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◇小話 ベタベタ
六月のはじめ。
その日は、その年最初の夏日だった。
弦楽部の練習室には冷房がない。
窓は全部開いているのに、空気はぬるかった。
七音は弓を取り出すと、慣れてきた様子で松脂を塗る。
いつものように、弓の毛にこすりつける。
少し多い気もしたけれど、気にしなかった。
弓を弦に置く。
引く。
その瞬間。
――ギィィッ
踏まれた猫みたいな音がした。
七音は思わず弓を止める。
「……え?」
もう一度。
弾く。
――ギャッ
今度はもっとひどい。
近くから笑い声が聞こえた。
暁輝だった。
ヴァイオリンを構えたまま、肩を震わせている。
「先輩?」
暁輝が笑いながら言う。
「松脂つけすぎ」
「え」
「今日暑いだろ」
窓の外を指す。
「松脂、柔らかくなってるんだよ」
七音は弓を見る。
「初心者あるある」
暁輝は楽しそうに笑う。
「最初みんなやる」
そう言いながら、七音の弓をそっと受け取る。
ケースから布を出す。
弓の毛をやさしく拭う。
手つきが慣れている。
「はい」
弓を返す。
「これで弾いてみ」
七音は弓を弦に置く。
引く。
チェロの低い音が、素直に鳴る。
「あ」
いつもの音だった。
七音は少しほっとする。
でも。
暁輝はまだ笑っている。
「……そんなにおかしいですか?」
暁輝は少し首を振る。
「いや」
笑いながら言う。
「だってさ、朝波くんて」
七音を見る。
「音楽のこと、なんでもできそうなのに」
少し肩をすくめる。
「やっぱ弦楽は初心者なんだなって思ったら」
また笑う。
その顔が、妙に楽しそうだった。
まるで。
宝物を見つけたみたいに。
瞳がきらきらしている。
七音は少しだけ視線を外す。
「……なんですかそれ」
暁輝はまだ笑っている。
七音はもう一度弓を引いた。
チェロの音が、練習室に広がる。
さっきよりも、やさしく丁寧に。
なんとなく。
少しだけ、気恥ずかしかった。
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