13 / 76

◇小品 夫婦

 合宿二日目の朝、時刻は6時30分。  標高の高い湖畔の朝は、都会のそれとは違う鋭い涼しさを孕んでいる。ペンションの廊下は、まだ数人の足音が響く程度の静寂に包まれていた。    七音はすでに覚醒していた。洗面を済ませ、歯を磨き、自室へ戻って手早く着替えを終える。  視線を落とすと、そこにはまだ巨大な「山」があった。  暁輝だ。完全に布団と同化し、微動だにしない。 「……先輩」  七音が低い声で投下する。反応はない。 「先輩」  肩を掴んで、物理的に揺さぶる。  暁輝がようやく、糸のような細さで目を開けた。 「……なお」 「はい」 「今、何時……」 「6時半です」  暁輝は三秒ほど思考を巡らせ、断定した。 「……無理」  そして、潜水艦のように再び布団の海へ沈んでいった。  七音は思わず鼻で笑う。 「朝練ありますよ。朝イチで合わせるって昨日言ったの先輩ですよね」 「……なお一人でやってきて。俺、心の中でピツィカート弾いてるから」 「意味不明なこと言ってないで起きてください」  七音は容赦なく布団の端を引っぺがした。 「ああ!無慈悲な……あと5分だけ」 「もう充分でしょ」  七音は溜息をつき、枕元に転がっていたペットボトルを無理やり握らせた。 「ほら、水。飲んで目を覚ましてください」  暁輝は赤ん坊のようにぼんやりとそれを受け取り、数口飲んでようやく上体を起こした。  だが、そのビジュアルは壊滅的だった。  普段のシャープな面影はどこへやら、髪は重力に抗うような全方位への跳ねっぷりを見せている。 「先輩、鏡見てください。すごいことになってますよ」 「……んー?」  使い物にならない暁輝を連行し、共用の洗面室へ向かう。鏡の前に立たせると、暁輝はようやく自分の惨状を認識したらしい。 「やば」 「自覚があって何よりです。ちょっと、じっとしてて」  七音は指先に水をつけると、暁輝の側頭部の頑固な跳ねを押さえにかかった。暁輝は抵抗する気力もないのか、七音に身を委ねてされるがままになっている。  その時、洗面室にやってきた部員たちが入り口で凍りついた。 「……何この光景」  紗矢先輩が歯ブラシをくわえたまま固まり、後ろから覗き込んだ部長が目を丸くする。 「え、何。新婚夫婦の朝?」  七音が真顔で振り返る。 「違います」  だが、暁輝は鏡越しに七音を見つめ、至極当然といった調子で宣った。 「なお、ありがと。助かる」 「……お礼はいいので、早く顔洗ってください」  そのやり取りを見ていた女子部員たちが、ヒソヒソと耳打ちを始める。 「夫婦っていうかさ」 「オカンか?」  七音はわずかに眉間に皺を寄せ、聞こえないふりをして手を動かした。  窓の外では、朝靄に包まれた湖が静かに凪いでいた。

ともだちにシェアしよう!