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第30話 自業自得の休日、あるいは幸福な拒絶

1. 感情の急上昇と急降下:玄関先の攻防 鏡の中に立つ男は、 どこから見ても非の打ち所がない完璧な「貴公子」だった。 しかし、その内実、 橘レオンの心は処刑台に向かう罪人のように沈みきっている。 「…………はぁ」 重い溜息をつきながらリビングへ向かうと、 ソファでくつろいでいた直人が新聞を置いて顔を上げた。 直人はまじまじとレオンを眺め、満足そうに口角を上げる。 「……おう。お前、それ着ると、めちゃくちゃ似合ってる。本当にかっこいいな。……さすが、俺が選んだだけの男だ」 「…………っ!!」 【レオン急上昇 ↑↑↑】 レオンの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。 何よりも、誰よりも、 この世でただ一人、 直人に褒められること。 それがレオンにとってのすべてだ。 レオンの頬は一瞬でピンクに染まり、 瞳は潤み、目尻がとろりと下がって、 エリート幹部としての威厳はどこかへ吹き飛んでしまう。 「俺が選んだ」という言葉の響きがあまりにも甘美で、 レオンの口元は締まりを失い、 ニヤニヤとだらしなく鼻の下が伸びるのを止めることができなかった。 「直人さん……! ああ、ありがとうございます……! 僕は、あなたのその言葉だけで、もう……!」 感極まったレオンが、熱い吐息を漏らしながら直人の膝元へ跪こうとした、 その時だった。 「——じゃ、行ってこい。時間だろ。お嬢さん待たせんなよ」 「………………え?」 【レオン急降下 ↓↓↓】 直人の短く、あまりにも軽い一言が、 甘く蕩けきっていた空気を一瞬で引き裂いた。 さっきまでの熱のこもった称賛はどこへやら、 そこにあるのは「さっさと用事を済ませてこい」という、 冷徹なまでのドライな拒絶。 レオンの心は一気に氷点下まで叩き落とされた。 「ま、待ってください直人さん……! 本当に、本当に僕と一緒に行かなくていいんですか? 今からでも、一緒に行くことも……!」 ソファーに座って新聞を見ている直人の背中に、 レオンは往生際悪く最後の掻きを試みた。 だが、直人は振り返りもせず、ヒラヒラと手を振るだけだ。 「あ? 行くわけねえだろ。俺は今日、昼間からビール飲むって決めてんだよ。……お前、自分の不始末だろ。さっさと行ってこい」 あまりに無慈悲な反応に、 レオンはがっかりと肩を落とし、 今にも泣き出しそうな視線を向けた。 そのあまりに情けない姿に、 直人は苦笑しながら立ち上がると、レオンの体をぐいと引き寄せた。 「……仕方ねえな。ほら、これ持ってけ」 直人の顔が近づいたかと思うと、レオンの唇に、「チュッ」と直人の唇が落とされた。 「……っ!? 直人、さん……?」 【レオン限界突破の急上昇 ↑↑↑↑↑】 驚きで目を見開くレオン。 直人は指先でレオンの唇を乱暴に拭うと、ニヤリと不敵に笑った。 「『虫除け』だ。……俺の匂い、しっかり持っていけ。あのお嬢さんに余計な期待させんなよ。……じゃあな、行ってこい3佐殿」 (……虫除け! 直人さんが、僕に『悪い虫がつかないように』と……!) 絶望から一転、レオンの脳内プロセッサは再びオーバーヒートを起こした。 「ああ、直人さん……! やっぱり行きません! 僕は、この『虫除け』が消えないうちに、あなたと……!」 「——さっさと行けって言ってんだろ!」 直人の強力な掌が、レオンの肩を掴んで180度旋回させた。 そのまま、玄関のドアが勢いよく開かれ、背中を押されて外の世界へと突き出される。 「直人さん! せめてもう一度『虫除け』を……!」 「ねーよ! 夜まで帰ってくんな! 鍵、閉めるぞ!」 バタン!! 無情な音とともに、聖域への扉は閉ざされた。 高級スーツに身を包んだ「最高にかっこいい男」は、 官舎の廊下で一人、直人の残り香が残る唇を指先でなぞりながら、 渋々と、しかし確かな独占欲の余韻に身を震わせて、エレベーターへと向かった。 2. 美術館の拷問と、お嬢様の焦燥 美術館。 令嬢・沙羅の熱心な解説は、レオンの耳を完全に素通りしていた。 彼の脳内プロセッサは、 今や目の前の名画を解析するためではなく、 「出発前の『虫除け』の感触をいかに鮮明に保存し、脳内で無限リピート再生するか」 というタスクに全リソースを割いていた。 「橘3佐? この絵画、まるであなたのような繊細さを感じますわ」 (……この絵画の殉教者。直人さんに縛られて、じわじわと攻め立てられる僕の方が適切か……。ああ、直人さんのあの荒っぽい指使いで、僕を塗り潰してほしい……) 沙羅は、隣を歩くレオンの態度に焦りを感じていた。 先日の視察でのあの恍惚とした表情はどこへやら、 今日のレオンは「精巧に作られた氷の彫刻」のようだ。 時間が経っても変わらない冷徹な態度に、彼女の不安は募っていく。 レオンは、あくまで「仕事の延長」としての完璧な微笑みを崩さない。 二度と同じ過ちは繰り返さない。 夕食の会計も、沙羅が口を出す隙を与えず、 スマートに、かつ冷徹にカードで決済しきった。 レオンは全てのミッションをクリアしたのだった。 約束は果たした。 無責任な返事をした自分の責任は果たした。 あとは、直人が家に…。 3. 完璧な「任務完了」と必死の帰還 食事が終わり、 沙羅が「……この後、少し静かなバーでもいかがかしら?」と誘いかけてきた瞬間、 レオンは流れるような動作で立ち上がった。 「大変申し訳ありません。明朝、早急に処理すべき重要案件がありまして。本日はこれにて失礼させていただきます」 沙羅が呆気にとられている間に、レオンは既にタクシーを呼び寄せていた。 「白鳥様、お車を用意させました。ご自宅まで安全にお送りいたします」 有無を言わせぬ態度で彼女をタクシーに押し込み、ドアを閉める。 走り去るテールランプを見送った瞬間、 レオンは踵を返し、自分も別のタクシーへ飛び乗った。 4. 幸福な拒絶と、洗い流した後の「報酬」 官舎のドアを開けると、そこには見慣れた「日常」があった。 「……ただいま戻りました、直人さん!」 「おう。おかえり、レオン。……随分早かったな。頑張ったじゃねえか」 直人が立ち上がり、レオンの髪を無造作に、しかし優しく撫でた。 レオンは天にも昇る気持ちで直人の胸に顔を埋めようとした――。 「……あ。待て。お前、お嬢さんの香水が移ってんな。臭(くせ)えから、今すぐシャワー浴びてこい。臭いが落ちるまで、抱きつくなよ。」 「……っ!! す、すぐ浴びてきます!」 浴室から上がったレオンは、バスローブを羽織るのももどかしい様子でリビングへ戻ってきた。 「直人さん……! 洗い流してきました…。今日はごめんなさい。僕の愚かな真似のせいで、あなたとの大切な休日を台無しにしてしまった。……今からでも、遅くないでしょうか。僕に、あなたを抱く資格があるでしょうか……」 レオンは直人の足元に膝をつき、その腿に顔を寄せた。 縋り付くような視線。 本来なら、自分を嫉妬させようとした報いとして冷たく突き放されても文句は言えない。 だが、直人は無言でレオンの項(うなじ)を掴むと、その熱い唇を強引に塞いだ。 「……お前、謝る暇があるなら、とっとと自分の仕事しろよ。……今からでも遅くねえだろ。……来いよ」 直人はそれだけ言うと、レオンの腕を引いて寝室へと促した。 直人の低い声に導かれ、二人は寝室のベッドへと崩れ落ちた。 レオンは、一日中他の誰かと過ごしてしまった罪悪感を埋めるように、 丁寧に直人の服を脱がせていく。 やがて、直人の逞しい身体がシーツの上に曝け出された。 レオンは直人の足を割り、その最も秘められた場所へと、 贖罪と情熱を込めた指先をそっと沈み込ませた。 「…………っ!!」 レオンの指先が捉えたのは、快感とは別の「驚き」だった。 侵入を拒むような抵抗は一切ない。 指を迎え入れたのは、 驚くほど滑らかで、熱を持ち、既に「準備の整った」空間だった。 レオンの指が内壁を撫で、 奥へと潜り込むたびに、彼は直人の身体の異変に気づく。 そこは、 レオンがいつ帰宅して、すぐに自分を受け入れられるよう、 直人の手によって解きほぐされていた。 「あ……。直人さん……、これ、は……」 直人が、レオンが帰ってくる時間を逆算し、 抱かれるための準備を済ませて待っていたことに。 「……何見てんだ。早くしろ。俺はもう、ずっと前から待ってんだよ」 直人が顔を背けながら、低くぶっきらぼうに囁く。 (……直人さんは、僕が帰ってくるのを、こうして……自分を整えて待っていてくれた……!) その事実を理解した瞬間、 レオンの脳内プロセッサは本日何度目かの臨界点を超えて爆発した。 嫉妬を煽ろうとした自分の子供じみた作戦など、 直人の大きな愛の前では、 あまりにも滑稽で矮小なものでしかなかったのだ。 「ああ、直人さん……! 直人さん……っ!!」 レオンの瞳からは、 とろとろに蕩けた悦びとともに、 抑えきれない愛おしさが滲み出した。 直人が自分のために、自らを整えて待っていた。 その愛に、レオンの理性が音を立てて崩壊する。 「大好きです……! 愛しています、直人さん!! 僕は、一生をかけて、あなたに注ぎ込み続けます……!」 「……っ、うるせえよ。……さっさと、来い……レオン」 直人の逞しい腕がレオンの背中に回され、強く引き寄せられる。 一日分の飢餓感と罪悪感は、 直人の熱い内壁に包み込まれることで、すべて極上の快楽へと上書きされていく。 横須賀の夜。 レオンは自らのすべてを直人に捧げ、 自分を待っていた愛しい男を、壊さんばかりの情熱で抱き潰し続けた。 無駄にした一日の埋め合わせ。 直人の「絶対的な余裕」という名の愛に包まれ、 レオンは深い、深い幸福の闇へと堕ちていった。

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