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◇小品 やさしい指先

 文化祭前日。弦楽部は体育館のステージに立っていた。  本番と寸分違わぬ配置。客席を埋めるはずの生徒たちの姿はまだなく、無機質なパイプ椅子だけが整然と並んでいる。  体育館という空間は、思っていた数倍広い。  七音がチェロを構え、そっと弓を置くと、弦の震えが遠くの壁まで飛んでいき、わずかな時差を伴う反響となって戻ってきた。練習室とは決定的に違う「音の距離」に、七音の指先がかすかに強張る。  コンマスの位置に座る暁輝が、ヴァイオリンを肩に乗せた。彼は広い空間に気圧される様子もなく、いつも通り不敵な面持ちで弓を高く上げる。  一瞬の吸気。それが、すべての楽器を縛る合図だった。  モーツァルトの快活な旋律が、体育館の隅々まで解き放たれる。  七音は、広大な空間に音が埋もれてしまわないよう、無意識に右手の指先に力を込めた。いつもより深く、強く、弓を弦に食い込ませる。  その瞬間。    ――パンッ  乾いた破裂音が、合奏の渦を切り裂いた。  七音の手が止まる。 (……え)  チェロを見下ろすと、最も高い音を担うA線が無残に跳ねていた。切れた金属の糸が、弓の毛にだらしなく絡みついている。  頭が真っ白になった。音楽は無情にも進み続け、周囲の音が耳元を通り過ぎていく。どうすればいいのか分からず、七音はその場に凍りついた。  不意に、前方から強い視線を感じた。  暁輝だった。彼はヴァイオリンを完璧に操りながら、首をわずかに傾けて七音を真っ向から見据えていた。  目が合う。暁輝は、焦る七音をなだめるように口角をわずかに上げ、声に出さずに囁いた。 (大丈夫)  暁輝の弓の動きが、ほんの少しだけ大きくなる。合奏全体のテンポが微かに広がり、音楽がゆったりとした呼吸を取り戻した。  七音は深く息を吸い込み、残された三本の弦に再び弓を置いた。  旋律は弾けない。けれど、低音のリズムを、和音の根音を、魂を込めて刻みつける。  音楽は止まらなかった。  最後の和音が体育館の天井へ溶けて消えると、七音は深く弓を下ろした。  暁輝が楽器を膝に置き、こちらを振り返る。 「弦、切れたな」 「……すみません。力みすぎました」  七音が苦笑すると、暁輝は軽く肩をすくめた。 「まあ、たまにあるよ。本番じゃなくてよかった」  そして、彼は少しだけ声を和らげて続けた。 「でも、よく戻ってきた。途中、止まるかと思ったけど……止まるわけないか。なおなんだから」  暁輝はヴァイオリンを肩にかけ直し、前を向く。  その信頼の重さに、七音は切れた弦を握りしめたまま、一瞬だけ言葉を失った。    ◇  リハーサルを終え、一行は旧校舎の練習室へと戻ってきた。  窓からは燃えるような橙色の夕光が差し込み、楽器のニスを艶やかに照らしている。  七音はチェロケースを開き、無残な姿になったA線を見て溜息を漏らした。 「やっちゃいました」 「見せて」  いつの間にか隣に立っていた暁輝が、七音の手から楽器をひょいと借り受けた。 「あー……見事にいったな」  暁輝はチェロを少し傾け、指先で駒のあたりを調べる。 「すみません、手間取らせて」 「いいよ。弦、予備ある?」  七音がケースのポケットから新しい弦の袋を取り出すと、暁輝は迷いのない手つきで封を切った。 「なお、弦の交換やったことある?」 「いえ、まだないです」 「だと思った。俺がやるから見てて」  暁輝はペグをゆっくりと緩め、古くなった弦を外した。金属が擦れる小さな音。新しい弦をテールピースに通し、ペグの穴に丁寧に巻きつけていく。  その指先の動きは、驚くほど正確で、かつ流麗だった。 (早いな……)  普段は自由奔放で、どこか大雑把な印象すらある暁輝だが、楽器を扱う時の指先は、まるで壊れ物を扱うような繊細な慈しみに満ちている。 「弦ってのはさ」  暁輝がペグを回しながら、独り言のように呟いた。 「張りたてはちょっと気難しいんだよ。馴染むまで、俺たちが機嫌をとってやらないといけない」  彼は弦を指で弾き、慎重にピッチを上げていく。音程を確かめる彼の横顔は、真剣そのものだった。 「よし……これでいい」  暁輝は七音の弓を取り、新しく張られたA線を一息に弾いた。  チェロが、誇らしげな声を上げた。張りたて特有の、明るく、澄んだ金属の響き。 「弾いてみて」  弓を返され、七音は椅子に深く腰掛けた。弦に弓を置き、ゆっくりと引く。 「あ……」  指先に伝わる抵抗感が、以前よりもずっと素直に感じられた。 「うん、いい音。新しい弦だからな」  暁輝が満足そうに笑う。 「文化祭、これで大丈夫。最高の音で弾けよ」 「……先輩。ありがとうございます」 「いいって。なおがいい音出せれば、それで」  暁輝はすでに自分のヴァイオリンを構えていた。 「少し合わせようか」  七音は小さく笑い、頷いた。 「はい」  夕闇の迫る部室で、二人の音が重なり合う。  新しく張られたばかりの弦が、暁輝の旋律を真っ直ぐに追いかけていった。    

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