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第一楽章 11小節目 嫉妬の旋律

 旧校舎の部室。窓から差し込む夕方の光が、床に長い影を落としていた。  譜面台の上には、七音が人知れず綴ってきたノートが広げられている。そこにあるのは、未完成のメロディと、試行錯誤の跡である書き込みの山だ。 「ここ」  暁輝がヴァイオリンを構え、弦の上で弓を躍らせる。 「このフレーズ」 「はい」 「弦だと、こうした方がいい」  暁輝はもう一度、同じ箇所を弾いた。旋律の最後を、目に見えない余韻を慈しむように、ほんの少しだけ長く引き延ばす。  七音がそれに合わせてピアノの和音を添えると、空間の密度が劇的に変化した。 「……あ」  音がきれいに重なった。  暁輝が満足げに口角を上げた。 「な?」  七音も思わず、頬を緩める。 「ちょっと悔しいです」 「なんで」 「先輩の方が分かってる」  暁輝は無造作に肩をすくめ、愛用の楽器を軽く鳴らした。 「なおの曲だから」  七音は再びノートに目を落とす。  自分の書いたメロディ。根底にあるのはロックのコード進行だ。けれど、こうして弦の響きが加わると、音楽が全く別の呼吸を始める。  音が伸びる。そこに、確かな命の拍動が生まれる。 「ヴィオラはここで和音ですね」 「うん。主旋律を包み込む感じ」 「チェロは……」  七音は少し考え、ピアノの低音を叩いた。地を這うようなリズム。  暁輝が短く頷く。 「それ。そのドライブ感を保って」  七音は夢中で五線譜に音を書き加えていく。バラバラだった断片が、一つの「曲」として形を成していく高揚感。  その心地よい熱を一喝するように、背後で扉が開いた。 「失礼しまーす」  静寂を破る、軽い声だった。  振り返ると、そこにはエレキギターを肩に掛けた軽音楽部の男子生徒が立っていた。 「弦楽部だよね」  暁輝がわずかに顎を引き、軽く手を上げた。 「どうも」  男子生徒の視線が、ピアノの前に座る七音へと向けられる。 「さっき廊下で聞こえたんだけどさ、その曲」 「え?」 「オリジナル?」  七音は唐突な闖入者に、戸惑いを隠せない。 「……まあ」  男子は親しげに笑った。 「めちゃくちゃいいじゃん」  彼は一歩、室内へ身を乗り出す。 「それさ、バンドでやらせてくれない?」 「え?」 「ライブ向きだと思うんだよ」  七音は返答に窮した。 「いや……弦楽のアンサンブル用に作ってるし」 「アレンジすればいけるって」  強引な誘いに七音が気圧されそうになった、その時。  暁輝が、横から冷徹なトーンで言葉を挟んだ。 「だめだよ」  男子が反射的に振り返る。暁輝はヴァイオリンを構えたまま、静かだが拒絶の滲む声で告げた。 「これは弦楽(ストリングス)の曲だから」 「いや、でもさ」 「ヴァイオリン、いないでしょ」  男子は言葉を失い、一瞬の沈黙が落ちる。  暁輝はそこで、勝ち誇ったようにも見える薄い笑みを浮かべた。 「この曲は、ヴァイオリンが踊る曲なんだよ」  威圧感に気圧されたのか、男子は肩をすくめて後退りした。 「まあ、そうか」  彼は最後に七音を見据える。 「気が変わったら言って」  そのまま、ひらひらと手を振って部室を去っていった。  扉が閉まり、部屋に再び夕暮れの静寂が戻る。 「……なんで、あんな言い方」 「別に」 「普通に断れば」  七音の非難めいた視線を受け流し、暁輝は再び弓を構えた。そして、先ほどよりもいっそう熱を帯びた音で、七音のメロディを奏で始める。  暁輝は、感情の読めない瞳で七音を見つめた。 「これは俺が弾くし」  七音は言い返せず、唇を噛む。  暁輝は傲慢なまでに言い切った。 「その方がいいよ」 「……」  暁輝は少し笑った。 「エレキギターより、いい音出せる」  七音は、その大人げない独占欲に思わず苦笑した。 「張り合ってるんですか」  暁輝は事もなげに肩をすくめる。 「当たり前だろ」  そして、再び弓を高く上げた。 「ほら、続き」  七音は促されるまま、ピアノに指を置いた。  再び音が重なり、旋律が夕闇の中に溶けていく。  この人は、本当に音楽のことしか考えていない。あるいは、この曲を誰にも渡したくないという執着を、音楽という形を借りてぶつけているだけなのかもしれない。  けれど、その音が放つ確かな熱に、七音の胸は少しだけ、温かくなっていた。  

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