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◇小品 校舎裏の放物線
連日、最高気温を更新し続ける夏休み後半。
弦楽部の練習室には冷房設備などない。窓を全開にしても、入ってくるのは茹だるような熱風だけだった。
七音はチェロを構え、湿った空気に重い低音を響かせていた。
周囲では部員たちが思い思いに音を出している。ヴィオラの基礎練習、誰かがさらっているポップスの小洒落たフレーズ、遠くで鳴るチューニングのA。
雑多な音がごちゃ混ぜになり、思考の輪郭をぼやけさせる。
(……集中できない)
楽譜に目を落とし、チャイコフスキーの難所に挑む。弓を置く。弦を噛む。だが、どうしても指先が鍵盤の上を滑るような違和感が拭えない。
(違うな。何かが、決定的に……)
その時、練習室の扉が勢いよく開いた。
現れたのは暁輝だった。手には、場違いな白い球体を握っている。
「なお」
「はい?」
七音が弓を止めると、暁輝は問答無用でその球を放り投げた。反射的に受け止める。掌に伝わったのは、硬い革の感触。
それは野球の球だった。
「行くぞ」
「え、ちょっと待ってください。まだ練習中」
「煮詰まってんだろ。音が決まってない」
図星だった。七音は言葉を飲み込む。
「体動かした方がいい。それ以上やっても時間の無駄」
「いや、俺は文化系なんですけど」
「俺が投げたいんだから、早く来て」
有無を言わせぬ調子で背中を向けられ、七音は呆然としながらもチェロを床に置いた。結局、この人のペースに巻き込まれる運命なのだ。
◇
旧校舎の裏手、日陰のない空き地。
狂ったように鳴き続ける蝉の声が、熱気をさらに増幅させていた。
暁輝はどこからか調達してきた、くたくたに使い込まれたグローブを左手にはめている。
「それ、どこから持ってきたんですか」
「その辺に落ちてた」
「……そうですか」
七音はそれ以上追及するのをやめた。
暁輝が、右腕をしなやかに振る。
「ほら、いくぞ」
放たれた白球が、鋭い唸りを上げて手元に届く。七音は慌ててグローブ――の代わりの素手で受けようとしたが、あまりの速さに掠めるのが精一杯だった。
「先輩、こっちも経験者ですか?」
「小学校のとき、少し。音楽に集中したくてやめたけど」
暁輝は軽く肩を回し、返ってきたボールを再び握り直す。
「体動かすのは今でも好きでさ。演奏で詰まると、無性に投げたくなるんだよ」
七音がボールを投げ返す。
シュッ、と空気を裂く音。
バシッ、と暁輝のグラブが鳴る。
暁輝が投げる。
パシッ。
七音が受ける。
一定のリズム。
乾いた捕球音。
首筋を流れる汗。
楽器を持たない二人の間に、音楽とは別の拍子が刻まれていく。
「なお」
「はい」
暁輝がボールをキャッチしたまま、不敵に笑った。
「さっきのフレーズさ。多分、弓が重すぎるんだよ。ボール投げるみたいに、もっと力を抜いて放り出せ」
七音は目を瞬かせた。
「……戻ったら、一緒にやろう」
「結局、音楽の話じゃないですか」
七音の苦笑に、暁輝は肩をすくめてボールを高く放り上げた。
「そりゃそうだろ。俺たちは演奏家なんだから」
◇
それからというもの、練習室の窓から外を眺める部員たちの間で、奇妙な光景が日常と化した。
「あれ、またやってる」
「男の子は元気だねー」
蝉時雨の中、白球を追いかける二人の影。
次に二人が楽器を手に取るとき、その音色には間違いなく、夏空のような抜けの良さが加わっているのだった。
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