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第29話

 連絡を取っていた女達みんなと縁を切ったら、雪丸のスマホが鳴ることはほとんど無くなった。通知に映るのは仕事の連絡か広告の無機質な文面ばかりだ。  胸に空洞が空いたかのように居心地が悪い。別れた瞬間の女の表情がふとした拍子に頭にちらついて、罪悪感に息が詰まる。雪丸は一度として女が揃って望む独占を保証してやったことがなかった。ただ甘い言葉で誘惑して、望む言葉を与えて、傷つけては傷を舐めて、その時その場でだけ無責任に愛した。それでも好いてくれる限り答えるつもりでいたのに、それすらできなかった。  呼吸がしづらい。  誤魔化すようにタバコに火をつけようとして、電子タバコを渡された。舌打ちが出る。 「これ俺の車なんだけど。せめて吸える状態にしてから渡せよ」  紙タバコをしまって電子タバコのスティックを出す。  松田がハンドルを切りながら真顔のまま答えた。 「運転手に無茶言わないでください。今週機嫌悪いっつーか……疲れてますね。もう全員と別れたんすか?」 「まあな」  助手席の窓が開けられる。松田の低体温に合わせて暖かめに設定していた車内に涼しい風が入ってくる。ハイネックで僅かに蒸れていた身体の熱が落ち着いていく。 「他人の常識に合わせるってどんな気分ですか?」 「食べ放題の焼肉行ってカルビとロースとハラミは食っちゃダメって言われてる気分」 「あー……なんとなくわかりました」  キツイっすねと浅い共感をいただいた。  空になったスティックの箱を潰してドリンクホルダーに置く。 「その場合道慈さんはなんなんですか?」 「酸素」 「……重……」  電子タバコを吸って窓の外に向かって息を吐き出しながら、適当に会話を続ける。 「プロポーズ費用貯まったの?」 「まだっすね。来週企画あげるんで見てください」 「働き者だな」 「まあ金が必要ってのもありますが……この仕事好きなんで」 「俺と働けて幸せ?」 「画面越しと違ってクソみたいなわがままの相手しなきゃいけないのはあれっすけど、やっぱモチベは上がりますね」 「クソみたいって言った?」 「ぶっちゃけ不特定多数の女抱えといて、いざ別れなきゃいけなくなったら女にボコボコにされて職場でもしょんぼりしてんの普通にうざいっすけど、その顔面なんでまあ良いかって感じです」 「お前たまに俺がお前のボスだってこと忘れてるよな」  道慈のマンションの前で車から降りて、オートロックを開けてエレベーターに入る。  狭いエレベーターの中で、つま先をしきりに動かす。胸の内を焦燥感が渦巻いていた。誰とも繋がっていないのが気持ち悪い。電話一本で受け入れてくれる居場所はもうどこにもない。言いようのない焦りで手に汗が滲んだ。  合鍵はなにかあった時か、女と別れたら使えと言われていた。女と別れるまで会わないと道慈に言われてしまったので、この一週間結局一度も会っていない。  見慣れた玄関の鍵を開ける手が震えていた。たかだか一週間や一ヶ月会わないだけでどうしてそんなに寂しがるのだろうと女に対して不思議に思っていたが、今ならなんとなくわかるかもしれない。不安なのだ。一週間前に触ってくれると言っていた道慈の気が変わっているかもしれない。そうでなくても人間なんて気分の生き物だ。飽きたら捨てられるし、愛情は簡単に憎しみに変わってしまう事をいやと言うほど知っている。熱が一生続くことなんてない。雪丸は道慈に出会ってからずっと道慈が一番で特別だったが、自分が普通と違うことは自覚していた。  無様だ。  雪丸は震える手を見下ろして思った。  欲を出して自分を曲げすぎた。抑えられないくらいに不安になっている。こんなザマでは道慈に会えない。  でも会わないと、もう限界だ。  自我と欲の間で板挟みになって、鍵穴を呆然と見つめる。半歩下がった瞬間、ドアが開いた。   家主と目が合う。詰まっていた息が無意識に口から漏れた。 「何してんだお前。入るなら入れよ」  怪訝な顔をした道慈に引き入れられるままに玄関に入った。背後でドアが閉まる金属音が聞こえた。  なんの覚悟も決まらないまま、頭もぐちゃぐちゃのまま、ここにきてしまった。  玄関で靴も脱がずに呆然としていると、流石に不審に思ったのか道慈が見下ろしてきた。分厚い手が頬に触れる。ぴくりと身体が反応した。 「……なんかあったか?」 「……全員と別れた。お前が言うから」  お前が人のもんに手出したくないって言うから。別れろって言うから。自分を曲げた。そしたらこんなに落ち着かない。普段はずっと遠くにあった不安が体のすぐそばまで簡単にくる。女に嫌われるのは慣れているはずなのに、拠り所がどこにも無くなったのが苦しい。  呼吸がしづらかったのは、本当は女に対する罪悪感なんかじゃなくて、また一人になったことが怖いだけだった。  外面を装う余裕もなかった。身内がいない人間なんて、この歳ならもう珍しくもない。それなのに、いい歳して未だに思春期の頃の孤独を引きずっている自分が惨めだった。 「道慈……お前さ、責任取れんの?」  気づいたら恨みがましく見上げていた。  自分は誰にも責任を取れなかったくせに、人にばかり要求している自覚はある。一方で、当たり前だとも思った。  だって全部、道慈のせいだ。道慈のせいで全部無くなった。世界が居心地悪いものになった。道慈が譲らないからこうなった。  道慈の手が確かめるように頬を撫でた。真っ直ぐに見下ろしてくる目と視線が絡む。 「取るよ」  真剣な顔から目が離せない。  喉奥がぐっと鳴った。 「俺、もう……触ってくれるだけじゃ足んねぇよ?」  道慈の腕が腰に回ってくる。密着した体温に目の奥が熱くなった。 「ああ。あとは? 何が欲しい?」  道慈の声がやさしい。 「……俺のこと愛して」  言葉尻が掠れた。  お前のせいでまた一人になった。だから責任とってお前が俺の全部を引き受けろよ。俺の全部を死ぬまで愛せよ。そうするのがお前の義務だろ。  本当は胸ぐらを掴んでそう言いたい。しかし現実は昂った感情が目尻から溢れ出しただけだった。  道慈が笑って雪丸の目尻を親指で拭った。濡れた感触がこめかみに伸びる。 「当然」  耳から後頭部を包んだ手に上向かされて、唇が重なる。必死に腕を伸ばして太い首に抱きついた。  肯定された。道慈が当然って言った。俺を愛すのが当然って。安堵がじわじわと胸に沁みてきて、苦しいほどだった。 「っ、んっ、はぁ」  大きな唇に食まれて啄まれる。一月前ダメと言われた行為を、今度は道慈からされている。 「どうじ、俺だけ、俺だけにしろ」  呼吸の合間に道慈に訴えかける。 「お前と違って俺はもともと一人にしぼれんだよ」   道慈が苦笑いしている。そんなことは知っている。でももっと欲しい。ちゃんと約束してほしい。 「ずっと、俺だけ愛せよ」 「うん、ずっとな、」  肯定される度に胸の奥が締め付けられるように甘く痛む。 「いっしょう――」  言質が欲しくてなおも食い下がろうとしたら、顎を掴まれて分厚い舌が唇の中に入ってきた。歯列をなぞって侵入してきた舌が口の中を簡単にいっぱいにする。今まで入ってきたことのないような大きさに驚きながらも、受け入れられる安心感に目を瞑る。  口の中が道慈でいっぱいになるのがたまらない。愛情を直接寄越されるかのように心が満たされていく。呼吸とともに胸を渦巻いていた不安まで徐々に飲み込まれていくかのようだった。  男とキスすることへの抵抗なんてもはや微塵も感じなかった。それどころか、道慈は欲を自覚してからずっと頑なにかかっていた歯止めをやっと外せることに感謝すら覚えていた。  子どものように簡単に一生の約束をしようとする口を開かせて舌を入れると、すぐに雪丸の舌が一生懸命絡み付いてきた。狭い口内を舌の腹で撫でる。密着した身体にじんわりと汗が滲んだ。  雪丸の口約束は大概当てにならない。中坊の時に人のグローブを今度返すわと言って借りパクしてった奴だ。もう無くしたか捨てたかしているだろう。   結局7年もキャッチボールどころか話しにすら来ず、たまに試合の観客席に顔を出すだけだった。できない約束ならすんなよとは思っていた。 「どうじ、もっと」  唇を離すと、透明な糸が橋を渡した。雪丸が首に回した手を引き寄せてねだってくる。何かに追い立てられているかのような顔だった。女と別れたのが大分堪えているようだった。  宥めるように頭を撫でながら、唇からこぼれた唾液を拭ってやる。 「とりあえず靴脱げ」  フローリングに上がった雪丸の背中を押してリビングに入らせる。  ソファに腰掛けた雪丸がウーロン茶と言ったのを聞きながら、冷蔵庫からお茶を取ってグラスに注ぐ。グラスを渡した瞬間雪丸が一気に飲み干した。喉が渇いていたらしい。 「道慈、エッチしよう」  隣に腰掛けてグラスに口をつけていると、雪丸がスウェットの裾を掴んできた。行為を要求する割に視線が合わない。 「先に話そう」 「もう話すことなんてねぇよ。別れたら触ってくれるって言ったよな、お前。嘘ついた?」  雪丸が顔を上げた。責めるように見つめてくる。 「ついてねぇよ。でも先に確認したい」 「何だよ」 「お前は俺だけにしたんだよな?」 「だから別れたっつってんだろお前のせいで」  雪丸が早口で答えた。話さない限り進めないとわかったのか、隣の膝が苛ついたように揺れ出す。 「それでなんでそんなに焦ってんだよ。俺だけじゃ嫌なのか?」 「嫌だよ。嫌だけど我慢してんだろ。俺はお前とは違って一人にしぼれねぇんだよ」 「なんで俺だけじゃ嫌なんだよ」 「なんでもこうもねぇよ。お前何年俺といんの? 俺はこうなんだよ、知ってんだろ」 「俺だけにするのがそんなにストレスならこれからやってけねぇだろ」  雪丸の膝が止まった。数秒俯いてから、長い指が金色の前髪を掴んだ。腕の隙間から自嘲が漏れ聞こえた。 「それで? やっぱ無理ってこと?」  髪を掴む手が震えていた。  道慈にはわからなかった。今までの自分を変えてまで道慈のもとに来たのに、どうして雪丸は道慈だけでは満足できないのか。その上人には自分だけ愛してと要求してくる。自分勝手なのはわかっていたからもうそれはいいとしても、道慈の言うことを聞いて無理し続けていたらいずれ雪丸がストレスでダメになるだろう。 「お前次第だよ。俺だけじゃ何が足りねぇんだ?」 「足りないとかじゃねぇ。手に負えねぇならそう言えよ」  雪丸の顔から血の気が引いていた。先ほどからずっと視線も合わない。  「手に負えねぇとは言ってねぇだろ。論点ずらすな。ちゃんと考えろ。俺が男だから足りねぇってことか?」 「……は? 舐めてんのかテメェ。こっちは年季入ってんだよ……!」  雪丸の手が胸ぐらを掴んできた。釣り上がった目が睨んでくる。 「論点ずらしてんのテメェだろ! 今だってやろうとしねぇじゃねぇかよ! お前のために全部捨てたのに! こっちはお前に捨てられたらまた一人になんだよ!」  雪丸が息継ぎもせずに怒鳴ってから、ひくりと喉を鳴らした。面食らってその顔を眺めていると、一拍おいて大きな瞳が揺れ出す。怒鳴った雪丸の方が動揺しているようだった。  胸ぐらを突き放される。 「……もういい」  ふらりと立ち上がった腕を引っ張り、無理矢理ソファに座らせる。 「良くねぇよ。勝手に行くな」  だいたいわかった。  要は雪丸がたくさんの女を抱える目的は一人になるリスクを分散させるためだ。いつも手の届くところに誰かを置いておきたいのだ。もうこれは子どもの頃からの習慣なんだろう。  関係の永続性を信じていないから、予防線を張るのが癖になっている。道慈もまた雪丸を捨てる可能性のある一人だと認識されているわけだ。  雪丸が膝に肘をついて頭を抱えている。 「最悪だ……クソダセェ……」  肘の狭間から苦々しげな声が漏れている。 「別にダサくねぇだろ」  雪丸が黙り込んだ。道慈はため息をついた背中を叩いた。  雪丸が焦って身体を求めてきた理由もなんとなくわかった。雪丸にとっては身体をつなげることが愛情を確認することに直結しているのだろう。道慈もその気持ちはわかる。  つまり今はまだ雪丸が道慈の愛情を確認できてないから不安なのだ。女を捨てて一人になってしまったから。  それでも道慈はこれだけは確認しなきゃいけなかった。 「お前には悪いが、俺はお前が他の奴とやんのは耐えらんねぇ。だからこれからもお前に我慢させることになる」 「もう別れてきただろ……」  雪丸が疲れたように言った。手首を引いて視線を合わせる。 「これからずっとだ。新しい女も男も作っちゃダメなんだぞ。わかってるか?」 「……うん」  雪丸が小さく頷いた。存外言い返してこなかった。  ずっとという言葉が効いているのかもしれない。そういえばさっきも一生と言っていた。 「どうすれば俺だけで足りるかあとで一緒に考えよう」  雪丸が不貞腐れたように目を逸らした。もう返事すらしない。  手首を離して身長の割に小ぶりな頭に手を置く。撫でても抵抗はされなかった。後頭部の髪に手を差し込み、顔を傾けて口を寄せる。雪丸の手がスウェットを掴んできた。  乾いた唇と唇が触れ合う。下唇を食んでは離していると、雪丸のまつ毛が震えた。わずかに口が開かれた。 「んっ……」  控えめな隙間をこじ開けるようにして舌を入れる。温かい口の中はタバコの苦い味がした。  雪丸の手が肩に添えられた。いつもはすぐに抱きついてくるのに、まだ複雑な感情が残っているようだった。歯列の裏側をなぞりながら、不意に気づいた。雪丸の態度が気になって、大事なことを言うのを忘れていた。一番大事なことを言わずに、自分の譲れない条件ばかり突きつけていたら、雪丸が不安に思うのも仕方がない。   だんだんと力の抜け始めた身体をソファにゆっくりと押し倒しながら、ようやく応じてきた舌を舐る。  狭い口の中を味わうのが気持ちいい。だが先に言わないといけない。  唇を離すと、雪丸が名残惜しげに見つめてきた。 「雪丸、悪い。言い忘れてた。お前のことが好きだ」   熱っぽく唇を見つめていた顔が目を瞬く。そしてじわじわと首から順に顔が染まっていく。 「……っ」  雪丸が目を泳がせながら口元を手の甲で覆った。耳まで赤くなっている。向けられた手のひらに口付けると、ひっと雪丸が息を呑んだ。遅れて雪丸の身体にびくびくと震えが走った。  まさかと思い視線を下に下ろすと、雪丸がさっと膝を閉じた。  しばしの沈黙の後、茹ったように赤い顔から絶望が滲んだ声が漏れた。 「…………童貞かよ……俺……」  道慈は思わず吹き出した。あまりに雪丸に似合わない言葉に、状況より面白さが勝ってしまった。  雪丸が睨んでくる。笑うなバカ。お前のせいだろ。  悪態をつきながらも、恥ずかしさからかその目は涙目になっていた。  愛おしいとはこのことを言うのだろう。    

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