10 / 124
第一楽章 7小節目 夏のプレリュード
夏休みに入ったばかりの校門前。
早朝の澄んだ光が校舎の白い壁を鋭く照らし、そこには楽器ケースを抱えた弦楽部の面々が集まっていた。黒いヴァイオリンケース、重厚なチェロ、一際存在感を放つコントラバス。
「朝波くん!」
先輩の紗矢が、愛用の楽器を抱えたまま大きく手を振った。
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「それなりに」
他の部員にも挨拶していると、ちょうど貸切バスが校門へと滑り込んできた。
夏休みの幕開けと共に始まる、弦楽部恒例の強化合宿。
山奥の湖畔にあるペンションに四泊五日で籠もり、定期演奏会の難曲を朝から晩まで叩き込む過酷な行事だ。
部員たちが次々とバスに乗り込んでいく中、七音も荷物を持って車内へ入った。通路の奥に目をやると、最後方の席に暁輝が座っていた。一瞬、視線がぶつかる。暁輝はいつものように、軽く手を挙げて合図した。
「なお」
七音は一瞬迷い、小さく頷くだけにして手前の席に腰を下ろした。
エンジンが低く唸り、バスがゆっくりと動き出す。
後方の席からは、すでに女子たちの賑やかな声が聞こえてきた。
「シチリアーナの中盤、マジで指が回らない」
「わかるー」
「ねー大富豪やろうよ。罰ゲームありで」
弾けるような笑い声を聞きながら、七音は窓の外へと視線を逃がした。
(四泊五日、ずっと一緒か)
アンサンブルコンサートのあの日。
感情に任せてぶつけてしまった言葉が、まだ胸の奥に棘のように刺さっている。
あれ以来、まともに会話をしていない。いや、正確には「まともに話せていない」のは七音の方だ。暁輝は何事もなかったかのように、部活でも廊下でも、以前と変わらぬ調子で「なお」と声をかけてくる。怒っている様子も、気まずそうにする素振りも一切ない。
まるで、あの激しい言い合いなんて最初から存在しなかったかのように。
(本当、なんなんだよ、あの人。気にしてるのは俺だけ?)
窓の外を流れる山の緑を見つめながら、七音は小さく息を吐いた。暁輝が何を考えているのか、今の七音には全く読み取れない。その不明瞭な距離感が、得体の知れない不安となって澱のように溜まっていた。
三時間ほどの走行を経て、バスは鬱蒼とした山道を抜け、鏡のように静かな湖のほとりに到着した。陽光を跳ね返す水面の向こうに、木造の古いペンションが建っている。
バスを降りると、女子たちの歓声が響いた。
「やば!めっちゃ景色良い」
「朝波くん、写真撮って」
方々からスマホを差し出され、はしゃぐ女性陣を七音は無言でカメラに収める。
「男子二人はこの部屋ね」
手渡された鍵の番号を確認して振り返ると、そこには暁輝が立っていた。二人の間に、ほんの一瞬だけ、重い沈黙が落ちる。
「……よろしく」
暁輝が先に、短く言った。七音はわずかに眉を寄せ、小さく首肯した。
案内されたのは、い草の香りが残る広い和室だった。
窓を開けると、涼やかな風と共に湖の全景が飛び込んでくる。標高が高いせいか、都会の熱気とは無縁の冷涼な空気が、肌に心地いい。
七音は黙って荷物を隅に置いた。
室内に満ちる沈黙。
おもむろに、暁輝がぽつりと呟いた。
「気まずい?」
「……はい」
正直に答えると、暁輝はふっと微かに笑った。
「なおは正直だな。……まあ、いいよ。弾けばわかるだろ」
練習は、その日の午後から容赦なく始まった。
広いホールに弦の音が響き続ける。
定期演奏会のプログラムはどれも一筋縄ではいかない難曲ばかりだ。
弓の速度、和音の重なり、テンポ。少しでも集中を欠けば、音楽は砂の城のように崩れていく。
暁輝のヴァイオリンは、相変わらず鋭く、迷いがない。旋律が奔流となって前へ前へと突き進む。七音は必死にチェロでその土台を支えるが、二人の視線が交わることはなかった。
音だけが、虚空で重なり合っていた。
そうして三日目の夜。練習が終わる頃には、外は深い闇に包まれていた。
息抜きを兼ねて花火をすることになり、全員で湖畔に出る。
「いくぞー、点火!」
誰かの合図で、ぱちぱちと鮮やかな火花が散り始めた。女子たちの高い笑い声と、黒い水面に映る光の粒。
七音は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。空気は夜霧を纏い、昼間よりもずっと冷え込んでいる。
「なお」
気づけば、暁輝が隣に立っていた。
「今日、肩が固いな。ずっと力んでる」
七音は自嘲気味に笑った。
「……分かりますか」
「聴けば分かるよ。なおのチェロ、泣きそうな音がしてた」
そのときだった。
「朝波くんもこっちおいでよ!」
遠くから呼ばれ、七音は慌ててそちらへ向かおうとした。だが、暗い足元の段差に気づくのが一瞬遅れた。
「うわ」
バランスを崩し、体が前のめりに倒れる。鋭い痛みが走り、膝を地面に強かに打ちつけた。視界が揺れる中、すぐに暁輝が駆け寄ってくるのが見えた。
「なお!」
膝を抱えてうずくまる七音。ズボンの破れ目から、赤い血が滲んでいる。
「立てる?」
七音は頷こうとしたが、鈍い痛みが走って顔を歪める。暁輝はそれ以上何も訊かず、無言で七音の腕を自分の肩に回した。
「……戻って手当しよう」
ペンションから漏れる温かな灯りが、夜の湖畔で静かに揺れている。
肩越しに伝わってくる暁輝の体温が、夜の冷気の中で、やけに熱く感じられた。
ともだちにシェアしよう!

