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◇小品 歓喜の歌
師走のある日。
冬休みの足音が近づく放課後の部室で、暁輝が楽器の手入れをしながら唐突に切り出した。
「なお」
「はい」
「第九聴きにいくぞ」
七音は譜面をめくる手を止め、顔を上げた。
「……第九?」
「うん。年末だし。席取ったから」
暁輝は、夕飯の献立を伝えるような当たり前すぎる顔で言った。七音は一瞬沈黙し、あきれたように吐息をつく。
「……俺も行く前提なんですね」
暁輝は、悪びれる様子もなく眩しく笑った。
「そりゃそうでしょ」
◇
休日の駅前は、吐く息が白くなるほどの冷気にもかかわらず、人々で溢れかえっていた。
クリスマスを控えた街は、店先のイルミネーションや華やかな装飾に彩られ、どこか落ち着かない熱を帯びている。
待ち合わせ場所に向かうと、暁輝は雑踏の中でも一際目を引く佇まいで立っていた。ゆるめのシルエットのピーコートをさらりと着こなし、ただそこにいるだけで周囲の空気を整えてしまうような存在感。通り過ぎる女性たちが、隠しきれない視線を彼に送っている。
(……やっぱ目立つな、あの人)
あまりの「絵」になりすぎる光景に、七音は声をかけるタイミングを一瞬失い、少し離れたところで立ち止まってしまった。
すると、暁輝がふいに、吸い寄せられるようにこちらを向いた。
視線がぶつかる。暁輝は唇を尖らせて言った。
「なんで突っ立ってんの」
七音は少し苦笑して歩み寄る。
「気づいてたんですか」
「そりゃ。なおの視線、わかりやすい」
暁輝は肩をすくめ、迷いなく人混みの中を歩き出した。
二人は駅から少し離れたコンサートホールへ向かった。
年末恒例の『第九』。プログラムを手にした老若男女が、高揚感を胸に赤絨毯の敷かれたロビーへと吸い込まれていく。
「すごい人ですね」
「年末の風物詩だからね」
暁輝がポケットから二枚のチケットを取り出す。
「アマオケだけど、結構うまいらしい」
客席は隅々まで埋まっていた。舞台上には、出番を待つオーケストラの楽器群と、背後に控える巨大な合唱団。
やがて指揮者が現れ、静寂がホールを支配する。
第一楽章。地鳴りのような低弦の刻みから、宇宙が始まるような音が広がっていく。七音は思わず背筋を伸ばした。
隣の暁輝を見ると、彼はいつもの軽い表情を消し、真剣な眼差しで舞台を見据えていた。それは、一人の純粋な音楽家の顔だった。
そして第四楽章。
チェロとコントラバスが、地を這うような力強さであの旋律を奏で始める。
七音は、心臓を直接掴まれたような衝撃に息を呑んだ。
(……ここだ)
低弦が作った土壌の上に、歌声が、言葉が重なっていく。
『歓喜の歌』。
圧倒的な音の洪水が空間を埋め尽くし、隣で暁輝が、何かに満足したようにほんの少しだけ笑った。
◇
終演後、冷たい夜気が火照った頬に心地よい。
「どうだった」
暁輝の問いに、七音は余韻を反芻しながら答えた。
「……チェロ、かっこよかったです」
「そこなんだ?」
「そこです」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
帰り道、暁輝がふいに足を止めた。目の前には、格式高い楽器店。
「寄らない? ちょっと見るだけ」
店内に一歩足を踏み入れると、乾いた木と松脂の芳醇な香りが鼻をくすぐる。
暁輝は店員に断りを入れてヴァイオリンを一本手に取ると、軽く弓を動かした。
たった数音。それだけで、楽器のポテンシャルを引き出し、音の輪郭を鮮明にする。その圧倒的な「鳴らし方」に、店員が目を見開いた。七音はそれを見て、誇らしいような、可笑しいような気分で笑った。
(この人、やっぱり……)
音楽が、好きなのだ。
暁輝が振り返り、ヴァイオリンを顎で差した。
「なお。次はさ、俺らで第九やろ」
七音は少し驚き、それから呆れたように笑った。
「……本気で言ってます?」
「当たり前」
店を出ると、街はすっかり夜の帳に包まれていた。
二人はなんとなく駅とは反対の、川沿いの道へ折れた。水面には街灯が細長く揺れ、人通りは絶えて久しい。
静寂の中、暁輝がふいに囁いた。
「なお、歌って」
七音は何を言われているのかすぐにわかって、足を止めた。
「……歌詞覚えてないですよ」
「いいから。メロディだけで」
暁輝に促され、七音は迷いながらも、小さく息を吸った。
あの有名な旋律。
低すぎず、高すぎず、チェロのC線のような深みと、A線のような艶やかさを併せ持った柔らかな声。
鼻歌混じりのそれが、冬の静かな夜気にすっと溶け込んでいく。
暁輝はそれを聴きながら、ふっと破顔した。
「やっぱり」
七音が歌を止めて首を傾げる。
「なんですか」
「なお、歌いいね。ほんと……音、甘い」
七音は何も言えず、熱くなった顔を隠すように歩き出した。
「やっぱさ、俺らで第九やろうよ」
「無理ですよ。合唱いないじゃないですか」
暁輝はいたずらっぽく笑って言い切った。
「なおが歌えばいい」
「雑すぎません?」
冬の夜空に、二人の笑い声が白く溶けていく。
耳の奥ではまだ、あの歓喜の調べが、暖かな熱を持って鳴り続けていた。
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