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◇小品 夫婦
合宿二日目の朝、時刻は6時30分。
標高の高い湖畔の朝は、都会のそれとは違う鋭い涼しさを孕んでいる。ペンションの廊下は、まだ数人の足音が響く程度の静寂に包まれていた。
七音はすでに覚醒していた。洗面を済ませ、歯を磨き、自室へ戻って手早く着替えを終える。
視線を落とすと、そこにはまだ巨大な「山」があった。
暁輝だ。完全に布団と同化し、微動だにしない。
「……先輩」
七音が低い声で投下する。反応はない。
「先輩」
肩を掴んで、物理的に揺さぶる。
暁輝がようやく、糸のような細さで目を開けた。
「……なお」
「はい」
「今、何時……」
「6時半です」
暁輝は三秒ほど思考を巡らせ、断定した。
「……無理」
そして、潜水艦のように再び布団の海へ沈んでいった。
七音は思わず鼻で笑う。
「朝練ありますよ。朝イチで合わせるって昨日言ったの先輩ですよね」
「……なお一人でやってきて。俺、心の中でピツィカート弾いてるから」
「意味不明なこと言ってないで起きてください」
七音は容赦なく布団の端を引っぺがした。
「ああ!無慈悲な……あと5分だけ」
「もう充分でしょ」
七音は溜息をつき、枕元に転がっていたペットボトルを無理やり握らせた。
「ほら、水。飲んで目を覚ましてください」
暁輝は赤ん坊のようにぼんやりとそれを受け取り、数口飲んでようやく上体を起こした。
だが、そのビジュアルは壊滅的だった。
普段のシャープな面影はどこへやら、髪は重力に抗うような全方位への跳ねっぷりを見せている。
「先輩、鏡見てください。すごいことになってますよ」
「……んー?」
使い物にならない暁輝を連行し、共用の洗面室へ向かう。鏡の前に立たせると、暁輝はようやく自分の惨状を認識したらしい。
「やば」
「自覚があって何よりです。ちょっと、じっとしてて」
七音は指先に水をつけると、暁輝の側頭部の頑固な跳ねを押さえにかかった。暁輝は抵抗する気力もないのか、七音に身を委ねてされるがままになっている。
その時、洗面室にやってきた部員たちが入り口で凍りついた。
「……何この光景」
紗矢先輩が歯ブラシをくわえたまま固まり、後ろから覗き込んだ部長が目を丸くする。
「え、何。新婚夫婦の朝?」
七音が真顔で振り返る。
「違います」
だが、暁輝は鏡越しに七音を見つめ、至極当然といった調子で宣った。
「なお、ありがと。助かる」
「……お礼はいいので、早く顔洗ってください」
そのやり取りを見ていた女子部員たちが、ヒソヒソと耳打ちを始める。
「夫婦っていうかさ」
「オカンか?」
七音はわずかに眉間に皺を寄せ、聞こえないふりをして手を動かした。
窓の外では、朝靄に包まれた湖が静かに凪いでいた。
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