25 / 76
◇小品 和声と方程式
期末テスト直前。
普段なら放課後の校舎に響き渡る弦楽器の音色は影を潜め、弦楽部の練習室は奇妙な静寂に包まれていた。譜面台は隅に追いやられ、代わりに長机の上に広がっているのは、色褪せた教科書と書き込みだらけのノートだ。
七音は数学の問題集と格闘していた。シャープペンシルを動かしては消しゴムで消す、その繰り返し。
もう十分ほど、同じページから景色が変わっていない。
(……ここから、進まない)
公式を当てはめてみたものの、導き出される項は増えるばかりで、一向に答えに近づく気配がなかった。七音は小さく溜息をつき、項垂れる。
その時だった。
「なお」
頭上から降ってきた低い声に、七音は弾かれたように顔を上げた。
いつの間にか暁輝が机の向こう側に座り、七音の手元のノートをじっと覗き込んでいた。
「止まってるじゃん」
「……止まってます」
七音は観念したように、白紙に近い計算スペースを指し示した。
「ここから分からなくて」
暁輝は問題を一瞥し、短く「ああ」と零した。
「それは」
迷いのない動作で七音の手からペンを取り、ノートの余白にさらさらと数式を書き込んでいく。
「ここ」
ペン先が、七音が詰まった箇所を鋭く指した。
「この式、さっき変形しただろ」
「はい」
「そのときの条件、ここにも残ってる」
七音は目を細め、暁輝の流麗な筆跡を追いかけた。
「……あ」
絡まった糸が解けるような感覚。暁輝の手は止まらない。
「だから、ここで消える」
複雑怪奇に見えた式が、魔法のように一行のシンプルな形に整理された。
七音は思わず感嘆の声を漏らした。
「え、そういうこと?」
「そういうこと」
暁輝は事もなげに言い、ペンを返した。
さっきまで鉄壁の要塞のように思えた数式が、今は明確な筋道を持った「楽譜」のように見えてくる。
「すごいですね、先輩」
七音が素直に称賛すると、暁輝は柄にもなく少しだけ照れくさそうに肩をすくめた。
「普通だよ」
「いや、普通じゃないです」
七音は少し笑って付け加えた。
「さすが、理系学年三位」
暁輝はペンを指先で器用に一回転させた。
「まあね」
それから、顎で問題集を指す。
「次、やってみ」
促されるまま、七音は次の大問に挑んだ。
教わった論理を応用し、慎重に式を組み立てていく。だが、中盤で再びペン先が迷った。
暁輝が横から顔を寄せ、ノートを覗き込む。
「そこ。符号、逆」
「あ」
七音は慌てて書き直した。そのまま一気に計算を完遂し、答え合わせのページを捲る。
一致していた。七音の顔に自然と笑みが浮かぶ。
「できた」
暁輝は満足げに頷いた。
「うん」
そして、何気ない調子で言葉を繋いだ。
「なおさ、頭いいよ」
想定外の言葉に、七音は少し驚いて目を丸くした。
「そうですか?」
「うん」
暁輝は机に頬杖をつき、七音の横顔をじっと見つめる。
「音楽わかってるやつって、大体そうじゃない?」
「そうなんですか」
「そうだよ」
暁輝は悪戯っぽく笑った。
再び、シャーペンの芯が紙を削る音だけが響く沈黙が訪れる。
七音が集中して次の問題に取り掛かろうとした、その時。
暁輝の髪から香る微かなシャンプーの匂いが、鼻先をかすめた。
「……先輩」
「ん?」
「近いです」
暁輝は、七音の肩越しにノートを食い入るように覗き込んでいた。その距離は、吐息が触れそうなほどに詰まっている。
「そう?」
「めちゃくちゃ近いよ」
動揺のあまり、思わず敬語が抜けた。
暁輝はそれを見て、楽しそうに瞳を揺らした。
「だって、見えないじゃん」
「見えます。離れてください」
七音は、耳朶まで熱くなるのを感じながら顔を背けた。
暁輝は全く気にした様子もなく、元の位置に戻って言った。
「続き」
「……はい」
七音は再びペンを握り直し、ノートに向き合った。
整然と並ぶ数式の横で、暁輝は七音の様子を時折気にかけながら、静かに英単語帳を捲り始めた。
和音を整えるように、二人の静かな呼吸が重なり、冬の練習室に満ちていった。
ともだちにシェアしよう!

