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第17話 名残の夜、刻印の朝
1. 浴室での「空回りした覚悟」
「……おい、レオン。……結局、しないのかよ」
脱衣所の鏡の前。
新しく用意された浴衣の帯を指にかけながら、
直人は鏡越しに背後の男を鋭く睨みつけた。
その視線には、怒りよりも、行き場を失った困惑と、
自分だけが「構えていた」ことへの猛烈な羞恥が混ざり合っている。
先ほどまでのバスルームでの、
あの重苦しいほどの緊張感は何だったのか。
「洗浄のお手伝い」などという、レオンによる事実上の降伏勧告。
直人は、夕暮れ時の淡い光が差し込む中で、
文字通り隅々まで「検分」されることを覚悟したのだ。
実際、レオンの指先は執拗だった。
温かい湯の中で、直人の肌を一枚ずつ剥ぐような手つきで石鹸を滑らせ、
昨夜の情事の残滓を丁寧に、しかし情欲を煽るような速度で拭い去っていった。
直人の身体は、その愛撫に近い「洗浄」によって、とっくに沸点を超えていた。
心臓の音は耳元でうるさく鳴り、
レオンが次に何を仕掛けてきてもいいように、
奥歯を噛み締めて待っていたというのに。
結局、レオンは直人の身体を清め、
熱い口づけを項や背中に幾度も落としただけで、
「はい、綺麗になりましたね、直人さん」
と、事も無げにバスタオルを広げて彼を包み込んだ。
「お前……。あの思わせぶりな二択は何だったんだよ。俺の、あの……覚悟を、返せ」
顔を耳の付け根まで真っ赤にして、
絞り出すように告げた直人に、
レオンは濡れた髪をタオルで拭きながら、
ひどく穏やかな、そしてどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ふふ……。直人さんのあんなに真っ赤で、必死な顔が見たかっただけですよ。……それに、今夜はゆっくりあなたを『愛でる』ことに集中したかったんです。……それとも」
レオンが音もなく一歩近づき、直人の耳元で低く、鼓膜を震わせるような声で囁く。
「……物足りませんでしたか? 直人さん。挿入がご希望でしたら、今からでも……喜んで、ご奉仕しますが」
「バカ! 言ってねえだろ! ……っ、飯だ、飯食うぞ!」
直人は帯を乱暴に結ぶと、逃げるように脱衣所を飛び出した。
背後でレオンの愉しげな笑い声が響く。
それが何よりも癪で、
同時に、心臓の鼓動をこれ以上レオンに聞かれたくないという防衛本能でもあった。
2. 過保護すぎる夕餉
ダイニングに用意されていたのは、
身体の芯から温まるような和の献立だった。
地元の根菜をじっくり炊き上げた煮物、
香ばしい湯気を立てる岩魚の塩焼き、そして香り高いキノコの汁物。
「……あぁ、落ち着くな」
一口、出汁の効いた汁を啜った直人の口から、
自然と深い溜息が漏れた。
昨夜からの「嵐」のような時間、そして先ほどまでの精神的な駆け引き。
酷使された身体には、こういう素朴で実直な優しさが何よりも染みる。
「直人さん、この岩魚、身がふっくらしていますよ。ほら、あーんしてください」
「……っ、死んでもしねえぞ! 子供扱いすんな、箸くらい自分で持てる!」
「そんなこと言わずに。……僕に甘やかされるのも、休暇の醍醐味ですよ?」
レオンは全く引く様子もなく、
丁寧に骨を外した身を直人の口元へ運んでくる。
結局、根負けした直人が
「……今回だけだぞ」
と小さく口を開けてそれを受け入れると、レオンは満足そうに目を細めた。
「お前……。外じゃあんなに冷徹なツラしてるくせに、二人きりになるとどうしてこう……距離感がバグるんだよ」
「バグっているんじゃありません。これが僕の、直人さんに対する『標準仕様』です」
直人は呆れたように肩を竦めたが、
差し出されるままに料理を口にするうちに、
心も身体も柔らかく解けていくのを感じていた。
階級も、任務も、空挺の喧騒もここにはない。
ただの「直人」と「レオン」として過ごす、琥珀色の贅沢な時間。
3. 睡魔と執着の夜
食事を終え、布団に滑り込むと、
部屋の灯りを極限まで落とした。
窓の外からは、
春の夜風が庭園の木々を揺らす「さわさわ」という微かな音が聞こえてくる。
レオンは迷わず直人を背後から抱き寄せた。
そこには昨夜のような荒々しい独占欲はない。
ただ、大きな掌が直人の腹部を包み込み、
規則正しいレオンの心音が直人の背中に伝わってくる。
「……なぁ、レオン。……お前、くっつきすぎだ。……暑苦しいんだよ」
「……いいじゃないですか。……直人さんが良い匂いすぎるのがいけないんです。……安らぎすぎて、離したくなくなる……」
レオンの低い声が、心地よい振動となって直人の背中を叩く。
「……勝手なこと……ばっかり……」
直人はぶっきらぼうに返しながらも、
その温かさに抗えず、重い瞼を閉じた。
一日の疲れと、満腹感。
そして何より、隣にいる男への絶対的な安心感。
直人の意識は、急速に深い闇へと沈んでいく。
その様子を、レオンは闇の中でじっと見つめていた。
直人の寝息が深く、規則正しいものに変わるのを待って、
レオンはゆっくりと動き出す。
愛おしそうにその頬を撫で、項に鼻先を埋める。
「……寝顔も、無防備で可愛すぎますよ。……直人さん」
レオンの瞳に、夜の闇よりも深い情熱が宿る。
彼は、眠っている直人を起こさないように、
それでいて「自分の所有物」であることを刻みつけるように、
慎重に、執拗に、その肌へ「愛」を落とし始めた。
4. 惜別の朝:終わりの始まり
翌朝。
小鳥の囀りと、遮光カーテンを透過してくる柔らかな陽光で目が覚めた。
朝食は、出汁巻き卵の優しい黄色と、
炊きたてのご飯の香りが支配する、正統派の日本の朝。
「……もう、帰る準備か」
直人は箸を置き、
名残惜しそうに部屋を見渡した。
昨日まであれほど馴染んでいたこの空間が、
今は少しずつ「他人の場所」に戻っていくような寂しさがある。
「寂しいですか?」
「……当たり前だろ。……現実に戻れば、またあの騒がしい毎日だ」
「大丈夫ですよ。……僕が、あなたの隣にいます。それは、どこにいても変わりません」
レオンはいつものように完璧な微笑みを浮かべ、
直人の空になった茶碗を下げた。
その態度は、すでに有能な「部下」としてのスイッチが入りつつあるようにも見えた。
5. 鏡の中の「現実」:甘美な痕跡の露見
事件は、チェックアウトまであと三十分というところで起きた。
直人は、自分の荷物をバッグに詰め込み、
最後に身だしなみを整えようと洗面所の鏡の前に立った。
「……あ?」
シャツのボタンを留めようとした指が、ぴたりと止まる。鏡に映る自分の、首筋から鎖骨にかけてのライン。そこには、昨夜は無かったはずの、鮮やかで、それでいて毒々しいほどに美しい「朱い印」が、星図のように点在していた。
「……っ!? ……レオンッ! おいっっ!!!、……ちょっと来い!!」
洗面所から響いた、今までの静寂を切り裂くような直人の絶叫。
リビングで荷物をまとめていたレオンが、涼しい顔で「おや」と首を傾げて現れる。
「どうかしましたか、直人さん。そんなに大きな声を出して」
「どうかしたか、じゃねえ!! お前、優しくしろって……、言っただろ! ……これを見ろ!!」
直人はシャツの襟を乱暴に広げ、鏡を指差した。
鎖骨の窪み、肩口、そしてうなじに至るまで……。
眠っている間に、レオンがどれほどの執念で自分の肌を食んでいたのか、
その証拠が赤裸々に浮かび上がっている。
「……あぁ、綺麗だ。……朝の光の下で見ると、昨夜つけた時よりも一段と映えますね」
レオンは全く悪びれる様子もなく、
むしろ美術品を鑑賞するような陶酔した瞳で、直人の肌を見つめている。
「映えるじゃねえ! これじゃ見えちまうだろ! ……っ、明日からの仕事、どうすんだよ! 整備場でも、宿舎でも、……こんなの見られたらメンツ丸潰れだろうが!」
顔を真っ赤にして怒鳴る直人。
だが、その瞳には怒りよりも、
今まで鏡を見るまで全く気づかなかった自分自身の「隙」に対する羞恥が滲んでいた。
「落ち着いてください、直人さん。……ほら、一番上までボタンを留めてください」
有無を言わせぬ手つきで、レオンが直人の前合わせを、
下から順に、一つずつ丁寧な手つきで留めていった。
そして最後の一つ、一番上のボタンを留めると、
レオンはその襟元を軽く整えて満足そうに頷いた。
「……ほら、見てください。このシャツのボタンを一番上まで留めれば、外からは全く見えませんよ。……僕、そこまで計算して付けてますから」
「計算……? お前、確信犯かよ!」
「ええ。動くたびに襟元からチラリと覗く……その『ギリギリ』のラインを楽しんでいただこうと思いまして。それに、明日基地でつなぎに着替える時も、素早く着替えれば済む話です」
レオンの楽しげな言葉に、直人は眩暈を覚えた。わざとこの位置に、わざとこの数を刻んだということか。
「……お前、性格悪すぎ……っ。もし、万が一誰かに見られたらどうすんだよ! 『班長の首に女の跡がある』なんて噂が流れたら……」
「別にいいじゃないですか。直人さんは独身ですし、誰に咎められる筋合いもありません」
レオンは内心で
(むしろ『女』ではなく『男』の跡だと知らしめたいくらいですが)
と毒にも薬にもならない思考を巡らせる。
基地の連中にどう思われようが知ったことではない。
むしろ、他の誰にも手出しできない「印」があることに、
彼はこの上ない優越感を覚えていた。
「……お前はいいよな、涼しい顔して! 俺は部下たちに示しがつかねえんだよ!」
必死に鏡を覗き込み、隙間がないか確認する直人の姿。
そのあまりの動揺ぶりに、レオンはつい意地悪な思考を滑り込ませる。
(そんなに気になるなら……いっそ、僕にも付けてくれればいいのに)
自分にも同じような「印」を付けてくれれば、
お揃いになって直人も諦めがつくだろうか。
いや、直人の性格なら、余計にパニックになるだろう。
「……さあ、直人さん。時間は待ってくれません。……そんなに不安なら、帰り道はずっと僕が、その襟元が乱れないように見張っていてあげますから」
「……お前のその『見張り』が一番信用できねえんだよ!」
直人は吐き捨てるように言ったが、
レオンから渡された上質なストールを、
これ以上ないほど厳重に首に巻き付けた。
窓の外では、春の陽光がいっそう輝きを増し、
世界を鮮やかに照らしている。
二人の特別な休日は終わりを告げ、
再び「日常」という名の戦場への帰路が始まろうとしていた。
だが、シャツの襟の下に隠された、熱い「刻印」の存在だけは、
直人の心臓の鼓動をいつまでも早め続けていた。
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