と知り合いじゃなかったっけ? ああいうの見たことあんの?」 「いや……」  正確には一度だけあるが、一度目とは訳が違った。男と絡んでいる姿は初めて見た。 「あのおっさん毎回配信になるとタブレットにちんこ擦り付けるんだよ、職場でもだぞ。キモすぎ。シコってる時に話しかけると邪魔すんなとかキレられるし。雪丸に配信でベロ出すなって言ってくれよ」  同僚の気持ちはわかるが、ベロ出すなは普通あんまり人間には言わない。どちらかというとペットとかに向けて言う言葉だ。もはや依頼人の性癖からして舌を出す出さないの問題でもない気がする。  確かに依頼人は乱交してる時に話しかけても比較的穏やかだったのに、なぜかシアタールームにいる時は話しかけるとピリついていた。  退勤してすぐにシャワーを浴びた。猫の自動給餌機が稼働しているのを確認して、トイレの砂を変える。その後蒸し暑い寝室の冷房を限界まで下げ、日差しが鬱陶しいのでカーテンを締め切ってベッドに横たわった。  今日は部屋に雪丸がいないことに安堵した。あんな映像を見た後にどんな顔で接すればいいのかわからない。  1日半の休暇の後は夕交代でまたあの依頼人の元へいかなきゃいけない。みんなが嫌がるのもわかる。その分手当も弾みはするが。  スマホを確認すると、雪丸から連絡が入っていた。今日は夜飲みに誘われていた。行ってみたいバーがあるらしい。  眠気に抗えず、適当に返信を打ちながら眠りにつく。ふわふわの塊が部屋が涼しくなったのを見計らって腕の中に入ってきたのを感じた。  寒い。ブランケットを引き上げ、熱源を抱きしめる。鳴き声をあげて胸に懐いてくる。嗅いだことのある香水とタバコの混ざった匂いがした。  違和感を感じながらも背中を撫でてやると、ふんわりとした毛並みが感じられない。あるのはさらさらとした温もりのある肌触りだけだ。頭の中に毛が全部抜けた猫の姿が映し出され、道慈は勢いよく起き上がった。  横には半裸の雪丸がいた。 「……お前何してんだよ」  ヌードの猫の次は幼馴染の乱れた姿が頭に浮かび、一瞬頭痛がした。 「道慈が寒そうだったから、人肌であっためてあげようかと思って」  確かに寝る直前に冷房を最低温度に設定したため、部屋の中は冷え切っていた。居場所を取られた大五郎がブランケットの上で丸くなっている。 「いらねぇよ」  道慈は自分で半裸になったくせにくしゃみをしている雪丸に、サイドテーブルに雑に置かれたシャツを投げる。ついでに冷房も切った。 「今日バー行きたいんじゃなかったのか?」  確か行く場所も指定されていた気がする。時計を確認すると、夕方6時だった。まだ待ち合わせの時間ではない。そもそも雪丸は自分で指定した時間に余裕で1時間遅れてくるような男だった。 「返信くんないから家まで来てあげた」 「ああ……送信してなかったか」  スマホを見ると、打ちこんだままの文が残っていた。  しただすな。変換すらしていない文字を覗き込み、雪丸が首を傾げた。道慈は無言でメッセージ画面を閉じた。 「なに今の」 「なんでもない」 「下……ちんこ……?」  バカで良かった。道慈は立ち上がり、洗面所に行こうとしたところで手を掴まれた。 「道慈に背中なでなでされたら勃った。下出しちゃダメ?」  上目遣いで見上げられる。道慈は言葉につられて視線を落とした。羽織ったシャツから覗く腹筋に咲いた蓮の下は、確かに膨れていた。  もはや勃っても隠そうともせずに誘ってくるようになった。本当に誰でもいいのだろう。欲を解放してくれるなら誰でも。昔からそうだ。知ってはいたが、その他大勢と一緒にされるのは果てしなく不愉快だった。 「……ダメだ。トイレ行け」 「えー。続きは?」 「今日はしねぇ」 「……やんなった?」  雪丸が顔を覗き込んでくる。何も言わないでいると、じろじろと道慈を見ていた視線が不意に落ちた。ま、いいや。ベッドから降りて立ち上がっている。 「なら飲み行こうぜ。早く準備しろよ」  トイレに行くことなくリビングのソファに腰掛けテレビをつけ始めた。  道慈は雪丸から完全に欲の雰囲気が抜けたことに安堵していた。 「まだ時間じゃねえだろ。ジム行こうと思ってたんだが」  雪丸と飲む前に身体を動かして頭を切り替えないと、何か変なことを言いかねない。別に雪丸が悪いわけではないのだ。普通に仕事して生きてて下半身が果てしなく軽くて、そんな雪丸を消費している人間がたくさんいるだけだ。 「ああ、夜勤だから夕方ジム行くのか……じゃあ俺先飲んでるわ」  雪丸が携帯をいじり始めた。女と連絡しているのだろう。  道慈が顔を洗っている間に雪丸は玄関から出て行った。ジム終わったら電話しろよとだけ残して。  雪丸はボディーソープの香りがする女の胸に顔を埋めながらため息をついた。 「ちょっと、人の乳でため息つかないで。減るんだけど」 「減んねぇだろ……こんだけでかけりゃ」  60分1万千円のぽっちゃり専門のソープだった。チップ3万で本番もやらせてくれるらしい。雪丸はイケメンだから特別に2万でいいよと言われたが、普通に高ぇだろとは思っている。  タダで相手してくれる相手なら何人もいるが、半分付き合っているような状態の彼女達に、さすがに道慈の愚痴は言えない。こういう話は商売女に聞いてもらうに限る。 「またダメになったかも……」  今日誘った時の道慈の目が忘れられない。普通に嫌そうな顔をされた。やんなった? と自分で問いかけてから、答えを聞くのが怖くて結局逃げてきた。 「てかさぁ、なんで前回の時点で食わなかったわけ? アイナそれが意味わかんないんだけど」  欲のままに腹の贅肉をたぷたぷしながら、雪丸はくぐもった声で答えた。 「だってかっこよくて……」  正確には構ってもらうだけで嬉しくて気持ち良くて、最終目標が頭からすっぽ抜けていた。とはいえ前回誘っていたとしても道慈は挿れてくれなかっただろう。勃ってすらいなかった。  女――アイナは真顔で言った。 「いやかっこいいからやるんじゃん。なんのためにケツマンコついてんだよ」 「お前なんでそんな口汚いわけ?」 「だいたい拡張だけしてもらうって要は自分だけ気持ちよくなって終わりってことでしょ? やってることゲイマッサージじゃん。それをジムのただ券数枚でやらせてんの最低。せめてフェラとかしてあげないとダルがられんの当たり前」 「いやそれはわかってんだけど……拒否られっから……待って悲しくなってきた」 「相手ノンケでしょ? そりゃ同性に股舐められんの嫌だよね。100パー脈なしじゃん」 「俺一応客なんですけど。忘れてらっしゃる?」 「あ、でも一回はフェラできたんだっけ」 「AV見せたけどな」 「必死すぎて草」  雪丸はアイナの横に寝転がりながら背を向ける。金払ってわざわざ来たのに全然優しくしてくれない。  一人で丸くなると、流石に言いすぎたと思ったのか、アイナが背中から抱きしめてきた。全身を包む柔らかさに涎が垂れそうになる。 「雪丸ぅ、冗談だって。いつか抱いてもらえるって。薬盛れば?」 「そんなことしたら絶交される」 「まず、向こうに何もうま味がないっていう状況がまずいよね。奉仕を強要してるって自覚した方がいいよ」 「……はい……」 「でも大丈夫。雪丸顔も体も100点満点だし、優しいじゃん。だらしないけど。男という障害さえなければ多分落とせてたよ」 「なんの慰めにもなってないんですけど……」 「いくらでも話聞いたげるから」 「もう喋りづれぇよ。どうせ幼馴染にえっちな奉仕を金で強要してるクソ野郎だよ俺は」  アイナが拗ねないでよぉと言いながら、機嫌をとるかのように身体を撫で回してくる。柔らかい手がバスローブの中に入ってくるのに吐息が溢れる。 「ほら、雪丸ちゃんと色っぽいよ。私が代わりに前立腺やったげようか?」  体積のある身体が腰に乗り上げて見下ろしてくる。ずっしりと腰に乗った重みが心地いい。  下から見上げると、バスローブから覗く豊満な乳がさらに強調されて見えた。 「俺別にケツが特別好きなわけじゃねぇんだけど」 「目隠しして私のことどうじって呼んでもいいよ。おもちゃ使う?」 「……いくら?」  女が手を開いた形で見せてきた。雪丸は考えるように視線を彷徨わせてから尋ねた。 「めちゃくちゃ声出してもいい?」 「好きにしなよ」  雪丸はその後きっかり30分女に喘がされた。    

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