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◇小品 和声と方程式

 期末テスト直前。  普段なら放課後の校舎に響き渡る弦楽器の音色は影を潜め、弦楽部の練習室は奇妙な静寂に包まれていた。譜面台は隅に追いやられ、代わりに長机の上に広がっているのは、色褪せた教科書と書き込みだらけのノートだ。  七音は数学の問題集と格闘していた。シャープペンシルを動かしては消しゴムで消す、その繰り返し。  もう十分ほど、同じページから景色が変わっていない。 (……ここから、進まない)  公式を当てはめてみたものの、導き出される項は増えるばかりで、一向に答えに近づく気配がなかった。七音は小さく溜息をつき、項垂れる。  その時だった。 「なお」  頭上から降ってきた低い声に、七音は弾かれたように顔を上げた。  いつの間にか暁輝が机の向こう側に座り、七音の手元のノートをじっと覗き込んでいた。 「止まってるじゃん」 「……止まってます」  七音は観念したように、白紙に近い計算スペースを指し示した。 「ここから分からなくて」  暁輝は問題を一瞥し、短く「ああ」と零した。 「それは」  迷いのない動作で七音の手からペンを取り、ノートの余白にさらさらと数式を書き込んでいく。 「ここ」  ペン先が、七音が詰まった箇所を鋭く指した。 「この式、さっき変形しただろ」 「はい」 「そのときの条件、ここにも残ってる」  七音は目を細め、暁輝の流麗な筆跡を追いかけた。 「……あ」  絡まった糸が解けるような感覚。暁輝の手は止まらない。 「だから、ここで消える」  複雑怪奇に見えた式が、魔法のように一行のシンプルな形に整理された。  七音は思わず感嘆の声を漏らした。 「え、そういうこと?」 「そういうこと」  暁輝は事もなげに言い、ペンを返した。  さっきまで鉄壁の要塞のように思えた数式が、今は明確な筋道を持った「楽譜」のように見えてくる。 「すごいですね、先輩」  七音が素直に称賛すると、暁輝は柄にもなく少しだけ照れくさそうに肩をすくめた。 「普通だよ」 「いや、普通じゃないです」  七音は少し笑って付け加えた。 「さすが、理系学年三位」  暁輝はペンを指先で器用に一回転させた。 「まあね」  それから、顎で問題集を指す。 「次、やってみ」  促されるまま、七音は次の大問に挑んだ。  教わった論理を応用し、慎重に式を組み立てていく。だが、中盤で再びペン先が迷った。  暁輝が横から顔を寄せ、ノートを覗き込む。 「そこ。符号、逆」 「あ」  七音は慌てて書き直した。そのまま一気に計算を完遂し、答え合わせのページを捲る。  一致していた。七音の顔に自然と笑みが浮かぶ。 「できた」  暁輝は満足げに頷いた。 「うん」  そして、何気ない調子で言葉を繋いだ。 「なおさ、頭いいよ」  想定外の言葉に、七音は少し驚いて目を丸くした。 「そうですか?」 「うん」  暁輝は机に頬杖をつき、七音の横顔をじっと見つめる。 「音楽わかってるやつって、大体そうじゃない?」 「そうなんですか」 「そうだよ」  暁輝は悪戯っぽく笑った。  再び、シャーペンの芯が紙を削る音だけが響く沈黙が訪れる。  七音が集中して次の問題に取り掛かろうとした、その時。  暁輝の髪から香る微かなシャンプーの匂いが、鼻先をかすめた。 「……先輩」 「ん?」 「近いです」  暁輝は、七音の肩越しにノートを食い入るように覗き込んでいた。その距離は、吐息が触れそうなほどに詰まっている。 「そう?」 「めちゃくちゃ近いよ」  動揺のあまり、思わず敬語が抜けた。  暁輝はそれを見て、楽しそうに瞳を揺らした。 「だって、見えないじゃん」 「見えます。離れてください」  七音は、耳朶まで熱くなるのを感じながら顔を背けた。  暁輝は全く気にした様子もなく、元の位置に戻って言った。 「続き」 「……はい」  七音は再びペンを握り直し、ノートに向き合った。  整然と並ぶ数式の横で、暁輝は七音の様子を時折気にかけながら、静かに英単語帳を捲り始めた。    和音を整えるように、二人の静かな呼吸が重なり、冬の練習室に満ちていった。

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