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第13話 春陽の聖域、あるいは「家族」の肖像

1. 鏡の中の「支配」:陥落した王子と、一瞬の情熱 ホテルの朝、カーテンを透過する春の陽光が、 昨日までの淫らな熱を吸い取っていく。 直人は鏡の前で、 慣れないスーツのジャケットに腕を通していた。 「直人さん。……仕上げ、お手伝いしますよ」 振り返った瞬間、直人の思考はホワイトアウトした。 そこにいたのは、スリーピースのベストを完璧に着こなしたレオンだった。 (……なんだよ、それ。……。分かってたけど……) 直人は手に持っていたネクタイを握りしめたまま、 まじまじとレオンを見つめた。 ベストが強調する鍛え上げられた胸板から腰へのライン。 モデルどころか、どこかの国の貴族か何かが紛れ込んだような、 圧倒的な「造形美」がそこにあった。 「……直人さん? どうかしましたか?」 レオンが至近距離まで歩み寄ってくる。 その整いすぎた顔を間近に見て、 直人は思わず、感心したように息を漏らした。 「……お前、……めちゃくちゃかっこいいな。腹が立つくらい決まってやがる。……よし、ミツキのパパとして恥ずかしくねえな」 嘘偽りのない、素直な賞賛。 その瞬間、 余裕たっぷりだったレオンの動きがピタリと止まった。 完璧な「王子」の仮面が剥がれ、頬が一気に紅潮する。 「……なお、直人さん……! そ、そういうことを、そんなに真っ直ぐに言われると……。不意打ちは、心臓に悪いです。……今の言葉、録音しておけばよかった……」 動揺のあまり早口になり、うろたえるレオン。 その姿が、直人にはたまらなく「可愛い」と思えた。 直人はふっと目を細めると、レオンの首元をぐいと引き寄せ、 その唇に迷いのない、けれど柔らかなキスを落とした。 「……ん」 驚きで目を見開くレオン。 一瞬の沈黙の後、彼の瞳に溶けるような幸福の色が広がる。 「……っ、直人さん……今のは、反則です……!」 レオンの理性が音を立てて崩れ去った。 彼は感極まったような声を上げると、 直人の膝裏に腕を回し、軽々とその身体を抱き上げた。 「……式典なんて、もうどうでもいい。……このままベッドに戻って、今の続きを……一日中、あなたを愛させてください……!」 「――おい! バカ、降ろせレオン!」 情熱に火がついたレオンは、本当にベッドへ逆戻りしようと足を踏み出す。 直人はその肩をドカドカと叩いて、必死に声を荒らげた。 「今日はミツキの晴れ舞台だろ! 俺たちが遅れてどうすんだ! ほら、行くぞ、ネクタイ締めてやるから!」 「……ですが、直人さんが……。……はぁ、分かりましたよ」 直人に怒られ、レオンは名残惜しそうに彼を床に降ろした。 だが、その顔には隠しきれない喜びが張り付いており、足取りは明らかに浮ついている。 レオンは恭しく直人の左手を取ると、 銀色の輝きを放つお揃いの高級時計を、儀式のようにその手首に嵌めた。続いて、自分の手首にも同じ重みを纏わせる。 そして、小さな銀色の箱から取り出したのは、重厚な光沢を放つプラチナのネクタイピン。 レオンはそれを自分の唇に寄せ、冷たい金属に深く、熱いキスを落とした。 「……っ、お前、何を……」 直人が絶句するのを余所に、レオンはその「印」を、 慈しむような手つきで直人の胸元に差し込んだ。 「……よし。これで、僕の印は完璧です。……悪い虫がつかないように、僕があなたを愛している証を、心臓の一番近くに置いておきたくて」 独占欲を隠そうともしないレオンの言葉に、直人はあからさまに呆れたような溜息をついた。 「……ったく。お前、本気で言ってんのか? 虫除けって……。四十過ぎた、ただの無骨な整備士だぞ、俺は」 直人は自分の胸元で光るタイピンを指先で弾き、どこか誇らしげに浮かれている年下の伴侶を見つめた。 「そんな風に俺のことを見れるのは、世界中探してもお前だけなんだから、安心しろ。……お前以外に、俺にちょっかい出す奴なんていねえよ」 「……いいえ。僕の直人さんは、あなたが思っている以上に魅力的ですから。……油断は禁物です」 レオンは直人の言葉に救われたような、 それでいてさらに欲深くなったような瞳を向け、満足げに直人の手を取った。 直人は「やれやれ」と首を振ったが、 握られた掌から伝わるレオンの熱い鼓動までは否定できなかった。 2. 式典会場:特等席は「あなたの隣」 学校の正門を潜ると、桜の花びらが舞う中、 背筋を伸ばして歩く二人の姿は、一般の保護者の中でも異彩を放っていた。 特にレオンは、直人に褒められた余韻で、いつも以上に誇らしげなオーラを纏っている。 体育館の保護者席に座ると、関係者が慌てて駆け寄ってきた。 「橘さん……! 今回は来賓席をご用意しておりますので!」 「お気遣いありがとうございます。ですが、今日は一人の保護者として、大切な娘の門出を、この場所から見守りたいのです。……ここが、私にとっての最高の特等席ですから」 淀みのない、それでいて拒絶を許さない紳士的な断り。 関係者が引き下がった後、直人は小声で囁いた。 「……お前、本当にいいのかよ」 「椅子なんてどうでもいいんです。……あなたの隣で、美月さんが名前を呼ばれる瞬間を共有できる。これ以上の栄誉が、他にあると思いますか?」 レオンは隣に座る直人の肩に、そっと自分の肩を触れさせた。 狭いパイプ椅子。 服越しに伝わる体温。 直人は前を見据えたまま、その心地よい重みを受け入れた。 3. 桜の下の再会:鋭い観察者 式典が終わり、春の光が降り注ぐ校庭。 「パパ、レオンさん! お疲れ様!」 人混みを縫って駆け寄ってきたミツキは、二人の前に立つなり、その大きな瞳を輝かせた。 「おう。……ミツキ、制服、似合ってるぞ。立派だった」 直人は努めて冷静に振る舞うが、全身をレオンの所有物としてパッケージングされているような独占感が、直人を微かにソワソワさせる。 そんな直人の空気を察してか、ミツキの視線が二人の手元と胸元に釘付けになった。 「……あれ? ちょっと待って。その時計、お揃い? しかも……そのタイピン、レオンさんのだよね?」 「ええ。昨日、僕たちの新しい門出を祝して、お揃いで新調したんです。タイピンは……僕の一部を預けておきたくて、僕のものを着けてもらいました」 レオンは独占欲を隠そうともせずに、どこか誇らしげに微笑む。 「……わー。レオンさん、自分色に染めすぎだよ。……でも、パパ、さっきからレオンさんの隣でなんだかソワソワしてるし。もしかして、レオンさんに甘やかされすぎて、腰でも抜かした?」 ミツキはすべてを察しているような、けれどあえて追求しない優しさを含んだ、確信犯的な笑みを浮かべた。 「……バ、バカ言え! 慣れないスーツで肩が凝ってるだけだ!」 「ふふ、そうですよミツキさん。あまり直人さんをいじめては可哀想です」 レオンがさりげなく直人の腰に手を添える。その掌の熱が、スーツ越しに伝わる。 「……あはは、そうだね。じゃあ、私は友達のところ戻るね。パパ、これからもレオンさんのことよろしくね!」 ミツキは大人びたウィンクを一つ残し、友人たちの元へと駆け出していった。 「……お前、わざとだろ。あいつ、気づいたかな?」 「バレても構いませんよ。むしろ、認められることで、僕とあなたの絆はより強固なものになりますから。それに、……多分バレてますよ。ミツキさんは賢い子ですからね……」 直人は呆れ半分、羞恥半分で溜息をついた。 その視線の先で、美月が桜の木の下で新しい友人たちと笑っている。 妻を亡くしてから美月を育ててきた月日が、今、一つの完成した形となった。 「……さて。……直人さん。美月さんもあんなに頑張っているんです。僕たちも、自分たちの『義務』を果たしに行きましょうか」 「……義務、ねえ。温泉に入って、酒を飲む義務か?」 「ええ。それから、僕があなたを、心ゆくまで愛でるという義務も含まれています」 レオンが直人の腕をそっと引き寄せ、春の光の中へと一歩を踏み出した。

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