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第一楽章 4小節目 モーツァルトの午後

 入部して一か月。  部内の独特な空気にも、ようやく身体が馴染んできた。  五月上旬の風はすでに初夏の陽気を孕み、古い練習室には冷房がないせいか、制服のシャツの下がわずかに汗ばむ。  譜面台の上に、新しい楽譜が配られた。  ――『Mozart – Divertimento(ディヴェルティメント) K.138』。  七音は、真っ白なページを指先でなぞる。 「モーツァルトか」 「アンサンブルの定番中の定番だよね」  ヴィオラのあかり先輩が、楽器を構えながら同意する。  2ndヴァイオリンの紗矢先輩も、楽しそうに笑った。 「まあ、最初はだいたいぐちゃぐちゃになるのがお約束だけどね」  その横で、暁輝はすでにヴァイオリンを肩に乗せ、静かに集中を高めていた。  六月末には、弦楽部恒例の行事である「アンサンブルコンサート」が控えている。  部員が自由にグループを組み、曲を選んで披露する学内向けの演奏会だ。引退した三年生や教師陣も見に来るため、部内はいつになく活気づいている。  一週間前、部室で突然、暁輝が言った。 「朝波くん、俺とやろう」 「……なんて?」  聞き返す七音に、暁輝は至極真面目な顔で続けた。 「アンコン。一緒に弾こうよ」  それは誘いというより、すでに決定事項であるかのような響きだった。  結局、押し切られる形で話が進み、気づけば七音はこのカルテットに組み込まれていた。  メンバーの中で一年生は七音ただ一人だ。 (本当に俺でいいんだろうか)  楽器を抱え直す手に、かすかなプレッシャーが滲む。 「じゃあ、一度通してみようか」  暁輝の声で、四つの譜面台が緩やかな円を描く。  初めての合奏。  暁輝が弓を高く上げ、小さく息を吸い込んだ。  それが開始の合図だった。  ヴァイオリンが鮮やかに切り込む。  速い。そして、驚くほど軽い。  モーツァルト特有の、光が跳ねるような旋律。七音は一瞬の遅れを取り戻すように弓を置き、チェロの低音を響かせた。  リズムを刻みながら、七音は直感する。 (……速いな)  暁輝の音が、どんどん前へ進んでいく。  必死に追いかけるチェロ。その間を埋めるようにヴィオラの和音が重なる。  しかし――一拍。  ほんのわずかなズレが、積み重なった音の均衡を崩した。  ガリッ、と弦がこすれる不協和音。  紗矢先輩が弓を止めた。 「ストップ、一回止めよう」  先輩たちが苦笑いを浮かべる。 「今の、ちょっとやばかったね」 「チェロとヴァイオリンがケンカしてるみたいだったよ」  あかり先輩の指摘に、七音は肩を落として弓を下ろした。 「……すみません」 「いや、朝波くんのせいじゃない」  暁輝は首を振り、真っ直ぐに七音を見た。 「聴いてて」 「え……?」  暁輝はヴァイオリンを軽く鳴らした。  モーツァルトの、軽快に跳ねるフレーズ。 「これ。この動きのあと、俺の音の尻尾を捕まえるみたいに、追いかけてみて」  七音は楽譜に目を落とす。音符の羅列の中に、暁輝の言った「呼吸」を探した。    もう一度。  暁輝が今度は少し速度を落として弓を上げる。  旋律が始まった。  七音は弓を構えたまま、まだ弾かない。  暁輝の弓の動き、そのスピード、そして呼吸の深さ。  すべてを視線で追い、次の拍を待つ。 「今」  暁輝の短い指示と同時に、七音が弓を動かした。  チェロの音が深く入り込み、床を伝って響き渡る。  その重厚な土台の上を、ヴァイオリンが軽やかに駆け抜けていく。  今度は、音が噛み合った。  暁輝が満足げに小さく笑う。 「そう、それだよ」  弾きながら、七音の感覚が研ぎ澄まされていく。 (……分かる)  この人の音が、いつ前に進もうとしているのか。弓にどれほどの重さが乗っているのか。フレーズがどこで終わり、次へ繋がるのか。  曲が進むにつれ、四人の音が一つのうねりになっていく。  ヴィオラの和音が色彩を添え、2ndヴァイオリンがメロディを引き継ぐ。バラバラだった音が、完璧な秩序を持って流れ始めた。  暁輝が、演奏の合間にふっと振り向いた。  ほんの一瞬、七音と視線が重なる。  彼は誇らしげに、少しだけ笑った。    最後の和音が、初夏の空気に溶けるようにして消える。  訪れた沈黙を破ったのは、紗矢先輩の感嘆の声だった。 「……ねえ、今の」 「めちゃくちゃ気持ちよかった……」  あかり先輩も深く息を吐いて頷く。  七音は弓を下ろした。胸の奥に、小さな火が灯ったような熱が残っている。 「な? できるじゃん」  暁輝が覗き込むようにして言った。  七音は照れ隠しに苦笑する。 「……最初はどうなることかと思いましたけど」 「最初はそんなもんだよ。でもさ」  暁輝はヴァイオリンを小脇に抱え、確信に満ちた声で言った。 「朝波くん、やっぱり俺と合うな」  七音は言葉を返せなかった。  さっきの演奏の余韻が、指先に、腕に、まだ痺れるように残っている。  弓の重み。音の奔流。そして、暁輝の鮮烈な旋律。 (……楽しい)  ふたたび込み上げてきたその純粋な喜びに、七音は自分自身で、少しだけ驚いていた。

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