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第一楽章 10小節目 文化祭序曲
合宿の喧騒が遠のいて数週間。
八月下旬の校内は、夏休みの終わりを惜しむような熱気と、目前に迫った文化祭準備に奔走する生徒たちの活気に満ちていた。
廊下には描きかけのポスターが立てかけられ、ペンキと木材の匂いが入り混じった独特の香りが漂っている。
「弦楽部、今年も体育館ステージやるって」
「八神先輩、絶対出るよね。最前取らなきゃ!」
すれ違う女子生徒たちの浮足立った声が、七音の耳をかすめていく。
(……文化祭、か)
世間の浮かれモードとは裏腹に、弦楽部の練習メニューは過酷さを増していた。
定期演奏会のメインディッシュに加え、文化祭用のポップス・プログラム。練習室では連日、湿り気を帯びた弦の音が重なり合っている。
暁輝のヴァイオリンが閃光のように旋律を切り裂き、七音のチェロがその軌跡を深く、重厚に塗り固めていく。
合宿を経て、二人のアンサンブルは以前とは比較にならないほどの安定感と、どこか危ういほどの親密さを孕み始めていた。
全体練習の合間の休憩時間。部員たちが楽器を置いて伸びをする中、七音は一人、チェロを担いで練習室を抜け出した。
向かったのは、旧校舎の隅にある部室だ。
夏の日差しが斜めに差し込み、静止した空気の中で埃の粒子が細かく踊っている。七音は部屋の隅に置かれた、調律の甘いアップライトピアノの前に座った。
鍵盤を、指先で探るように押さえる。
低いマイナーコード。その上に重なる、性急でいてどこか哀切な旋律。
それは、七音が人知れず書き溜めていたノートの一節だった。ロックの骨太なコード進行をベースにしながら、旋律の動きはあからさまに「弦」の跳躍を意識している。
何度か同じフレーズを繰り返し、七音は指を止めた。
「……やっぱり、ここが違うな」
納得がいかず、もう一度テンポを上げて弾き直そうとした、その時。
「それ、いいな」
背後から不意に投げかけられた声に、七音の肩が大きく跳ねた。
振り返ると、開いたドアの枠に背を預けた暁輝が、面白そうに目を細めて立っていた。
「……いつから」
「サビに入ったあたりから」
七音は弾かれたように鍵盤から手を離し、蓋を閉めようとした。
「忘れてください」
だが、暁輝はそれを制するように歩み寄り、ピアノのすぐ横に立った。
「今の曲、なおが作ったの?」
七音は気まずそうに視線を逸らす。
「……まあ。趣味です」
「ロック?」
「そんな感じです。チェロだと、うまく表現できなくて」
暁輝は鍵盤の一音を人差し指で弾き、静かに言った。
「もう一回、最初から弾いて」
「嫌ですよ。まだ未完成だし」
「途中でもいいから」
有無を言わせぬ圧に押され、七音は渋々、再び鍵盤に指を置いた。
今度は、より丁寧に。一音一音に込めた意図をなぞるように弾いていく。
部室の静寂を、ピアノの硬質な音が塗り替えていく。弾き終えた後、七音は小さく溜息をついてこぼした。
「……変ですよね、こんなの」
暁輝は応えず、静かにヴァイオリンを肩に乗せた。
「これさ。……ヴァイオリンなら、こうなるだろ」
弓が弦を噛んだ瞬間、部室の空気が一変した。
七音がピアノで叩き出した旋律が、暁輝の手によって鮮やかな色彩を纏い、空間へと解き放たれる。
鋭く、けれど泣き出しそうなほど繊細なヴィブラート。
ピアノでは表現しきれなかった音と音の間の「溜め」が、暁輝の呼吸によって完璧な音楽へと昇華されていた。
自分の頭の中で鳴っていた音が、目の前の男によって「正解」を提示されている。
演奏を終え、暁輝は満足げに口角を上げた。
「ほらな。いい曲だよ」
七音は呆然と立ち尽くし、残響が消えた空間を見つめていた。自分の曲が、暁輝の音によって別の命を吹き込まれた事実に、胸の奥が熱くなる。
暁輝は何かを企むような目で七音を射抜いた。
「なあ、文化祭でさ」
「……はい」
「これ、アンサンブルでやろう」
七音が顔を上げる。
「え? でも、プログラムはもう決まってるし」
「ラストの『情熱大陸』を、なおの曲に替える」
情熱大陸は、毎年の文化祭ステージで一番盛り上がるナンバーだ。それを七音の曲に替えるなんて、正気の沙汰ではない。
暁輝は不敵に笑い、七音の肩を強く叩いた。
「俺が弾くんだから、誰も文句は言わない」
七音は完全に固まった。
窓の外では、夏の終わりを告げる蝉の声が、激しく、遠く響いていた。
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