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第26話 消えない印、暴かれる素顔
1. 鏡の中の宣戦布告
春の湿り気を帯びた横須賀の朝。
官舎の洗面所に、小川直人の怒声が響き渡った。
「……おい、レオン! てめえ、ふざけんなっつってんだろ!」
直人は鏡の中の、己の首筋を凝視して戦慄していた。
そこには、作業服の襟元からどう足掻いてもはみ出してしまう位置に、
鮮烈な、そして隠しようのないほど濃い紅色の痕が刻まれていた。
昨夜、シャワーブースでの執拗な「洗浄」から始まり、
ベッドに雪崩れ込んでから数時間に及んだレオンの「補充(執着)」。
その最中、レオンがまるで自分の領土を確定させるかのように、
何度もそこを食んでいた記憶が嫌なほど鮮明に蘇る。
「……おや、朝から元気ですね、直人さん」
背後から、既に完璧な制服姿を整えたレオンが音もなく現れた。
手に持ったコーヒーカップからは、上質な豆の香りが漂っている。
隙のない身だしなみ、
知的で冷徹な面差し、
そして周囲を威圧するエリート幹部の風格。
だが、その瞳だけは、鏡の中の赤い痕を「最高傑作」でも眺めるかのように愛でていた。
「元気なわけねえだろ! 今日は朝一で全体ミーティングがあんだぞ。こんなもん、隠しようがねえじゃねえか!」
「隠す必要などありません。それは『虫除け』ですから」
レオンは平然と言い放ち、直人の背中に密着した。
鏡越しに直人と視線を合わせ、細く長い指先でその生々しい痕を愛おしそうになぞる。
「昨日あんなに忠告したのに、あなたは自分の価値を理解せず、一ノ瀬少尉のようなハイエナに無防備な隙を見せた。だから、分からせる必要があるのです。あなたが誰の所有物であり、誰の腕の中で夜を明かしているのか。言葉を解さない無礼者たちには、視覚で分からせるのが最も効率的だ」
「所有物とか言うな! ……ああもう、絆創膏どこだ……」
「無駄ですよ。今の僕とあなたの関係は周知の事実です。ここで絆創膏など貼れば、かえって『昨夜、相当激しくされたのだ』と邪推を招くだけです。堂々としていてください。僕の隣に立つ男なら、この程度の印、勲章のようなものでしょう?」
レオンの有無を言わせぬエリート特有の正論(という名の暴論)に、
直人はついに頭を抱えた。
結局、何を言ってもこの男の独占欲を止めることはできない。
直人は「俺がダメになったらレオンのせいだ」という呪文を心の中で繰り返し、
羞恥心で耳まで赤くしながら、隠しきれない痕を晒して宿舎を出る羽目になった。
2. 子犬の牙と、モニター越しの視線
横須賀基地、第3整備工場。
着任早々、妥協を許さない「鬼班長」として部下たちを戦慄させている直人が現れると、
場に冷たい緊張が走った。
しかし、今日に限っては、その緊張の質が違っていた。
直人が掲示板の前に立ち、ホワイトボードを書き換えるために顎を上げた瞬間。
襟元から覗く鮮やかな赤——。
整備員たちの間に、音のない激震が走る。
それは明らかに「激しい愛撫」の結果であり、
それをあえて隠そうともしない姿勢は、
この基地の権力者の一人、
橘レオン3佐からの強烈な「宣戦布告」に他ならなかった。
「……おい、一ノ瀬。見たか。班長のあれ」
「……ああ。隠す気ゼロかよ。……っていうか、あれ、あの3佐がつけたんだろ」
昨日まで「仕事の相談」という建前で直人に近づいていた一ノ瀬少尉は、
遠くからその痕を凝視し、
拳を白くなるほど握りしめていた。
だが、一ノ瀬はまだ諦めてはいなかった。
エリートの独占欲に対抗するには、若さと「弱さ」を武器にするしかない。
昼休憩直前。
一ノ瀬は再び直人に近づいた。
今度は、捨てられた子犬のような、ひどく心細げな表情を作って。
「……班長、お疲れ様です。あの、昨日の件なんですけど……」
直人は工具を片付けながら、一ノ瀬を一瞥した。
「またかよ、一ノ瀬。数値上は問題ねえって言っただろ」
「……そうなんですけど、やっぱり僕の感覚が追いつかなくて。空で挙動が乱れるのが、怖くて。……班長に隣で見てもらわないと、午後のスクランブル訓練、自信がないんです。……班長だけが頼りなんです。ダメ、ですか?」
上目遣いで、縋るように直人の作業服の袖を引く。
直人は「職人」だ。
パイロットが「怖い」と言えば、それを無視することは死を許容することと同義だ。
「……チッ。ったく、しょうがねえな。5分だけだぞ。コクピットの計器、もう一回一緒にチェックしてやる」
「ありがとうございます! やっぱり班長は優しいですね。僕、班長のこと信じてますから」
一ノ瀬はパッと顔を輝かせ、
わざと距離を詰めた。
直人が機体に背を向けて説明を始めると、
一ノ瀬はその至近距離で、
直人の首元に刻まれた「レオンの印」を汚いものでも見つめるように凝視し、
同時に、自分の呼吸が直人の首筋にかかるほどの距離を維持した。
その様子を、事務棟のモニター越しに見ていたレオンは、
万年筆を指先でみしりと鳴らしていた。
(……あの一ノ瀬少尉。随分と、僕の直人さんに馴れ馴れしいようですね)
レオンは即座に運用管制室へ連絡を入れ、
一ノ瀬の午後のスケジュールを「予定外の緊急計器飛行訓練」に書き換えさせた。
職権乱用はしないと自分に言い聞かせつつも、
一ノ瀬の操縦技術への不安(という名の嫉妬)を解消するためには必要な措置だ、
と自分を納得させていた。
3. 「橘3佐」を脱ぐ夜
夜。
宿舎の扉が開いた瞬間、
直人は強烈な「重圧」を感じた。
玄関で待ち構えていたのは、既に制服のネクタイを緩め、
どこか子供じみた不機嫌さを全身から漂わせている橘レオンだった。
「直人さん、おかえりなさい……! 遅いですよ!」
レオンは直人が靴を脱ぐ間も与えず、大型犬のように縋り付いてきた。
「今日、あの一ノ瀬という男! また機体の傍であなたに触れようとしていましたね! モニターで見えていたんですよ! あなたが彼に優しく教え込んでいる姿が!」
リビングへなだれ込むなり、レオンの「可愛い嫉妬」が爆発した。
3佐としての冷徹な仮面はどこへやら、
今のレオンはただの、恋人の関心を引きたくてたまらない駄駄っ子だった。
「……お前、また見てたのかよ。仕事しろよ、3佐殿」
「仕事は完璧に終わらせました! その後の余暇時間を使ってあなたを監視(見守)っていただけです! ……あの一ノ瀬はわざと弱ったふりをしているんですよ。あなたの職人としての誠実さを利用している汚い奴だ。それなのに、あなたはあんなに近くで……! 僕以外の男にあんなに無防備に背中を見せるなんて!」
レオンはソファに直人を押し倒し、その上に覆いかぶさってブツブツと文句を並べ立てた。
「僕が昨夜、あれほど時間をかけて『虫除け』を施したというのに。彼は一瞬も目を逸らさなかった。……足りなかったんでしょうか。もっと、もっと濃いものを、次は顔にでもつければいいんですか?」
「馬鹿言え、顔に付けられるか! 職を失うわ!」
「職なんてどうでもいい! あなたが他の男の目に触れるくらいなら、僕が一生、地下室で養ってあげます……」
「……はあ。お前な、レオン」
直人は呆れ果てた溜息をつき、
レオンの胸元を押し返そうとしたが、レオンはしぶとく直人の首筋に鼻先を擦り付けた。
「直人さん、あなたは甘いんです。自分に価値を低く見積もっているから、周りのハイエナたちがどんな目であなたを見ているか気づかない。……危機感が足りないから、そんなに隙が生まれるんですよ」
「……おい、レオン。俺に欲情してるのはお前くらいだ…」
「そんなことありません。……直人さん、聞いていますか? 僕の、この焦るきもち、何かあってからじゃ遅いんですよ……」
レオンの文句は止まらなかった。一ノ瀬がいかにあざといか、直人がいかに無警戒か、そして自分がいかに寂しい思いをしたか。
エリート幹部としてのプライドを脱ぎ捨て、一人の独占欲に狂った男として、レオンはなりふり構わず直人を責め立てた。
4. 黙らせるための力技
「……おい、レオン。いい加減にしろ。ギャーギャーうるさいんだよ」
直人は、レオンの頬を両手で挟み、無理やり自分の方を向かせた。
レオンの瞳は、
嫉妬と不安と、
それ以上の深い愛執で潤んでいる。
橘レオンという男は、
有能で完璧だ。
だが、その完璧さの裏側には、
小川直人という「核」を失うことを極端に恐れる、
脆い少年が棲んでいる。
その「格好つかない」姿が、
直人にとってはたまらなく愛おしく、
同時に、男として「いい加減、黙らせてやらなきゃな」と思わせるのだ。
「……だいたい、直人さんは僕に対する優先順位が……んっ!?」
レオンが言いかけた言葉は、強引に塞がれた。
直人はレオンの襟を掴んで引き寄せると、
その完璧な唇に、少し乱暴に自らの唇を重ねた。
「……んぐっ、ぅ……!」
レオンが驚きの声を上げる隙も与えず、
直人は少し強引に、
けれど迷いのない動きでレオンの口内へ舌を滑り込ませた。
それは、いつもの甘く蕩けるような口づけではない。
油と煙にまみれた整備士の、
骨太な手がレオンの後頭部を固定し、
そのうるさい口を物理的に封じる、
最も男らしい「黙らせ方」だった。
直人の舌が、レオンの口内を荒々しく、
けれど隅々まで舐め回す。
レオンの歯列をなぞり、
上顎を撫で上げ、
逃げる場所のないレオンの舌を捕まえて、
激しく絡め取った。
「文句を言わせねえ」
と言わんばかりの激しさに、
レオンの抗議の鳴き声は、
瞬く間に情熱的な吐息へと変わっていく。
レオンの体に力が入り、
やがてそれは快感に抗えず、
ぐったりと直人の上に重なった。
直人がゆっくりと唇を離すと、
レオンは瞳を潤ませ、
頬を林檎のように紅潮させて呆然と立ち尽くしていた。
「……ふぅ……。これで満足か? 3佐殿。……お前のその、うるせえ口を塞ぐ方法はいくらでもあるんだぞ」
直人はニヤリと不敵に笑い、
レオンの乱れた髪を乱暴に撫で回した。
直人の瞳には、
愛する男を支配下に置いた男としての満足感が宿っていた。
「……直人さん、ひどい……。いきなり、あんな……」
レオンは先ほどまでの怒りをすっかり忘れ、
とろけたような瞳で直人の首に腕を回した。
「……、最高です。……もっと、もっと…してください。僕の頭の中が、あなたのことだけで真っ白になるくらい……」
「……はあ。お前は本当に、手に負えねえな」
直人は呆れながらも、
レオンの腰をしっかりと抱き寄せ、
そのまま彼を寝室へと連行した。
一ノ瀬のあざとい攻撃も、
レオンの大人げない嫉妬も、
結局は直人のこの「力技」一つの前に、
全ては熱い夜へと溶けていく。
横須賀の夜風は冷たいが、
宿舎の一室だけは、
二人の熱気で満たされていた。
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