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第一楽章 5小節目 呼び名と棘
アンサンブルコンサートまで、あと二週間。
放課後の練習室は、いくつものグループが放つ音の破片で埋め尽くされていた。
バッハの厳格な旋律、ヴィヴァルディの躍動するリズム。
譜面をめくる乾いた音と、額を突き合わせて議論する部員たちの熱気が、室内の温度をじりじりと押し上げている。
七音たちのカルテットも、連日のように音を重ねていた。
「もう一回、頭からいこう」
リーダーである暁輝が声をかける。
弓が上がり、暁輝が短く息を吸い込む。それが、四人の鼓動を一つにする合図だ。
ヴァイオリンが鮮やかに跳ね、モーツァルトの軽快な旋律が走り出す。
七音は一拍の遅れもなくチェロを滑り込ませた。
低音がリズムの骨組みを作り、旋律の土台を支える。紗矢先輩の2ndヴァイオリンがフレーズを艶やかに受け取り、あかり先輩のヴィオラが豊かな和音で空間を埋めていく。
バラバラだった四つの音が、少しずつ一つの「音楽」へと形を変えていく。
しかし。
「ストップ」
暁輝が弓を止めた。
「今、ちょっと走った。詰め込みすぎてるな」
七音は、弦から弓を離した。
「……すみません」
「いや、今のは俺」
暁輝は首を振り、少し考えてから七音を振り返った。
「一度、二人で整理しよう。……来て」
旧校舎三階、廊下の最奥。
開け放たれた窓から、初夏の湿り気を帯びた風が吹き込み、薄汚れたカーテンを緩やかに揺らしている。
「先輩、ここ好きですね」
七音がチェロを立てながら言うと、暁輝は答えず、ただニヤリと悪戯っぽく笑ってヴァイオリンを構えた。
「頭から。テンポ、俺に預けてみて」
暁輝が弓を動かす。軽やかな旋律。七音はそれを、一音たりとも漏らさぬよう追いかける。
低音のスタッカート、そしてリズムの刻み。
モーツァルトの音楽は、どこまでも羽のように軽い。だからこそ、わずかな呼吸のズレが致命的な綻びになる。
七音は暁輝の右腕を注視した。弓のスピード、その重さ、フレーズの終わりの余韻。
やがて、二人の呼吸が自然と重なる。音がぴたりと吸い付くように噛み合った。
「いいね」
暁輝が弾きながら、満足げに目を細める。
心臓が、一拍だけ速く跳ねた。
旋律がぐっと熱を帯びて持ち上がる。暁輝がふと視線を寄越し、何気なく、けれど親密な響きで告げた。
「なお、そこもうちょい歌って」
一瞬、思考が止まった。
なお。
動揺が指先に伝わりそうになるが、演奏は止まらない。七音は必死に弓を動かし、途切れそうなフレーズを繋ぎ止めた。
曲が終わり、静寂が戻る。
七音は、楽器を抱えたまま、小さな声で切り出した。
「……さっき、名前」
「ん? ああ……」
暁輝は特に気にする様子もなく、ヴァイオリンの弦を弾いた。
「呼びやすいから」
「そういう理由なんですか」
「うん」
暁輝は、屈託のない少年のような顔で笑った。
「なおの音、良いからさ。なんか呼びたくなる」
七音は何も言い返せなかった。
胸の奥が、夕焼けのような熱を帯びてじわりと広がる。
◇
入学から二か月。
学校生活に慣れてきた新入生たちの間では、退屈しのぎの噂話が盛んになり始めていた。
一年生の教室。休み時間の喧騒の中で、クラスメイトの一人が七音の机に腰掛けた。
「朝波くんさ。弦楽部で、あの八神先輩と組んでるってマジ?」
七音は短く頷く。
するとクラスメイトは、面白そうに声を潜めた。
「あの人さ……結構やばいって聞いた?」
「何が?」
「去年、部内でエグい修羅場があったらしい」
七音の手が止まる。
「同級生と先輩、両方と付き合ってたんだって。結局それでモメて、女子二人は部活辞めたらしい」
「……修羅場って、そんな」
「しかもさ、あのビジュアルだろ? 相当遊んでるって噂だよ。関わり方、気をつけた方がいいんじゃない」
予鈴のチャイムが、会話を強引に断ち切った。
七音は窓の外に目を向けた。空はどんよりとした厚い雲に覆われ、光を遮っている。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような、消えない違和感が残った。
その日の帰り際。
七音は廊下の窓から、正門付近を何気なく見下ろした。
そこに、暁輝がいた。
遠目からでもはっきりと分かる、背が高く、均整の取れた立ち姿。
その隣には、一人の女子生徒が寄り添っている。
降り始めたばかりの細い雨の中、二人は一つの傘に収まっていた。
女子生徒が熱心に何かを語りかけている。暁輝は、いつもの余裕を感じさせる穏やかな笑みを浮かべて頷いていた。
――相当、遊んでるって噂。
昼間のクラスメイトの言葉が、呪文のように脳裏を掠める。
二人は親密そうな距離を保ったまま、校門の向こうへと消えていった。
七音は窓際に立ち尽くしたまま、その背中が雨に霞んでいくのを、いつまでも目で追っていた。
「朝波ー、早く!」
友人の声に、七音ははっとして肩を揺らす。
「……今行く」
窓から視線を外した時にはもう、正門には誰もいなかった。
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