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8小節目 湖畔のカンタービレ
ペンションの廊下は静まり返っていた。
湖の方から、まだ花火を楽しむ部員たちの声がかすかに聞こえる。
遠くで火花が弾け、時おり笑い声が夜気に混ざった。
七音はゆっくり歩いていた。
膝が少し痛む。
隣では暁輝が肩を支えている。
「大丈夫?」
「……はい」
玄関の灯りの下で、暁輝が足を止めた。
「ここ座って」
木のベンチを指す。
七音は腰を下ろし、膝をそっと曲げた。
血が滲んでいる。擦り傷だった。
「動かないで」
暁輝は救急箱を取りに行き、すぐ戻ってきた。
ガーゼに消毒液をつける。
「ちょっと沁みるよ」
傷口に触れる。
「っ……」
七音が思わず顔をしかめる。
それを見て暁輝が笑った。
「子どもかよ」
「普通に痛いです」
「まあそうだよな」
暁輝は手当てを続ける。
指先が膝に触れる。
距離が近い。
いつもの松脂の匂いの奥に、暁輝自身の香りがするような気がした。
不思議と落ち着く香り。
沈黙が落ちる。
外で花火が弾ける音。
小さな光が窓に揺れる。
七音がぽつりと言った。
「先輩」
「ん?」
「なんで分かるんですか」
「何が?」
「肩、固いとか」
暁輝は少し考えて言う。
「音で分かるんだって」
「音?」
「弓が重い。ちょっとだけ」
七音は苦笑した。
「すごいですね」
暁輝は最後に絆創膏を貼り、立ち上がる。
「歩ける?」
「たぶん」
七音も立ち上がった。
歩き出そうとしたその時、暁輝がおもむろに言った。
「……弾く?」
「え?」
暁輝は廊下の奥を指した。
ラウンジ。
古いアップライトピアノが置いてある。
夜のラウンジには誰もいない。
窓の外には、湖。
空には上弦の月が浮かんでいた。
暁輝はヴァイオリンを持ってくると、静かに構える。
その姿を見て、七音がチェロを取りに行こうとすると、
「なお」
「はい」
「ピアノ弾いて」
七音は少し驚く。
「伴奏ですか?」
「うん」
七音は椅子に座り、鍵盤に触れた。
夜気のせいか、少し冷たい。
そっと白鍵を押すと、澄んだ音が響いた。
調律はされているらしい。
暁輝が弓を置く。
静かな旋律が流れ始めた。
(……クライスラー、愛の悲しみ)
昼の練習で聴く音とは、どこか違う。
柔らかく、深い。
夜の空気に溶けるような音だった。
七音はそっと伴奏を入れる。
ピアノの和音。
その上に、ヴァイオリンの旋律がゆっくり伸びていく。
ラウンジの空気が、静かに揺れた。
ゆっくりとした呼吸。
暁輝の弓の動きに合わせて、七音の指が自然と動く。
ピアノの和音が、旋律をそっと支える。
音が重なる。
溶ける。
その感覚に、七音はふと気づいた。
(……あ)
さっきまで胸の奥に引っかかっていたもの。
アンサンブルコンサートの日の言葉。
あの気まずさ。
いつの間にか、少しだけ遠くにある。
暁輝の音に耳を傾けているうちに、それらが静かにほどけていくのを感じた。
暁輝の音は相変わらずだった。
まっすぐで、迷いがない。
その旋律に、七音の和音が自然と寄り添う。
今までの練習よりも、ずっと近い。
音の距離が、近い。
曲が終わるころには、七音はもう気づいていた。
さっきまであったわだかまりが、ほとんど残っていないことに。
最後の音が消えると、ラウンジは静まり返った。
外ではまだ花火が弾けている。
七音が言った。
「先輩の音って」
「うん?」
「……ずるいです」
暁輝が少し笑う。
「何が」
七音は迷って言う。
「引っ張られる」
暁輝は少し黙る。
それから七音を見る。
「それ、いい意味?」
「……分かりません」
再び沈黙が落ちる。
外で花火が弾け、大きな歓声が上がる。
暁輝がふいに、七音の方へ近づいた。
ラウンジの静かな空気の中で、距離が近くなる。
七音はなぜか体を動かせなかった。
暁輝は七音を見つめる。
その視線に、七音の呼吸が少し浅くなる。
ラウンジの灯りを受けて、七音の瞳が揺れていた。
琥珀のような色が、静かに光を映している。
暁輝は、ほんの一瞬だけ言葉を探すように目を細めた。
「俺さ、ほんとに」
低くこぼれた声。
「お前と弾くの、好き」
七音の呼吸が止まる。
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、暁輝がゆっくり顔を寄せてきた。
近い。
思ったよりも、ずっと近い。
七音は目を逸らすこともできないまま、その顔を見ていた。
一瞬だけ、迷うような間がある。
そして――
唇が、そっと触れた。
ほんの一瞬。
柔らかな感触。
さっき知ったばかりの暁輝の香りが、肺に満ちる。
触れた呼吸がわずかに混ざり、すぐに離れた。
七音は言葉も出ず、その場に固まる。
「……先輩」
かすれた声。
暁輝も、自分が何をしたのか少し遅れて理解したような顔をしていた。
七音を見て、それから少しだけ困ったように笑う。
「今の」
七音が言う。
暁輝は一度視線を落としてから、肩をすくめた。
「音がさ」
短く息を吐く。
「混ざって、気持ちよかったから」
それだけ言うと、何事もなかったようにヴァイオリンをケースに戻した。
「戻ろ」
ラウンジの灯りが静かに揺れている。
七音はまだピアノの前に座ったままだった。
胸の鼓動が、少し速い。
膝の痛みよりも――
別の熱が、確かに残っていた。
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