7 / 76
◇小品 ベタベタ
六月の初旬。
その日は、その年で初めての夏日を記録していた。
弦楽部の練習室には、冷房設備なんて気の利いたものはない。窓をすべて開け放っても、流れ込んでくるのはぬるい熱気だけだった。
七音はケースから弓を取り出すと、すっかり慣れた手つきで松脂 を手に取った。
いつものように、弓の毛へ丹念にこすりつける。毛に松脂が触れる感覚がいつもと違う気がしたが、さほど気に留めなかった。
楽器を構え、弦の上に弓を置く。
深く、一気に引き抜こうとした、その瞬間。
――ギィィッ!
踏みつけられた猫の悲鳴のような、無惨な音が室内に響き渡った。
七音は思わず手を止める。
「……え?」
首を傾げ、もう一度慎重に弓を動かす。
――ギャッ!
今度はさらに酷い。弦が弓にべったりと張り付き、震えることさえ拒否しているようだった。
すると、すぐ隣から堪えきれないといった風の笑い声が聞こえてきた。
暁輝だ。
彼はヴァイオリンを小脇に抱えたまま、肩を小刻みに震わせている。
「……先輩?」
怪訝そうに尋ねる七音に、暁輝は笑いを噛み殺しながら言った。
「朝波くん、松脂つけすぎ」
「え」
「今日、これだけ暑いだろ」
暁輝が、陽炎の立つ窓の外を顎でしゃくってみせる。
「気温が上がると松脂も柔らかくなるからさ。今までと同じ感覚で塗ったら、ベタベタになって音が潰れる」
七音は手元の弓をまじまじと見つめた。
「初心者あるあるだな」
暁輝は楽しそうに目を細める。
「最初の夏、みんな一回は通る道だよ」
そう言いながら、暁輝は七音の手からそっと弓を受け取った。自分のケースから手入れ用のクロスを取り出すと、弓の毛を優しく、それでいて手際よく拭い始める。その慣れた手つきに、七音は黙って見入っていた。
「はい、これで弾いてみな」
返された弓を、七音は再び弦に置く。
チェロの低い音が、今度は素直に、深く練習室に広がった。
「あ……」
いつもの、落ち着く音だ。七音はほっと胸を撫で下ろした。
けれど、暁輝はまだ口元を緩めたまま、七音を見つめている。
「……そんなにおかしいですか」
少しだけむっとして問い返すと、暁輝は小さく首を振った。
「いや」
笑いを含んだ声で、彼は続ける。
「だってさ、朝波くんって、音楽のことなら何でもスマートにこなしそうに見えるのに」
暁輝は、宝物を見つけた子供のような瞳で七音を見た。
「やっぱり弦楽は初心者なんだなって思ったら……なんだかね、嬉しいというか」
また、暁輝が楽しそうに笑う。
その瞳があまりにも真っ直ぐにきらきらと輝いているものだから、七音は逃げるように視線を逸らした。
「なんですかそれ。悪趣味ですよ」
「はは、ごめんて」
暁輝の笑い声が、熱を帯びた空気に溶けていく。
七音はもう一度、今度はさっきよりも少しだけ丁寧に弓を引いた。
チェロの音が、隣で鳴り始めたヴァイオリンの音と緩やかに重なる。
なんとなく、いつもより少しだけ、顔が熱い気がした。
ともだちにシェアしよう!

