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第一楽章 6小節目 不協和のディヴェルティメント
教室の空気は、少しひんやりと肌を刺した。
普段は授業で使うだけの無機質な空間。
そこにパイプ椅子が並べられ、客席はほぼ満席の状態だった。後ろの方では、入り切らなかった生徒たちが壁際に立ち見の列を作っている。
大勢の人間が詰めかけているはずなのに、室内は妙に静まり返っていた。
弦楽部の部内アンサンブルコンサート。
教室の隅で、七音はチェロのネックを握りしめていた。弓の毛を慎重に張り、松脂の状態を確かめる。
指先が、わずかに冷たい。
ふと視線を上げると、暁輝はすでにヴァイオリンを肩に乗せていた。いつもの、余裕を湛えた横顔。緊張なんて欠片も見当たらない、傲慢なほどに完成された佇まい。
(……本当になんなんだ、この人は)
七音は小さく毒づき、己の動揺を押し殺した。
司会の声が静寂を破る。
「次の演奏は、モーツァルト作曲、ディヴェルティメント K.138」
拍手の中、四人で教室の前方へと進み出る。
窓から差し込む午後の陽光が、床に長い影を落としていた。椅子に深く腰掛け、譜面台の角度を微調整する。チェロを立て、エンドピンを床に突き立てる。カツン、という小さな衝撃が、覚悟を決める合図になった。
暁輝が弓を上げる。
ほんの少し、吸い込まれるような予備動作。
それが、四人の呼吸を繋ぐ糸だった。
ヴァイオリンが鮮烈に切り込む。速く、そして羽のように軽い。モーツァルトの旋律が、停滞していた教室の空気を一気に弾ませた。
七音もチェロを滑り込ませる。低音、リズム。
最初の数小節は、まだ弓が重く感じられ、左手の指もどこか強張っていた。
けれど、暁輝の音は迷いなく前へ進む。その背中に導かれるように、七音の弓が加速度を増していく。
(……合わせろ。逃がすな)
チェロの響きが床を伝い、ヴィオラが豊かに和音を支え、2ndヴァイオリンが旋律を華やかに受け継ぐ。音が血流のように流れ始めた瞬間、さっきまでの硬い緊張が、嘘のようにほどけていった。
フレーズの終わり。暁輝が、ほんの一瞬だけこちらを盗み見た。
射抜くような、それでいてすべてを肯定するようなあの目。
(……くそ)
七音は心の中で悪態をついた。
(やっぱり、最高に気持ちいい)
音が、吸い付くように噛み合う。チェロが刻むリズムの上に、ヴァイオリンが自由奔放に踊る。弓は驚くほど軽く、何の引っかかりもなく弦の上を滑る。
もう迷わない。七音は暁輝の描く軌道をどこまでも追った。
重なり合う音が教室の空気を激しく震わせる。曲の終盤、ヴァイオリンが目も眩むような速さで旋律を駆け上がり、チェロがそれを下から力強く押し上げる。
最後の和音。
弓を止め、音が消えた。訪れた一瞬の静寂は、まるで真空のように濃密だった。
爆発するような拍手。
客席のざわめきを背に、七音は肺の中の空気をすべて吐き出した。
(……終わった)
教室の脇に引き上げると、紗矢先輩が弾んだ声で笑った。
「よかった! 今までのベストだったよ」
「うん、かなり合ってた。鳥肌立ったわ」
あかり先輩も満足げに頷く。七音もようやく頬を緩めたが、胸の奥のざわつきは収まらない。
そこへ、暁輝が歩み寄ってきた。
「なお」
呼ばれて、七音は顔を上げる。
「はい」
「さっきの、よかった。俺の音、よく捕まえてくれたね」
暁輝のストレートな称賛に、七音は短く応じる。
「……ありがとうございます」
わずかな沈黙。
暁輝の瞳から、ふっと熱が引いた。
「で、なんで避けてんの」
七音の鼓動が跳ねた。
「最近、付き合い悪いだろ。練習以外じゃ目も合わせないし」
教室では、すでに次のグループの演奏が始まっている。小刻みなリズムが、二人の間の緊張感を煽る。
「……そんなことないですよ」
「あるだろ。隠せてないから」
「別になんでもないって言ってるじゃないですか」
「嘘だろ」
七音の口から、抑え込んでいた言葉が溢れ出した。
「先輩って……」
喉元まで出かかった言葉を、もう止められなかった。
「音楽以外、全部適当ですよね」
一瞬、空気が凍りついた。暁輝の眉が、ぴくりと跳ねる。
「……は?」
「音楽のときだけ真面目な顔して、それ以外はいい加減で……。そんなんで、いいんですか」
暁輝の顔から、完全に笑みが消えた。彫刻のように冷ややかな、静かな声。
「それ、音楽に関係あること?」
「……」
「演奏に影響してるって言うの?」
七音は言葉に詰まった。
関係ない。演奏は完璧だった。完璧すぎて、それが余計に腹立たしかった。
二人の間に、冷え切った沈黙が落ちる。
暁輝はいら立ったように鼻を鳴らし、短く吐き捨てた。
「……もういい」
彼はそのまま、一度も振り返ることなく背を向けた。
遠ざかっていく足音を、七音はただ立ち尽くして聞いていた。
さっきまで、あれほど濃密に重なっていたはずの音が。
今はもう、届かないほど遠くへ消えていた。
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