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第一楽章 12小節目 初演

 校内は、文化祭特有の浮き足立った熱気に支配されていた。  模擬店から漂う香ばしいソースの匂い、廊下を駆け抜ける生徒たちの瑞々しい笑い声。遠くの教室からは、軽音部が掻き鳴らすエレキギターの歪んだ音が地鳴りのように響いてくる。  体育館のステージ袖。薄暗い空間で、弦楽部の面々はそれぞれ楽器の最終調整に余念がなかった。七音はチェロの弦を指先ではじき、ピッチを確かめる。  低い音。いつもと同じ振動のはずなのに、今日ばかりは指先に伝わる緊張の深度が違った。 (……弾くんだよな。本当に)  自分が独り言のように綴ったあの旋律を。弦楽アンサンブルという形に変えて。  暁輝が音もなく横に並んだ。ヴァイオリンを既に肩に乗せ、検分するように七音を見つめる。 「緊張してる?」 「……ちょっと」  暁輝は、緊張をほぐすように小さく笑った。 「なおの曲なのに?」 「だからですよ」  自分の内側を、詳らかに晒すようなものだ。緊張しないわけがない。  暁輝が弓を軽く鳴らす。澄んだ、迷いのない音が短く鼓膜を叩いた。 「大丈夫」 「なんでですか」  暁輝は、あまりにも当たり前だと言いたげに言い切った。 「いい曲だから」  その時、司会の華やかな声がスピーカーを通じて体育館に鳴り響いた。 「続いては、本校弦楽部による演奏です。どうぞ!」  割れんばかりの拍手に迎えられ、部員たちは眩い照明の下へと足を踏み出した。  ステージの上は、驚くほど明るい。客席を見渡せば、パイプ椅子を埋め尽くす生徒たち、ビデオカメラを構える保護者、そして他校の制服。  七音は指定の位置に腰を下ろし、チェロの深胴を両膝で抱え込んだ。  暁輝が弓を上げる。一瞬の吸気。  それが、すべての音を解き放つ合図だった。  幕開けはモーツァルト。  快活で煌びやかな古典の旋律が、体育館の広い空間を埋めていく。  続いて組曲、さらに誰もが知る人気のポップス。一曲終わるごとに、客席の熱量は確実に上がっていった。  そして。  最後の曲を前に、暁輝がマイクを手に取った。 「最後にもう一曲」  ざわついていた客席が、水を打ったように静まり返る。  暁輝は不敵に、けれど誇らしげに口角を上げた。 「うちの部員が作った曲です」  七音の心臓が、肋骨を叩くほど激しく跳ねた。客席から「オリジナル?」「マジかよ」と小さな驚きが広がる。  暁輝が振り返り、ほんの一瞬、七音と視線を交差させた。    暁輝が弓を振り下ろす。  始まりは、チェロだった。七音が刻む、重く、焦燥感に満ちたリズム。その低音の土壌の上に、ヴァイオリンが舞い降りる。  暁輝の旋律。七音が産み落としたメロディ。    けれど、それは七音が自分一人で弾いていたものとは、似て非なるものだった。  暁輝の音。弦の摩擦が産む、剥き出しの情熱。 (……あ)  七音は弾きながら、目眩にも似た感覚に襲われる。 (俺の曲だ。でも……俺の曲じゃない)  暁輝の弓が大きくしなり、旋律が天を突くように高く持ち上がる。それを分厚く包み込むヴィオラの和音、色彩を添える2ndヴァイオリン。  個別の音が、巨大な一つの意志となってうねりを上げる。  客席は、静寂に沈んでいた。  冷やかしや興味本位の視線は消え、誰もがその「初めて聴く音」に、魂を奪われたように聴き入っている。  七音はチェロの振動を全身で浴びながら、震えるような確信を抱いていた。 (こんな音になるんだ……)  自分で書いたはずの旋律を、まるで初めて出会う奇跡のように、彼は聴いていた。  曲が終わる。  渾身のラストコード。弓が止まり、音が消える。  一瞬の、真空のような静寂。  直後、雷鳴のような拍手が体育館を揺らした。 「すご……!」 「今の曲、かっこよすぎない?」  七音は、痺れた指先を握りしめたまま動けなかった。暁輝がこちらをちらりと振り向き、満足げに、そして優しく笑った。  ステージを降り、舞台袖の静まり返った場所まで戻ってきた時。  七音は、隣を歩く先輩の背中に声を掛けた。 「先輩」 「ん?」 「……ありがとうございます」  暁輝は足を止め、少しだけ驚いたような顔をしてから、柔らかな笑みを湛えた。 「お前さ」 「はい」 「音楽やめなくてよかったな」  七音は視線を落とし、小さく息を吐いた。 「……先輩のせいですよ」    暁輝は一瞬、虚を突かれたような顔をした。けれどすぐに、今日一番の明るい笑い声を上げた。    体育館の外では、まだ文化祭の賑やかな音が響いている。  けれど、二人の耳の奥では、たった今終わったばかりの、あの青い旋律がいつまでも鳴り止まなかった。

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