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第一楽章 15小節目 遠くにある音
文化祭の喧騒が完全に過去のものとなり、校内はようやく平熱の日常を取り戻していた。
廊下を吹き抜ける風は日を追うごとに鋭さを増しているが、窓越しに差し込む日差しには、まだ秋の名残のような柔らかさが微かに混じっている。
部活へ向かう道すがら、七音と暁輝は手持ち無沙汰に廊下を歩いていた。
「今日は寒いですね」
七音が首をすくめて言うと、暁輝は学ランのポケットに両手を突っ込んだまま、億劫そうに振り返った。
「まあ、冬だしな」
しばらく無言のまま数歩進んだところで、暁輝が唐突に脈絡のない話を始めた。
「カツサンドってさ、分厚いカツよりも、一周回って薄いカツの方がうまいよな」
七音は、あまりの飛躍ぶりに少しだけ首をかしげた。
「……へえ」
「わかるだろ?」
「わかんないです。厚い方が贅沢じゃないですか」
暁輝は心外だと言わんばかりに、納得のいかない顔をした。
「分かってねえな。絶対そうだって。衣のサクサク感とパンとのバランスだよ」
「それ、どこ情報ですか」
「俺」
断定する先輩のあまりの自信に、七音は思わず小さく吹き出した。
その時、背後から切羽詰まったような声がした。
「朝波!」
振り向くと、同じクラスの男子が肩を上下させながら小走りで近づいてくる。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「……何?」
彼は周囲を気にするように声を潜め、興奮を隠しきれない様子で目を輝かせた。
「朝波のお父さんってさ、あの“EMBER ”のギタリストのアサケンってマジ?」
七音の心臓が、一瞬だけ不規則なリズムを刻んだ。
「……なんで知ってんの?」
「いや、誰かが話してるの聞こえちゃってさ」
男子生徒は確信を得たように身を乗り出した。
「俺、マジでファンなんだよ。アサケン!日本のロックシーンの宝だろ」
七音は、頬の筋肉をどう動かせばいいか分からず、困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
「……そうなんだ」
「家ではどんな感じなの? やっぱギター弾きまくってんの?」
その問いに、七音は一瞬、視線を彷徨わせた。それから、遠くへ続く廊下の先を見つめたまま、静かに答える。
「……あんまり帰ってこないから。正直、よく分からない」
男子生徒は「あ」と口を開き、慌てて両手を振った。
「あ、悪い! 急に変なこと聞いて。プライベートだよな」
「いや、大丈夫」
七音が努めて平淡に返すと、彼はほっとしたように、けれどどこか羨望の混じった声で続けた。
「でもさ。アサケンの息子なら、あの文化祭の曲も納得だよ」
「え?」
「めちゃくちゃ良かったじゃん。あのエモい感じ、やっぱ血筋なんだな」
七音は、返す言葉が見つからなかった。
「いいなー。今度ライブ行くんだよ、EMBERの。超楽しみ」
彼は満足げに頷くと、軽く手を振って雑踏の中へと消えていった。
廊下に、再び冷ややかな静けさが戻る。
二人はしばらく黙ったまま歩き続けていたが、やがて七音が、耐えきれなくなったようにぽつりと口を開いた。
「……聞いてましたよね」
暁輝は、少しだけ苦いものを噛み潰したような顔で苦笑した。
「ごめん。聞いちゃった」
七音は窓の外に目をやる。冬の空は低く、重い雲が音を吸い込むように広がっていた。
「父親、ほとんど家にいないんですよ」
少しずつ、自分の中に溜まっていた澱を吐き出すように、七音は言葉を選びながら続けた。
「ツアーとかレコーディングとかで……たまに帰ってきても、ずっと部屋に籠もってギター弾いてるし」
七音は自嘲気味に、軽く笑った。
「世間じゃ、有名人らしいですけど」
その笑いは、乾いていて、どこか苦かった。
「小さい頃は、父親のことを少しでも知りたくて……音楽、めちゃくちゃやりました」
廊下の床に落ちた、自分と暁輝の影を見つめながら七音は言う。
ピアノ、作曲、音楽理論。父に近づくためのハシゴを必死に組み立てるように、あらゆるものに手を伸ばした。
「でも」
七音は、そこで一度言葉を切った。
「あの人みたいには、全然なれなくて」
小さく吐き出した吐息が、白く濁って消える。
「なんか……俺、ずっと、あの人の背中さえ見えない場所で、巨大な影だけを追いかけてるみたいで」
それ以上、言葉を続ける気力は湧かなかった。
暁輝は何も言わなかった。茶化すことも、安易に励ますこともせず、ただ隣で七音の歩幅に合わせて歩き続けている。
しばらくして、七音は自分の湿っぽい告白を恥じるように、無理やり笑ってみせた。
「変なこと話してすみません。忘れてください」
暁輝は、それには答えなかった。
ただ、ポケットから片手を出して、一瞬だけ七音の肩を強く叩いた。
二人はそのまま並んで歩き続ける。
初冬の冷たい空気が、二人の間に流れる静かな旋律を、どこまでも遠くへ運んでいくようだった。
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