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第24話 新天地、横須賀の潮騒

1. 盤石なる「赴任休暇」 自衛官の異動には、 準備と移動、 そして着任の手続きのために「赴任休暇」が認められている。 今回は都道府県をまたぐ移動ということもあり、 土日を除いてたっぷりと5日間の休みが与えられていた。 新天地となる横須賀の幹部宿舎。 そのリビングで、小川直人は呆然と周囲を見渡していた。 つい数日前まで以前の官舎で荷造りに追われていたはずなのに、 今、目の前にあるのは見事に整えられた新しい生活の場だ。 「……本当に、俺は何もしなくて良かったんだな」 「言ったでしょう。あなたは必要な着替えと、大事な工具だけ持っていればいいと。重い荷物は全て業者が運びましたし、役所の手続きも僕が済ませました」 隣でコーヒーを淹れている橘レオン3佐は、事もなげに言った。 今回の引越しは、まさにレオンによる「完封勝利」だった。 レオンが所有していた都心のマンションは、 今回の異動に合わせて彼自らの手配で即座に賃貸に出された。 立地の良さからすぐに優良な入居者が決まり、 そこから得られる賃料収入は、ローンの返済額を上回る収益をレオンにもたらしている。 そして今、二人が住むこの幹部用宿舎の賃料は、民間の賃貸と比べて安く、 レオンの給料から直接引き落とされる。 直人が住居費を気にする必要は一円たりともない。 直人は、自分が現場で叩き上げてきたキャリアと、 不器用ながらも積み立ててきた人生を思い返す。 だが、橘レオンという男が用意した 「盤石すぎる基盤」を前にすると、 自分の苦労が霞んで見えるほどだった。 (……何も考えなくても、食うに困らねえ。住む場所も、将来の安定まで、全部こいつが整えちまった) レオンの「直人への補充(世話焼き)」は、もはや病的なまでの献身だ。 直人が「自分ひとりで何とかする」と言う隙すら与えない。 かつての直人なら、この過保護すぎる状況に居心地の悪さを感じて反発しただろう。 だが、異動を巡るレオンの執念と、合格発表の夜にぶつけられた熱い抱擁を経て、 直人の心境は変化していた。 (もういいか。……どうせ、一生こいつと一緒にいるんだ。やめろと言っても止まらねえだろうし、考えたって仕方ねえ。もし俺が甘やかされてダメになったとしても、責任を取るのは俺をダメにしたレオンだ) 直人は、心の中で完全に腹を括った。 橘レオンという巨大な愛の重力に、抗うのをやめたのだ。 2. 横須賀基地、着任の朝 赴任休暇が明け、 ついに着任の日がやってきた。 横須賀基地。 以前の基地よりも規模が大きく、 張り詰めた空気が漂っている。 レオンは幹部として、 直人は現場の要となる「整備班長」として、 それぞれの戦場へと向かう。 整備工場。 広大な空間には、既に数十人の整備員たちが整列していた。 新しく着任する班長が、あの「橘レオン3佐」の専属整備士であり、 他ならぬレオン自身が受験の絶対条件として熱望した人物であることは、 既に基地内に知れ渡っていた。 直人は作業服の襟を正し、整列した隊員たちの前へと歩み出た。 宿舎でレオンに骨抜きにされかけている「直人」の顔は、もうそこにはない。 「——今日からこの小隊の整備班長として着任した、小川直人(おがわ なおと)だ」 低く、けれど工場内の隅々にまで通る声。 直人は一人ひとりの隊員を、逃げ場のない鋭い眼光で射抜いていく。 「横須賀の空を飛ぶ機体が、俺たちの腕にかかっている。いいか、俺の整備に妥協はねえ。ここの基地がどうだったかは知らねえが、俺の下で働く以上、ボルト一本の緩みも、ミリ単位の誤差も許さねえからな。人の命を預かっているという自覚がねえ奴は、今すぐここから立ち去れ。……俺についてくる奴は、覚悟しとけ」 静まり返った工場に、直人の厳しい言葉が響く。 若手隊員たちは、その圧倒的な「現場の主」としてのオーラに圧倒され、背筋を伸ばした。 橘レオンの個人的な執着で呼ばれただけの男ではない。 この男は、本物のプロフェッショナルだ——。 その確信が、隊員たちの間に瞬時に広がった。 3. 受け入れた現実と、疼く嫉妬 その頃、橘レオンは幹部棟のオフィスで、 窓から見える整備工場を遠目に眺めていた。 手元の書類には、小川直人の正式な配属通知がある。 レオンは知っていた。 自分がパイロットを辞め、地上に降りた時点で、 もう二度と直人が整備した機体のコックピットに座ることはないのだと。 直人はこれからも、 自分が空けたその席に座る「別の若いパイロット」のために機体を磨き、 誰かの「翼」として機能し続ける。 それは、レオン自身が直人を手放さないために選び取った、逃れられない現実だった。 直人が他の人の機体を丹念に整備し、 信頼関係を築き、その人を空へと送り出す——。 その光景を想像するだけで、レオンの理性は今でも焼き切れそうになる。 自分が受けられない恩恵を、赤の他人の若造が享受するのだ。 これ以上の屈辱があるだろうか。 だが、それでもレオンに後悔はなかった。 もしこの基地へ一人で赴任していれば、 直人は今頃、自分のいなくなった場所で、 誰かのために笑い、誰かのために汗を流していただろう。 自分の目の届かない場所で。 (……たとえ他の人を空へ送り出すことになっても、その後に彼が帰る場所は、僕の隣でなければならない) レオンは自らの執着を正当化するように、深く息を吐いた。 自分はもう飛べない。 だが、直人を手元に置くことで、 彼の「人生」という操縦桿だけは、 誰にも渡さずに握り続けることができる。 それでもやはり、整備場の中の様子は気になって仕方がなかった。 新しいパイロットは誰だ。 直人に馴れ馴れしく接してはいないか。 直人はその男に、かつて自分に向けたような信頼の眼差しを向けていないか。 デスクに向かいながらも、 意識の数パーセントは常に整備工場へと向いている。 レオンは、自分が選んだこの「地上」という名の檻の中で、 直人という最上の宝を抱え込みながら、 永遠に消えることのない微かな嫉妬の毒を、ゆっくりと味わい続けていた。 4. 潮風の中の日常 夕暮れ時。 任務を終えた直人は、基地内の通用門近くでレオンと合流した。 周囲にはまだ多くの隊員がいたが、 レオンは臆することなく直人の隣に立ち、その肩を自然に抱き寄せた。 「着任初日、お疲れ様でした。班員たちの様子はどうですか?」 「……ああ。まだ固まってやがるが、腕は悪くなさそうだ。鍛えがいはあるよ」 「そうですか。……新しいパイロットたちとも会いましたか?」 レオンの問いは、努めて事務的な響きを装っていたが、 直人にはその奥にある「探り」が透けて見えた。 直人は苦笑し、少しだけ意地悪く答える。 「ああ、見たぜ。若いのが多いな。みんな威勢がよくて、俺の整備にも興味津々だったよ。……なんだよ、気になるのか?」 「……少しだけ…。あなたが最高の整備をするのは、僕が一番よく知っていますから」 レオンは視線を逸らしたが、その指先が直人の肩を強く引き寄せた。 宿舎までの道のり、二人は今後の生活について言葉を交わす。 レオンのマンションから上がる収益の使い道、 そして、これから二人で積み立てていく将来のこと。 レオンは、直人に何一つ不自由をさせないための計画を、 淡々と、けれど熱っぽく語り続ける。 直人はそれを聞きながら、 改めて自分がどれほど深い執着という名の守護に包まれているかを実感していた。 「レオン」 「はい、何でしょう」 「……ありがとうよ。色々、考えてくれて。……お前の隣にいるって決めたのは、俺自身だ。だから、そんなにカリカリすんな」 直人の不器用な慰めに、レオンは驚いたように目を見開き、そして世界で一番幸せそうな笑みを浮かべた。 「お礼を言うのは僕の方です。僕の隣にいることを選んでくれて、ありがとうございます。……ええ、分かっています。あなたが僕のものである事実に、変わりはないのですから」 横須賀の潮風が、二人の間を通り抜けていく。 ここから始まる新しい生活は、 今まで以上に濃厚で、逃げ場のない、 けれどこれ以上なく盤石な愛に満ちたものになるだろう。 小川直人は、隣を歩く有能で世話焼きな男。 ——橘レオンの腕に、自ら体重を預けた。 ダメになっても構わない。 この男となら、 どこまで堕ちても、 どこまで昇っても、 それが「幸福」であることに変わりはないのだから。

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