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第一楽章 9小節目 朝靄のルフラン

 満足いくまで花火を楽しんだ部員たちは、各々風呂を済ませ、眠い目をこすりながら自室へと戻っていく。  七音も短くシャワーを浴び、熱を持った体を冷ますようにぼんやりとした足取りで部屋へ向かった。  先ほど、唇に触れた柔らかな熱を思い出す。  どんなに論理的に考えようとしても、あの突発的な行為の意味が解けない。昨日までの「険悪な気まずさ」とは質の違う、より濃度を増した「正体不明の気まずさ」が、足元をふわふわと不安定にさせていた。 (……顔、合わせづらいな)  とはいえ、部内の男子は二人だけだ。同じ部屋で寝食を共にしている以上、逃げ場はない。  覚悟を決めてふすまを開けると、暁輝は布団の上でうつ伏せになり、鼻歌交じりに足を揺らしていた。枕元にはスコア(総譜)が乱雑に広がっている。 「ね、なお。今日の第一楽章さ、ヴィオラちょっと走ってたよな?」  こちらを振り返りもせず、暁輝はいつも通りの調子で口を開いた。  あまりの普通さに、毒気を抜かれた七音は、広げられたスコアに目をやって応じる。 「セントポールですか」 「そう。前のめりっていうかさ」 「確かに。でもあかり先輩がいるし、明日にはきっちり修正してくるんじゃないですか」 「だよな。あいつ、リズム感鋭いし」  交わされるのは、どこまでも「いつも通り」の会話だった。  会話が途切れると、網戸越しに湖畔の虫の音が涼やかに響く。七音は静かに布団に潜り込み、天井の木目を見つめた。 (……いったい、何だったんだろうな、あれ)  夜のラウンジ。重なり、溶け合った音。そして、触れた唇。思い出した瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなる。  隣を見ると、暁輝はもう深く目を閉じていた。  穏やかな寝息を聞きながら、七音もまた抗えない眠気の中へと沈んでいった。    ◇    七音は、肌に沁み渡る熱気と圧迫感で目を覚ました。  窓の外はすでに白み始め、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。 (……暑い。冷房切れた?)  だが、顔を動かそうとした瞬間にその正体を悟った。  七音の布団に、暁輝が潜り込んでいた。  長い腕が七音の胴をがっしりと抱え込み、完全に抱き枕のような状態になっている。  暁輝はまだ深い眠りの中にいた。至近距離にある寝顔。規則正しく吐き出される温かな呼吸が首筋を掠め、ぞわりとした感覚が背中を走る。    普段の余裕に満ちた姿とは違う、無防備な表情。少し乱れた前髪、長く影を落とす睫毛。そして、形の良い唇。  ――昨日、この唇が自分に触れた。 「……先輩」  小声で呼ぶが、反応はない。 「先輩、起きてください。ちょっと……重い」  肩を揺らすと、暁輝はむずかるように眉を寄せ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。  焦点の定まらない瞳が、真っ直ぐに七音を捉える。  一瞬の空白。  やがて暁輝の目尻がふっと緩み、寝起き特有の微睡んだ笑みを浮かべた。 「なお……」  掠れた、甘い声だった。 「おはよー」  心臓がドクリと大きく跳ねる。 「……おはようございます。あの、腕」  指摘されてようやく、暁輝は自分の腕の位置を確認した。 「あー……。ごめん」  謝りながらも、腕をどける動作はどこまでも緩慢で。  七音は今日何度目か分からない溜息を、夏の朝の空気の中に逃がした。    ◇    合宿最終日。午前の練習を終えれば、午後にはこの場所を発つ。  湖には薄い霧が立ち込め、水面は凪いでいた。  七音は一人ペンションの外へ出ると、冷たい朝露を含んだ空気を深く吸い込んだ。 「おはよ、早いじゃん」  背後から声をかけられ振り返ると、そこにはヴァイオリンケースを抱えた暁輝が立っていた。珍しく一人で起きられたらしい。 「いい場所だよな、ここ」 「そうですね。音がどこまでも遠くへ飛んでいきそうです」  暁輝が楽しそうに目を細める。 「弾いてみる?」  まだ誰もいないホール。大きな窓から差し込む朝の光が、埃の粒子を黄金色に輝かせている。  二人は譜面台を挟んで向き合った。 「弦セレ、いこう」  チャイコフスキー『弦楽セレナーデ』。  弓が上がり、旋律が静かに滑り出す。七音もチェロの重厚な音をその下に敷いた。    昨日まで何度も繰り返したはずのフレーズ。それなのに。  暁輝は、弾きながらふっと眉を上げた。 (……違う。昨日までと、全然)  チェロの音が、劇的に柔らかくなっていた。フレーズの語尾が呼吸するように揺れ、音の中に豊かな余白が生まれている。 (……変わったな、なお)  一区切りつき、暁輝が弓を下ろした。 「なお」 「はい」 「お前、本当にわかりやすいね」  暁輝が堪えきれないといった風に笑う。 「え? 何がですか」 「音だよ。完全に変わった。今の音、すごくいい」  七音は一瞬絶句し、それから少し照れ臭そうに視線を落とした。 「……そうですか」  ここ一ヶ月、七音の音はどこか強張っていた。  けれど今は、指先から流れる音が自然で、心地よい。 「……楽しいです」 「何が?」 「弾くのが。先輩と合わせるのが」  暁輝は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに傲慢な、けれど優しさに満ちた笑みを浮かべた。 「俺と弾いてんだから、当たり前でしょ」  暁輝がヴァイオリンを軽く鳴らし、再び弓を構える。 「もう一回。今度はもう少し、攻めていこう」 「はい」  音が重なり、ホール全体が鳴動する。昨日よりもずっと深く、密接に。  曲が終わった後、暁輝がぽつりと、けれど確信に満ちた声で言った。 「なお。お前は、もっともっと伸びるよ」 「……だと、いいですけど」 「なるよ。俺が保証する」  暁輝は嬉しそうに開放弦を一度響かせ、さらりと続けた。 「ようやく、俺が弾きたい音になってきた」  七音は言葉を失った。  胸の奥で、また熱い何かが込み上げてくる。  ホールの窓から差し込む湖の光は、二人の楽器を、そして重なり合った音の残響を、静かに祝福しているようだった。    

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