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◇小品 マイフェイバリットシングス
夏休みが明けたばかりの九月。
カレンダーの上では秋でも、校庭から照り返す熱気は依然として猛威を振るっていた。
七音は体育館脇の自動販売機で水を購入し、冷えたペットボトルを頬に当てて火照りを鎮めた。
キャップを開けて一口飲んだ、その時。
開け放たれた体育館の重い扉の奥から、聞き慣れた高揚感のある声が響いた。
(……先輩?)
導かれるように入り口の影から中を覗き込むと、そこでは男子生徒たちが激しくバスケットボールのミニゲームを繰り広げていた。
その中心に、暁輝がいた。
制服の白シャツの袖を肘まで捲り上げ、滴る汗も拭わずにコートを縦横無尽に駆け回っている。
声を上げながらボールをレシーブし、鮮やかなドリブルでディフェンスを抜き去る。流れるような踏み込みからジャンプ一番、放たれたボールは綺麗な放物線を描いてリングに吸い込まれた。
体育館がわっと沸き立ち、仲間たちが暁輝の肩を叩いて奔放に笑い合う。
七音はその光景を、息を詰めて見つめていた。
(……あんな顔もするんだ)
楽器を構えている時の、触れれば切れるような鋭利な空気も、夜のラウンジで見せた静かな色気もない。
そこにあるのは、ただひたすらに今を愉しむ、どこにでもいる高校生の少年の顔だった。
ふいに、暁輝が顔を上げた。
影に潜んでいた七音と真っ向から目が合う。
「……あ」
逃げ遅れた七音を認めると、暁輝は軽く手を挙げ、仲間との輪を抜けてこちらへ歩み寄ってきた。
「見てたんだ?」
「……たまたま通りかかっただけです」
「ふーん。さっきの、格好よかったっしょ」
暁輝がいたずらっぽく笑う。
実際、文句のつけようがないほど格好よかった。だが、それを素直に認めるのは敗北に近い気がして、七音は視線を逸らした。
「……普通です」
「えー、手厳しいな」
そこへ、先ほどまで一緒にプレイしていた男子たちが冷やかし半分に近づいてきた。
「暁輝さん、それ誰。後輩?」
「髪、茶色。かっこいー」
物珍しげに見る視線に、七音が居心地悪そうに肩を縮こめる。すると、男子の一人がニヤリと口角を上げた。
「ああ、わかった。例の?」
「暁輝さんがご執心の後輩くんか」
七音の思考が一時停止する。
「……は?」
対照的に、暁輝は全く動じる風もなく、むしろ愉快そうに七音の肩を抱き寄せた。
「そーそー。こいつ、本当に『良い』んだよ」
当たり前のような口ぶりに、周囲がドッと沸く。
「お前、またそれ言ってる。どんだけ好きなんだよ」
「だから、音楽の話だって言ってるだろ!」
笑いながら応じる暁輝の横で、七音は顔をしかめた。
「先輩……変に誤解されますから、やめてください」
「いいじゃん、別に。事実だし」
暁輝は平然としたまま、七音の手元にあるペットボトルを指差した。
「それ、ちょっと頂戴」
「あ、先輩、」
制止する間もなく、暁輝はボトルをひょいと奪い取った。そのままキャップを開け、頭を仰向かせて豪快に喉を鳴らす。
上下する喉仏、首筋に光る汗の珠。濡れたシャツの襟元から覗く鎖骨のライン。
七音は、目の前の男からなぜか目を逸らすことができなかった。
暁輝が残りの水を飲み干し、ふう、と短く息を吐いてボトルを返してくる。
「ありがと。……なあ、今日の放課後」
「はい」
「『地上の星』、合わせようぜ」
文化祭や定期演奏会で披露するポップス曲の練習だ。暁輝の瞳から少年の遊び心が消え、一瞬で演奏者のそれへと変貌する。
「面白いアレンジ思いついたんだ。ヴァイオリンのソロ、もっと派手にできる」
不敵に上がる口角。
七音はそれを見て、心臓の鼓動が少しだけ速くなるのを感じた。
(……やっぱり、こっちの顔の方が)
バスケをしている姿よりも、今の彼の方が、ずっと「八神暁輝」らしい。
そして、自分はそれを、ほんの少しだけ好ましく思っているのだ。
予鈴のチャイムが廊下に響き渡る。
「なお」
「はい」
「放課後、遅れるなよ」
暁輝はもう、音楽室のある旧校舎の方へと歩き出していた。
七音は自分の体温で少しぬるくなったペットボトルを握り直し、その広い背中を追って駆け出した。
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