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第29話  策士の独り相撲、官舎の冷えた晩餐

1. 舞台装置:最高級の「外敵」と、歪んだ期待 横須賀基地の午後は、潮風に混じって、 場違いなほど高級な香水の香りが漂っていた。 視察に訪れたのは、国防予算の鍵を握る大物議員の愛娘。 彼女にとって、若くして3佐の地位にあり、 氷の彫刻のような美貌を誇る橘レオンは、 人生を賭けてでも手に入れるべき「最高級のトロフィー」だった。 「橘3佐、本日のご説明、本当に胸に響きましたわ。……私、あなたのような情熱的な方と、もっとゆっくりお話ししたいんです。今度、食事を一緒にいかがですか?」 令嬢は、レオンの腕に寄り添うようにして、上目遣いで微笑みかける。 普段のレオンなら、「公務中ですので」と一秒でシャットアウトし、 その記憶さえゴミ箱に捨てる案件だ。 だが、今日の彼は違った。 彼の視界の端――数百メートル先の整備場で、エンジンの点検を終え、 首に汚れたタオルをかけながらこちらをじっと見上げている 「愛しい男」の姿を捉えていたからだ。 (……見ている。直人さんが、僕とあのお嬢様が親密に寄り添っている姿を、間違いなくその目で見ている……!) レオンの心臓は、 軍事作戦を指揮する時よりも激しく鼓動した。 知っている。 直人が、自分のことを「俺なしでは生きられない欠陥品」だと理解し、 その上で揺るぎない絶対的な余裕を保っていることを。 だが、今日こそは見てみたかった。 自分を想うあまりに理性を失い、 余裕など微塵も感じさせないほどに嫉妬に狂う、 醜くも愛おしい直人の姿を。 自分という存在が誰かに奪われる可能性に、 あの鉄の精神が悲鳴を上げ、 剥き出しの独占欲を爆発させる瞬間を、 レオンは病的なまでの渇望とともに夢想していたのだ。 2. 橘レオンの「残念な」超並列思考:理想の嫉妬劇場 レオンの明晰な頭脳は、 本来の国防任務を完全に放棄し、 自分と直人の「理想の嫉妬ドラマ」を構築するためにフルスピードで回転を始めた。 彼の脳内では今、 最新鋭のスパコンをも凌駕する速度で、 複数の「最高に都合の良いシナリオ」が同時並行レンダリングされている。   レオンの幸せな妄想 【脳内プロセッサ A:現場略奪・暴風雨編】 直人は嫉妬のあまり、 手に持っていた高価なトルクレンチを地面に叩きつけ、 凄まじい足取りで回廊を駆け上がってくる。 『……おい、レオン! そいつから離れろ!』 周囲の隊員たちが凍りつく中、 直人は令嬢の腕を乱暴に振り払い、 レオンの襟首を掴んで強引に自分の方へ引き寄せる。 『お前、俺のモンだって分かってんだろうな。あんなスカしたお嬢様に、二度とそんな可愛い顔、見せんじゃねえ。……帰るぞ!』 (……ああ! 直人さん、直人さん……!) 衆人環視の中、 乱暴に襟首を掴まれ、自分を「モノ」扱いする直人の、 その暴力的なまでの独占欲。 レオンは、その剥き出しの愛の重さに、 心臓が爆発するのではないかというほどの快楽を覚えていた。 レオンの頬は、 羞恥と熱情でドロドロに溶けたようにほんのりピンクに染まる。 普段は冷徹なその瞳は、 直人を見上げた瞬間、 とろりと潤んで目尻が下がり、 エリート3佐としての威厳は跡形もなく消え失せていた。 『俺のモン』という言葉の響きに、 レオンの唇は締まりを失くし、 ニヤニヤと、目尻が下がっていくのを止めることができなかった。 (……いい。もっと、もっと乱暴に奪ってください。僕のすべてが、あなたの独占欲だけで満たされるまで……!) 【脳内プロセッサ B:密室爆発・官舎編】 あえて現場では動かず、直人が無言で去っていく。 しかし、その背中は怒りで震えている。 (……焦れ、焦れ、直人さん。僕が奪われる恐怖に、その心をズタズタに引き裂かれてください……!) レオンは、直人の「静かなる怒り」を妄想し、 その後に訪れるであろう「爆発」への期待に、 全身の毛穴が開くような感覚を覚えていた。 夜。 官舎の扉を開けた瞬間、 直人が猛獣のような速度でレオンを押し倒す。 ドアが閉まる音さえも置き去りにするほどの、圧倒的な暴力。 『……レオン、今日は随分楽しそうだったな。あのお嬢様の隣で、鼻の下伸ばして。……俺の目の前で他の奴に触らせるなんて、一度でも許すと思ったか?』 至近距離で浴びせられる、 直人の低く、殺気を含んだ声。 その瞳には、冷静さは微塵もなく、 ただレオンを完全に支配しようとする、 剥き出しの独占欲だけが宿っている。 (ああ……! これだ、この視線に、僕は壊されたかった……!) レオンの頬は、官舎の暗がりの中でも分かるほど、 熱い血が上って頬が染まる。 直人に組み伏せられ、その体温と匂いに包まれた瞬間、 レオンの瞳はととろりと溶け、 目尻が下がって、完全に抵抗を放棄した顔に変わっていく。 『他の奴に触らせるなんて』という言葉に、 レオンの唇は歓喜に震え、直人の支配を受け入れた悦びに、 だらしなく頬が緩んでいく。 (……壊してください、直人さん。僕が、あなた以外の誰のものでもないと、その体で、その愛で、僕のすべてに刻み込んで……!) 【脳内プロセッサ C:禁断の整備場お仕置き編】 (……現場で。衆人環視の中で、僕を……!) 妄想は、さらに過激で、禁断の領域へと踏み込んでいく。 怒り狂った直人が、 視察の列からレオンを強引に引き剥がし、 整備場の薄暗い物陰へと連れ込む。 そこは、油と汗の匂いが染み付いた、直人の「聖域」だ。 直人はレオンを壁に押し付け、 作業着のまま、その唇を噛みちぎるように強引に口付けた。 『……お前、自分が何したか分かってんのか。あんな女に笑顔振り撒いて……。今ここで、誰の所有物か刻み込んでやろうか?』 荒い息遣い、自分を貫くような直人の視線。 それは、愛というよりも、獲物を仕留めた狩人の支配欲そのものだ。 (……ああ、最高だ。直人さんの匂いに包まれて、皆に見える場所で……!) レオンの頬は、公衆の面前で汚される羞恥と、 直人に支配される快楽で、これ以上ないほど真っ赤に染まる。 作業着の粗い布越しに直人の鼓動を感じた瞬間、 レオンの瞳は悦びに潤み、目尻がとろりと下がって、 完全に自我を失った「獣」の顔へと変貌していた。 『誰の所有物か刻み込んで』という言葉に、 レオンの唇は快楽に喘ぎ、その背徳的なシチュエーションに、 鼻の下が伸びていくのを止めることなど、到底不可能だった。 「ああ、お願いします直人さん、今すぐ、皆に見える場所で僕を汚して……! 僕は、あなたのものだと、皆に……!」 レオンは、妄想の中で直人の愛撫を受け入れ、 自らの誇りも、立場も、すべてを直人の独占欲の生贄に捧げる悦びに、 身を震わせていたのだ。 エスカレートする「直人さんの暴走」を想像するたびに、 レオンの心拍数は跳ね上がり、脳内の快楽物質が飽和状態に達していた。 そのエリート幹部としての冷徹な仮面の下で、 頬を染め、瞳をとろけさせ、唇を締まりなく開いてニヤニヤと鼻の下を伸ばす、 羞恥心もプライドも捨て去った「顔」が、 直人への病的なまでの渇望とともに、とどまることなく暴走し続けていた。 3. 「妄想」と、令嬢の致命的な勘違い 「……橘3佐? では来週の休日に合わせ、美術館とディナーを予約しておきますわ。よろしいですか?」 「……。ああ、ええ。もちろんですよ。楽しみですね(注:直人さんにめちゃくちゃにされるのが)」 妄想のあまりの甘美さに、 レオンの思考は、自分でも気づかないうちにだらしなく緩んでいた。 本人は「直人にめちゃくちゃにされる自分」を想像してニヤけているのだが、 それを正面から受け止めた令嬢の目には、 「自分への誘いに感極まり、言葉にできない喜びを噛み締めながら、 頬を少し赤くし、優雅に微笑んでいる王子様」に見えていた。 「……っ! まあ、なんて素敵……!」 令嬢は顔を真っ赤にし、レオンの腕に指先を添える。 レオンはそれにすら気づかない。 「……ええ、そうですね。ぜひ、ゆっくりと……話し合いたいものですね(注:直人さんとベッドで、今夜の不始末について)」 レオンは遠くから自分を「睨みつけている(ように見える)」直人に対し、 あえて「もっと焦れ、もっと狂え」と言わんばかりに、 優雅に令嬢をエスコートして歩き出した。 その時、直人の顔が「…………」と完全に無表情になり、 踵を返して整備場の奥へと消えていくのが見えた。 (……勝った。直人さん、今、嫉妬で耐えられなくなって逃げましたね!? さあ、今夜は、間違いなく歴史に残る『大嵐』が来る……!) 4. 現実:静寂の生姜焼きと、鋼の分析 その夜。官舎に戻ったレオンは、 ソファでバスローブの胸元を大胆に開き、 今か今かと直人の「襲来」を待ち構えていた。カチャ、と鍵が開く音がした。 直人が帰ってきた。 「…………おかえりなさい、直人さん。」 レオンは縋るような視線を向けた。 「ただいま、レオン。」 直人は何事もなかったかのように作業着を脱ぎに洗面所へと向かい、 部屋着に着替えて、キッチンへと向かった。 「……あの、今日の昼間のことなのですが。閣下のご令嬢が、あんなに熱心に僕を誘ってくださって……。正直、困ってしまったんです。……直人さんどうしましょう?」 「あーそうか。困ったな、で、晩飯なんだ?」 「え?……晩飯、ですか? いえ、今はそんなことより……。あの方は本当に積極的で……。あんな風に、僕が他の誰かの隣で楽しそうにしていたら、直人さんは嫌じゃないんですか? 僕は、あなたが怒って……その、僕をどこかへ連れ去ってくれるのを待って……」 (レオン:心の中では「さあ、今こそ『お前は俺のもんだ、他所見してんじゃねえ!』と怒鳴って、僕をキッチンカウンターに押し倒してください!」と全力で祈っている) 「……お前さ。昼間のあの顔、自分で見てないからそんなことが言えるんだよ。……あのお嬢様と歩きながら、お前、鼻の下伸ばしてニヤニヤしてただろ。あんな幸せそうなツラして、頭の中で『今夜、直人さんに嫉妬されてめちゃくちゃにされる俺、最高……』とか、そんなアホなこと考えてたんだろ。丸出しなんだよ。」 「…………っ!!」 レオンの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。あまりの的中ぶりに、エリート3佐のプライドが音を立てて崩壊する。 「あんなにだらしなくニヤけて、俺のことしか頭にねえのがバレバレな奴に、誰が嫉妬すんだよ。……お前のその、妄想のおねだりに付き合ってやるほど、俺は暇じゃねえ。……ほら、冷める前に食おうぜ。」 直人はそれだけ言うと、レオンの返事も待たずに二人分の食事を用意し食べ始める。 「おい、レオン。食わねえのか?」 レオンがフリーズしている間にさっさと一人で食べ終わり 「シャワー浴びてくる」 と、脱衣所へ消えていった。 5. 凍りつく思考と、シャワーの水音 一人、取り残されたレオン。 脱衣所からは、ザァァァ……という景気のいい水音が聞こえてくる。 直人が最後に残した言葉が、レオンの耳の奥で不気味にリフレインしていた。 『……お前、自分の妄想に夢中で、何か期待させるような約束とかしてねぇだろうな? 自分の尻は自分で拭えよ』 レオンの優秀な頭脳が、 ついに本来の機能を回復し、 記憶の断片を猛スピードで繋ぎ合わせ始めた。 (……約束。お嬢様は、何かを言っていた。来週の……来週の……) ザァァ……と流れる水音に合わせて、 パズルのピースが、恐ろしい精度ではまっていく。 『——橘3佐、来週の休日に合わせ、美術館とディナーを……』 『……ああ、ええ。もちろんですよ(直人さんにめちゃくちゃにされるのが)』 「………………ッやばいっっ!!!」 レオンは持っていた箸を落とした。 来週の休日。 それは、直人と久しぶりに一日中家でゆっくり過ごそうと、 何日も前から心待ちにしていた貴重な「直人補充日」だったはずだ。 それを、自分は笑顔で放棄し、 興味のない相手と、美術館とディナーに捧げると返答してしまったのだ。 すべては、直人を嫉妬させるという、あまりにも愚かな自作自演のために。 6. 泣き言と、閉ざされる聖域 シャワーが止まり、しばらくして、タオルで髪を拭きながら直人が出てきた。 「……おう、まだ食ってたのか。俺はもう寝るからな。おやすみ、レオン」 直人は絶望しているレオンに一瞥もくれず、そのまま寝室へ向かって歩き出す。 「……ちょ、直人さん……! 直人さん待ってください!!」 レオンは椅子を蹴立てて立ち上がり、寝室のドアに手をかけた直人の背中に縋り付いた。 「直人さん、大変なんです! 僕、来週の休日……あのお嬢様と美術館に行くって約束してしまいました! 行きたくありません! 僕はあなたと、ここで、一日中こうして……!」 レオンは半泣きで、直人のTシャツの裾を握りしめた。 だが、直人はその手を無情にも引き剥がし、ニヤリと意地悪く笑った。 「知るか。自分の不始末だろ。男なら、一度した約束は守れよ。……俺は一日、一人でのんびり羽伸ばさせてもらうわ。じゃあな」 「直人さん……! 直人さぁぁん!! 行かないでください、……待って、直人さん! 誤解です、いや、誤解ではありませんが……! そんな、 僕は、もっとこう……物理的な、痛みを伴うような……いえ、独占欲に満ちた熱い『ご褒美』を……! 直人さん! 直人さぁぁん!!せめて今、僕を叱ってください……!!直人さぁぁん!!」 レオンの泣き言を無視して、 直人は寝室に入り、容赦なくドアを閉めた。 カチャ、とドアの閉まる音が、レオンの心に最後の一撃を加える。 リビングに取り残されたエリート3佐は、 冷え切った夕飯を前に、 一人で「直人補充日のチケットを自ら放棄する」という絶望に咽び泣くしかなかった。 嫉妬を煽るつもりが、 最愛の男との待ちに待った時間を自らドブに捨てた橘レオン。 彼の長く、孤独な反省の夜は、まだ始まったばかりだった。

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