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第31話 エピローグ
愛おしい重力、あるいは至高の着陸
1. オーバーホールの余韻、あるいは聖域の朝
横須賀の朝は、海鳴りと共に静かに幕を開ける。
古い官舎の寝室に差し込む光は、使い古されたシーツの皺を白く浮き上がらせていた。
橘レオンは、覚醒の瞬間に訪れる幸福な重みに、思わず深く吐息を漏らした。
腕の中に、確かな熱がある。
昨夜、自らの愚かな生返事が招いた失態を、
あまりにも深い愛で塗り潰してくれた男――
直人の身体がそこにあった。
レオンは、まだ微睡みの中にある直人の寝顔を、食い入るように見つめた。
外の世界で見せる冷徹な橘3佐の姿は、今の彼には一欠片も残っていない。
昨夜の衝撃は、今なおレオンの神経を痺れさせていた。
あの日、直人との休日を不意にし、
お嬢様との「義務」のデートに出向いたレオンを待っていたのは、
冷たい拒絶ではなく、あまりにも凄絶な「愛の準備」だった。
直人はレオンがいつ帰ってきてもいいように、
自らを整え、解きほぐし、
抱かれるのを待っていたのだ。
(ああ、直人さん……。あなたはどこまで、僕を狂わせれば気が済むんですか……)
その事実を思い出すだけで、レオンの心臓は再び、
爆発せんばかりの鼓動を刻み始める。
レオンは、直人の無骨な、整備士らしい硬い節のある指先をそっと取り、
自分の唇に押し当てた。
油の匂いは昨夜のシャワーで消えたはずなのに、
彼の鼻腔には、直人が纏う独特の「鉄と石鹸の匂い」が鮮明に焼き付いている。
「……ん、……なんだ。もう起きたのか、レオン」
不意に、直人の声が低く響いた。
覚醒しきらない、少し甘えたような嗄れ声。
レオンにとって、それはどんな一流の交響曲よりも美しく、
脳髄を痺れさせる音色だった。
「おはようございます、直人さん。……あまりにも幸せすぎて、一秒でも長くあなたを眺めていたくて」
「……馬鹿言え。仕事だろ。ほら、さっさと立て。飯にするぞ」
直人は面倒そうに言いながらも、レオンの髪を乱暴に掻き回す。
その一見ぶっきらぼうな動作の端々に、
昨夜、すべてを許し合った男同士の、濃密な親愛が滲んでいた。
2. 玄関先の攻防、あるいは出撃前の「補給」
朝食の時間は、レオンにとって至福のひとときだった。
レオンが用意した和定食を、
直人が「……味、薄くねえか?」などと文句を言いながらも、一粒残らず平らげていく。
その咀嚼の音、喉が鳴る音、それらすべてがレオンの精神を安定させる鎮静剤であり、
同時に明日を戦うための猛毒でもあった。
しかし、別れの時間は無情に訪れる。
玄関先に立つ二人の姿は、
傍目には「完璧なエリート軍人と、彼を送り出す親友」にしか見えないだろう。
だが、その内実は、所有と隷属、そして底なしの共依存に満ちていた。
鏡の中に映るレオンは、完璧に仕立てられた制服に身を包み、
非の打ち所がない橘3佐としての貌を完成させていた。
だが、その足元は、一歩も外へ出たがっていない。
「……直人さん。……やっぱり、あと一度だけ。一度だけでいいんです」
レオンは、既に靴を履き、見送りに来た直人の服の裾を、縋るように掴んだ。
「……またかよ。お前、さっきから何回やってんだ。いい加減にしろ、遅れるぞ」
ツナギ姿の直人が、呆れ果てたように溜息をつく。
だが、レオンは退かなかった。
昨日、あの「完敗」を知ってしまった今、
彼は一分一秒でも長く直人の熱を感じていなければ、
外の世界という名の虚無に飲み込まれてしまいそうな恐怖すら感じていた。
「昨夜の直人さんは、あんなに……あんなに僕を求めてくれたのに。今、こうして引き離されるのは、僕の魂を引き裂かれるのと同じです。直人さんのいってらっしゃいのキスがなければ、僕は今日、国家を防御する戦いには行けません! 僕はただの無能な、抜け殻の橘になってしまいます!」
「……極端なんだよ、お前は」
直人は毒づきながらも、観念したようにレオンの首筋に手を回した。
機体の不調を見抜くような、鋭く、けれど深い慈愛を秘めた瞳が、
レオンの潤んだ瞳を真っ直ぐに射抜く。
「……いいか。今日は『虫除け』なんかいらねえ。昨日、俺が散々お前を……整えてやったんだ。誰がどう見ても、お前は俺のもんだよ。自信持って、そのツラ拝ませてこい」
直人が不敵に笑う。
その瞬間、レオンの脳内プロセッサは臨界点を超えた。
直人がレオンを引き寄せ、少し強引に唇を塞ぐ。
昨夜の残り香が、直人の唾液と共にレオンの口内に広がる。
それは優しさというよりは、整備士が愛機に刻印を打つような、
荒々しくも絶対的な独占の証明だった。
「……ん、……ふ。……よし。オールグリーンだ。今度こそ本当に行け」
直人がレオンの肩を叩き、強引に玄関のドアを開ける。
冷たい廊下の空気が流れ込んでくるが、レオンの体温は限界を超えて熱かった。
「行ってきます、直人さん……! 秒速で仕事を終わらせ、光速であなたへ着陸しに帰ってきます!」
「……へいへい。事故んなよ。夕飯は、お前の好きな肉にしてやるから」
バタン、という重厚なドアの閉まる音。
その音と共に、レオンの表情から「甘えた大型犬」の気配が霧散した。
3.冷徹な怪物、あるいは聖域の番人
横須賀地方総監部へ足を踏み入れた橘レオンは、まさに「怪物」だった。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、一分の隙もない敬礼。
会議室に並ぶ将官たちを前にしても、彼のロジックは氷の刃のように鋭く、
一切の妥協を許さない。
数千億の予算、複雑な利害関係、組織の派閥。
世の男たちが権力を求めて血眼になるそれらすべてを、
彼は事務的な手際で次々と片付けていく。
周囲の人間は、彼を畏怖の念を込めて見つめていた。
「橘3佐は、まるで国家という巨大な機械を動かすための、最も精密な歯車のようだ」
「私欲がなく、ただ義務に従う。あの方こそが真の軍人だ」
だが、当のレオンの脳内プロセッサが処理していたのは、国家の安寧などではなかった。
(……この会議をあと15分短縮すれば、スーパーで直人さんが言っていた肉を買って帰る時間に余裕ができる)
(……先程の発言で本部の連中を黙らせた。これでまた数ヶ月、不快な横槍に邪魔されることなく、横須賀での日常を守り抜ける)
彼にとって、外の世界のすべては「つまらないもの」だった。
お嬢様とのデートも、市ヶ谷からの甘い誘惑も、昇任への期待も。
それらはすべて、直人と過ごすあの古い官舎のリビングという「聖域」を守るための、
単なる資材や燃料に過ぎない。
彼は有能すぎるがゆえに、誰からも愛され、欲しがられる。
しかし、その有能さを彼は、
自分が「一介の現場人間」として横須賀に留まるための最強の武器として行使していた。
組織が彼を動かそうとすればするほど、
彼は「私がいなければこの現場は回らない」という完璧な証拠を叩きつけ、その口を封じる。
レオンは微笑んでいた。
その微笑みは、平和を願う慈愛などではなく、
自分たちの聖域を侵そうとする者に対する、冷徹な排除の意思だった。
「……本日の案件は、すべて終了しました。……では、失礼します」
時計の針が定時を指した瞬間、レオンは誰よりも早く席を立った。
周囲が「さすが橘3佐、公私の切り替えも完璧だ」と感心している間に、
彼は既に最短ルートで、愛おしい重力が待つ場所へと加速していた。
4.幸福な着陸、あるいは終わらない共依存
夜。
横須賀の街明かりが海面に揺れる頃、レオンは官舎のドアを開けた。
そこには、昼間の殺伐とした世界とは無縁の、
微かな油の匂いと石鹸の香りが漂う日常が待っていた。
「……直人さん……! ただいま、ただいま戻りました……!」
靴を脱ぐのももどかしく、リビングにいた直人の背中に、
レオンは文字通り「衝突」するように抱きついてその匂いを一杯に吸い込んだ。
180cmを超える巨体を折り曲げ、部屋着に着替えた直人の背中に顔を埋める。
外でどれほど「完璧な3佐」を演じていようとも、
この場所に帰ってきた瞬間、彼は一人の愛に飢えた獣へと戻る。
「……うわっ、重てぇんだよ! 暑苦しい、離れろって!」
直人は不機嫌そうに肩を揺らすが、その声に拒絶の色はない。
むしろ、レオンがどれほどの飢餓感を持って帰ってくるかを理解し、
それを当たり前のように受け入れる覚悟がそこにはあった。
「直人さん、直人さん……。今日の世界もつまらないもので溢れていました。……僕に、僕に早く愛の補充をしてください。あなたの熱がないと、僕は壊れてしまいます……」
「……へいへい。よく頑張ったよ。……ほら、落ち着いて座れ」
直人が無骨な手で、レオンの髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。
その正確で、迷いのない指先。
機体の不調を瞬時に見抜き、必要な処置を施す整備士の手。
その掌から伝わる熱が、
レオンの神経を、魂を、そして昨夜の記憶を再び熱く呼び覚ます。
レオンは、直人の肩に頭を乗せ、直人の補充を試みるが
直人の手により椅子に座らされお茶を出される。
ただのほうじ茶なのに、それはどんな高級なワインよりも芳醇で、
レオンの乾いた心を潤していく。
「直人さん。……僕、もう二度と生返事なんてしません。……あんなデート、本当に二度と嫌です」
「……当たり前だ。次やったら、マジで締め出すからな」
直人が笑う。
その不敵で、自分を完全に支配している男の笑顔。
レオンは悟っていた。
自分は一生、この男の掌の上から逃れることはできないし、逃れるつもりもない。
市ヶ谷の中枢も、お嬢様との未来も、世間が謳歌する輝かしいキャリアも。
そんなものは、直人の淹れたお茶の一滴、
直人がくれるぶっきらぼうな「おかえり」の一言に比べれば、塵芥にも等しい。
「直人さん。……大好きです。……世界で、宇宙で一番、愛しています」
「…………。さっさと飲め。冷めるぞ」
赤くなった耳を隠すように背を向ける直人と、それを愛おしげに見つめるレオン。
二人の共依存は、誰にも理解される必要はない。
ただ、この横須賀の片隅で、静かに、けれど濃密に、永遠に続いていく。
翌朝、またレオンは何度もキスをねだり、直人に追い出されるように出勤していくだろう。
そして夜になれば、彼は再び、自分を繋ぎ止める愛おしい重力――直人の元へと帰還する。
横須賀の空は、明日も爽やかだ。
その下で、世界で一番不自由で、世界で一番幸せな男は、今日も愛する人の元へと「着陸」し続ける。
—— 完結
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