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第一楽章 14小節目 行く先のメヌエット
熱狂が渦巻いた文化祭が幕を閉じて一週間。
放課後の練習室を支配していたのは、祭りのあとの虚脱感を含んだ、どこか頼りない静寂だった。大きな目標を一つ越えた部活動は、張り詰めていた糸が緩むように、穏やかな停滞期に入っている。
七音は、愛用のチェロをゆっくりとケースに収めた。
無意識に左手の指先を右手の腹で押さえる。硬くなった指先には、まだあのステージで掻き鳴らした自作曲の、痺れるような弦の振動がこびりついている気がした。
「なお」
背後から名を呼ばれ、振り返る。
暁輝が、使い込まれたヴァイオリンケースを無造作に肩に掛けて立っていた。
「帰る?」
「はい」
連れ立って校舎を出ると、九月の夕方の空気は、いつの間にか肌を刺すような冷たさを孕み始めていた。校門の脇には、剥がし忘れた文化祭の装飾が力なく風に揺れている。
駅へと続く坂道を歩きながら、暁輝がふと思い出したように口を開いた。
「文化祭さ。楽しかったなあ」
七音は、その意外なほど素直な言葉に笑みをこぼした。
「先輩、めちゃくちゃ目立ってましたよ」
「そう?」
「そりゃもう。女子の歓声、凄かったですし」
暁輝は、特に自慢する風もなく、どこか遠くを見る目で笑った。
「まあ、慣れたよ」
それから、しばらくの間、二人の間に心地よい沈黙が流れた。
乾いた靴音だけが響く中、暁輝が歩調を緩めることなく、唐突に問いを投げた。
「そういえばさ、進路調査出た?」
七音は、その「現実」を突きつける言葉に微かに肩を揺らした。
「ああ、ありましたね」
「なおは何書くの」
七音は少し考え、曖昧に言葉を濁した。
「まだ何も決めてないです。白紙に近いですよ」
暁輝は小さく頷き、視線を真っ直ぐ前へ向けた。
「そっか」
「先輩は?もう決まってるんですか」
暁輝は迷いなく、あっさりと答えた。
「第一志望は国立かな」
七音は少し驚き、歩みを止めた。
「理系ですか?」
「うん」
七音は、喉元まで出かかった問いを、少し迷ってから口にした。
「音大じゃないんですね」
暁輝は不思議そうに首を少しかしげた。
「なんで?」
「だって、先輩。……ヴァイオリン、あんなに凄いのに」
自分を強引に音楽の世界へ引き戻し、あんなにも雄弁に「俺の音を選べ」と言い放った男が、音楽以外の道を選ぶ。
それが七音には、少しだけ寂しく、そして意外だった。
暁輝は、教え子を諭すような柔らかな笑みを浮かべた。
「音楽はやるよ、ずっと。当たり前じゃん」
その口調はあまりに軽く、確信に満ちていた。
「でもさ、別に大学で専門的にやらなくたっていい。俺は、どこへ行っても弾くし。どこにいたって音楽を捨てる気はないから」
七音は、暁輝の背中を見つめながら考えた。
この人にとって、ヴァイオリンを弾くという行為は、特別な「将来の選択」ではないのだ。食事をし、眠り、呼吸をする。それと同じ次元で、音楽が血肉となって存在している。
暁輝がふと、こちらを振り返った。
「なおは?」
「え?」
「進路、ちゃんと考えてる?」
七音は、自嘲気味に少しだけ笑った。
「いや、俺は……」
言葉が、途切れる。
今まで、自分の「その先」を具体的に想像したことなど一度もなかった。
音楽は、好きだ。
最近では作曲という表現に、かつてないほどのやりがいを感じているのも事実だ。
けれど、それを自分の「将来」という重い天秤に乗せる勇気は、まだ持ち合わせていない。
七音はゆっくりと、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「……今はまだ、わからないです」
暁輝は、突き放すでもなく、励ますでもなく、ただ淡々と言った。
「まあ、まだ一年生だしな」
七音は、小さく頷いた。
けれど、その胸の奥には、さっきまで無かったはずの小さな灯がともっていた。
「音楽」と「将来」。
対極にあると思っていた二つの言葉が、初めて同じ地平に並んだ気がした。
七音が空を見上げると、燃えるような夕焼けが、空を深い茜色に染め上げていた。
胸の奥に残る、まだ言葉にならない感覚。
それは、いつか形を成すのを待っている、名前のない旋律のようだった。
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