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第一楽章 13小節目 奪られる音
文化祭が幕を閉じた後、校内の空気は目に見えて変質していた。
廊下を歩けば、向こうからやってくる生徒たちの会話に、否応なしに「あの曲」の断片が混じり込んでくる。
「文化祭の弦楽部の演奏聴いた?」
「めっちゃ良かったよね。鳥肌立った」
「最後の曲オリジナルなんだって。一年生の子が書いたらしいよ」
七音は、自分に向けられる熱を帯びた視線に居心地の悪さを感じ、わずかに肩を丸めて歩いた。
(……広まってる)
自分の内側にだけ秘めていた音が、知らない誰かの所有物のように無遠慮に消費されていく。その事実に、胃のあたりがチリチリと小さく疼いた。
昼休み。中庭の隅にあるベンチで、静かに昼食を広げようとしたその時だった。
「朝波くん!」
頭上から降ってきた鋭い声に顔を上げると、校舎の二階の窓から、ギターケースを背負った軽音楽部の男子生徒が身を乗り出して手を振っていた。
「この間の曲!」
「え?」
男子生徒はそのまま階段を駆け下りてきたのか、息を切らせて七音の目の前に立ち塞がった。
「やっぱ良いよ、あれ。ライブでやらせて!」
七音は動かそうとした箸を止めた。
「ライブ?」
「来月、軽音の校内ライブあるんだよ」
男子は興奮を隠しきれない様子で身を乗り出す。
「ギターソロ入れてさ。絶対盛り上がるよ」
七音は困惑し、眉を下げた。
「だから、あれは弦楽用に作った曲で……」
「アレンジしたら絶対映えるって!」
男子は空中でギターを弾くような身振りを加える。
「ロック向きだよ、あのコード進行。重いベースに唸るギター。想像するだけでサイコーじゃん」
七音は少し黙り込んだ。歪 んだ大音量で掻き鳴らされる自分の旋律を想像する。かつて耳にした、父親のギターの熱い残響がふと脳裏を掠める。
その時、横から別の、凛とした声が割り込んだ。
「ちょっと」
振り返ると、そこにはクラスメイトが立っていた。吹奏楽部の女子生徒だ。
「朝波くんの曲さ、」
「……はい?」
「うちでも、編曲して演奏していい?」
彼女もまた、真剣な眼差しを向けてくる。
「クリスマスの演奏会でやりたいの」
立て続けの打診に、七音は完全に固まった。
「え……」
「ほら、人気じゃん」
軽音部の男子が囃し立てる。七音は困り果てて、落ち着かなく視線を彷徨わせた。
「いや、でも未完成の曲だし……」
その時背後から、低く、冷ややかな声が鼓膜を刺した。
「なお」
心臓が跳ねる。暁輝だった。
彼は柱の影からゆっくりと姿を現し、三人の間に流れる空気を検分するように目を細めた。その瞳は完全に温度を失っている。
「なに」
軽音部の男子が、臆することなく応じる。
「例の曲、バンドでやろうと思って」
吹奏楽部の女子も、負けじと言葉を添えた。
「うちも演奏したくて」
暁輝は一瞬だけ沈黙した。
それから一歩、七音のパーソナルスペースを侵すように近づくと、ベンチに置かれていた作曲ノートを無造作に手に取った。
五線譜に記された、二人きりで磨き上げてきたメロディ。暁輝はそれを見つめ、静かに、ひどく淡々とした声で言った。
「別に、いいんじゃない」
先日とは打って変わって、冷ややかに肯定する言葉。聞いていた男子生徒が「ほら」と目を輝かせる。
けれど、七音は頭から血の気が引くのを感じていた。耳の奥がごうごうと鳴る。目の前の男が、自分たちの聖域をあっさりと手放したような気がして、口を開いて出たのは縋るような声だった。
「先輩……」
中庭のざわめきが、そこだけ真空になったように消え去る。
暁輝はノートから目を離し、七音を真っ向から見据えた。氷のような、けれど奥底で濁った熱が燃えているような瞳。
「誰が演 ろうが、どうでもいいけど。……なお」
「はい」
「お前は、誰に弾かせたいの」
七音は喉を詰まらせた。暁輝の射すような瞳から、どうしても視線を逸らすことができない。
ただならぬ不穏な空気を察した軽音部の男子が、白旗を上げるように肩をすくめた。
「まあ、作者の自由だよな」
吹奏楽部の女子も、苦笑いして引き下がる。
「話がまとまったら教えて。……じゃあね」
二人は逃げるように、足早に校舎の中へと戻っていった。
昼休みの喧騒が戻ってくる中、七音はベンチに座ったまま、目の前に立ち塞がる男を見上げた。
暁輝はノートを七音の胸元に突き返すと、硬い声で短く言った。
「弾くぞ」
放課後。旧校舎三階、西日が差し込む廊下の奥。
七音はチェロを構え、暁輝はヴァイオリンを肩に乗せた。
「頭から」
弓が上がる。
奏でられるのは、耳に馴染んだはずのあの旋律。けれど、今日の暁輝の音は明らかに異質だった。弓の圧が異常に強い。音が容赦のない礫のように、まっすぐ胸へと飛んでくる。
旋律は鋭く、剥き出しの感情を伴って七音のチェロを追い詰め、その上に強引にのしかかっていく。
(……怒ってる)
七音は、呼吸を合わせるだけで精一杯だった。追従するチェロの音まで、暁輝の熱に侵食されていく。
フレーズが終わり、重く引き摺るような余韻の中で曲が止まる。
七音は、恐る恐る口を開いた。
「先輩」
「なに」
「……怒ってますか?」
暁輝は少しの沈黙の後、吐き捨てるように言った。
「怒ってない」
「嘘です。怒ってます」
即座に言い返すと、暁輝は視線を楽譜へと落とした。
そして、胸の奥を掻き毟るような静かな、けれど断固とした声で言った。
「この曲はさ」
「はい」
「俺が見つけたんだ」
七音は、喉の奥で息を止めた。
暁輝はヴァイオリンを下ろし、逃れられない呪いをかけるように、一音一音を刻みつけるように言葉を続けた。
「だから、俺が弾く」
廊下の窓から、燃えるような夕方の光が差し込んでいた。
七音はチェロを抱えたまま、暁輝の頑なな背中を見つめていた。
誰にも渡したくないという、傲慢で純粋な執着。それが、自分の作った音に向けられている。
世界で一番綺麗な檻に閉じ込められるような恐怖と、それに伴う暗い喜びが、胸の奥に静かに、重く落ちていくのを感じていた。
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