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7小節目 夏のプレリュード

 夏休みに入ったばかりの校門には、弦楽部の部員たちが楽器ケースを抱えて集まっていた。  早朝の光が静かな校舎の壁を照らしている。  黒いヴァイオリンケースに、大きなチェロケース。  ひときわ目立つコントラバス。 「朝波くん!」  紗矢先輩がヴァイオリンを抱えたまま手を振る。 「おはよう」 「おはようございます」  七音が軽く頭を下げると、ちょうどそのとき、校門の前にバスが滑り込んできた。  合宿用の貸切バスだ。  夏休みに入るとすぐ、弦楽部は毎年合宿に出かける。  行き先は山の湖畔にある小さなペンション。  三月に行われる定期演奏会の曲目を、朝から晩までひたすら練習する。  楽器と荷物を抱え、部員たちが次々にバスに乗り込んでいく。  七音も鞄を抱えて車内に入った。  通路の奥をふと見る。  後方の席に、暁輝が座っていた。  目が合う。  暁輝は軽く手を振った。 「なお」  七音は一瞬迷って、小さくうなずくだけにした。  そのまま、前の席に座る。  エンジンが低く唸り、バスがゆっくり動き出した。  窓の外の景色が、ゆっくりと流れ始める。  後ろの方では、もう女子たちが騒いでいた。 「今回の曲さ、結構むずくない?」 「チャイコフスキー、意外とやばい」 「ねえ大富豪やろー!」  笑い声が車内に広がる。  七音は窓の外を見た。 (……四泊五日)  同じ場所で過ごし、同じ部屋で眠る。  ふと、暁輝の顔が頭に浮かぶ。  アンサンブルコンサートの日のことが、まだ胸に残っていた。  あれから、まともに話していない。  いや——  正確には、まともに話せていないのは七音の方だ。  暁輝は、何事もなかったかのように接してくる。  部活でも廊下でも、いつもの調子で「なお」と声をかけてくる。  それだけだ。  怒っている様子もない。  気にしている様子もない。  まるで、あの日の言い合いなんて最初から存在しなかったみたいに。 (……なんなんだよ)  窓の外を見ると、山の緑が流れていく。 (気にしてるのは俺だけか)  胸の奥に、小さな引っかかりが残る。  暁輝が何を考えているのか、  七音にはよく分からなかった。  なんとなく気まずいまま、時間だけが過ぎていた。  窓の外の景色が、街から森へと変わっていく。  三時間ほどして、バスは山道に入った。  やがて木々の向こうに、湖が見えた。  陽の光を受けて、水面がきらきらと揺れている。  そのすぐ横に、木造のペンションが建っていた。  少し古いが、白い壁と大きな窓が印象的な建物だ。  女子たちが歓声を上げる。  バスが停まり、部員たちは次々と荷物を降ろした。  七音もチェロケースを肩にかける。 「男子ふたりはこの部屋ねー」  鍵を渡され、七音が受け取る。  部屋番号を確認して振り返ると、そこに暁輝が立っていた。  二人の間に、ほんの一瞬沈黙が落ちる。  暁輝が先に言った。 「よろしく」  七音は少しだけ顔をしかめて、 「……はい」  と小さくうなずいた。  部屋は思っていたより広かった。  和室には畳の香りが満ちている。  窓際にテーブルと、椅子が二脚。  押し入れには布団が二組。  窓を開けると、湖が見えた。  青い水面の向こうに、山の稜線がゆるやかに連なっている。  少し冷たい風が、静かに入ってきた。  標高が高いのだろうか、地元よりも空気がひんやりしている。  七音は黙って荷物を部屋の隅に置く。  沈黙が部屋に満ちる。  暁輝がぽつりと言った。 「気まずい?」 「……はい」  正直に答えると、暁輝は少し笑った。 「正直だな」  ヴァイオリンケースを畳の上に置き、肩を軽くすくめる。 「まあさ」  それから、いつもの調子で言った。 「弾けばいいじゃん」  七音は何も返せなかった。  合宿は、その日の午後からすぐに始まった。  昼食を済ませると、すぐに練習。  夕方までひたすら弾く。  夕食のあとも、また練習。  ペンションの広いホールに、弦の音が響き続ける。  定期演奏会の曲は、どれも難しい。  少なくとも1年生には。  七音にとっても例外ではなかった。  弓のスピード。  和音。  テンポ。  少しでも気を抜くと、音が崩れる。  暁輝のヴァイオリンは相変わらずだった。  鋭く、まっすぐ。  旋律が前へ前へと進んでいく。  七音はチェロを弾く。  低音で支える。  それでも、二人の距離はまだ微妙だった。  目が合う。  すぐ逸らす。  音だけが、重なる。  ◇◇  三日目の夜。  その日も練習が終わるころには、外はすっかり暗くなっていた。  湖のほとりに、部員たちが集まっている。 「花火やるぞー!」  誰かが袋を振る。  手持ち花火が配られ、火をつける。  ぱちぱちと火花が散る。  女子の高い笑い声が響き渡る。  湖の黒い水面に、小さな火花の光が揺れている。  七音は少し離れた場所に立っていた。  湖畔の夜の空気は、思ったより冷たい。  そのとき、暁輝が近づいてきた。 「今日」  七音を見る。 「肩、固い」  七音は苦笑した。 「分かります?」  暁輝はうなずく。 「音で分かるよ」  そのとき。 「朝波くんもやりなよー!」  誰かが呼んだ。  七音が振り向く。  暗い足元。  段差に気づくのが遅れた。 「うわっ」  体が前に崩れる。  膝が地面にぶつかった。  鋭い痛み。  花火の光が揺れる。  暁輝がすぐに駆け寄った。 「なお」  七音は膝を押さえる。  血が、少しにじんでいた。 「立てる?」  七音はうなずく。  でも痛い。  暁輝は何も言わずに、七音の腕をとった。 「戻るぞ」  ペンションの灯りが、夜の湖の向こうで静かに揺れていた。

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