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第一楽章 17小節目 不協和音

 昼休み。  校舎をつなぐ渡り廊下には、冬の低い陽光が白く、刺すように差し込んでいた。    七音が考え事をしたまま角を曲がった、その時だった。小柄な人影とぶつかりそうになり、あわてて足を止める。 「あ、すみません」  七音が声をかけると、控えめな女子の声が返ってきた。 「こっちこそ、前を見てなくて」  上履きの色は青。二年生の女子生徒だ。どこかで見覚えがある気がしたが、はっきりとした記憶はない。  七音が軽く頭を下げて通り過ぎようとした瞬間、「あ、待って」と呼び止められた。  振り返ると、彼女は戸惑ったような、それでいて決心したような複雑な表情で七音を見ていた。 「朝波くんだよね。弦楽部の一年の」 「……はい」 「あの、私……去年まで弦楽部にいて」  彼女は手すりに指を這わせ、視線を落とした。 「もう、辞めたんだけど」  七音の思考が一瞬、停止する。入部したての頃に耳にした、真偽の定かではない噂。暁輝と交際して、そして部を去ったという女子生徒。 「……そうなんですね」 「暁輝くんと、よく一緒にいるの見るよ」  彼女は少しだけ視線を泳がせ、遠くの校庭を見つめた。 「……あいつ、元気?」 「まあ、元気そうです。いつも通りというか」  彼女は自嘲気味に少しだけ笑った。 「暁輝くんさ、ヴァイオリンばっかりでしょ」 「そうですね。音楽のことになると、周りが見えてません」 「ふふ、変わってないんだ」  それから、彼女はふっと思い出したように言葉を継いだ。 「私、去年弦楽部にいた頃さ……一回も、一緒に弾いてくれなかったんだ」  七音は、予想外の告白に目を見開く。 「え……?」 「お願いしても、いつも“やだ”って。理由も教えてくれないの」  彼女は力なく肩をすくめた。 「でも、朝波くんとは弾くんでしょ」    七音の胸の奥に、言葉にできない熱がじんわりと生まれる。 「……はい。よく、合わせてもらってます」 「なんかさ」  彼女はぽつりと、自分自身に言い聞かせるように呟いた。 「私と付き合ってた頃より……朝波くんとの方が、ずっと距離が近い気がする」  七音は返す言葉が見つからず、黙り込んだ。彼女の言葉は、冷たい隙間風のように廊下を吹き抜けていく。 「暁輝くんってさ。人と音を合わせるの、本当はあんまり好きじゃないから。だから私、付き合ってるのに……どこか、ずっと遠い人みたいだった」  彼女は一転して、吹っ切れたような明るい笑みを浮かべた。 「まあ、ちょっと羨ましかっただけ。急に呼び止めてごめんね」  彼女が歩き出す。すれ違いざま、彼女は足を止めずに言った。 「暁輝くんの音、すごいでしょ」 「……はい」 「……私も、好きなんだ」  パタパタと小気味よい足音を残して、彼女は去っていった。  廊下に一人残された七音は、窓の外の寒空を見つめた。胸の奥に、小さな、けれど鋭い棘のような感覚が突き刺さっていた。    ◇    その日の放課後。  部活動はオフだったが、七音は楽譜の整理で部室に寄り、少し遅れて校門を出た。  冬の空気は一層冷え込み、吐き出す息が真っ白に染まる。  ふと視線を上げると、校門の少し先に見覚えのある背中があった。  長い脚に、どこか気だるげでラフな歩き方。 (……先輩)  声をかけようとして、七音の喉が固まった。    暁輝の隣には、華やかな雰囲気の女子生徒がいた。二年生だろうか。彼女は楽しそうに暁輝の腕にじゃれつき、時折肩を寄せ合っている。  暁輝は笑っていた。  部室で見せる、音楽に魂を削るような峻烈な表情とは違う。どこか軽薄で、ひどく甘い、知らない男の顔だった。  女子の高い声が風に乗って流れてくる。 「暁輝くんってさー、意外と……」  暁輝が何かを返し、二人は顔を見合わせて笑う。そのまま信号を渡り、坂の下にある駅の方角へと消えていった。  七音は、石像のように立ち尽くしたまま、その背中が小さくなるのを見ていた。胸の奥が、鉛を流し込まれたように重くなる。 (別に。ただの友達かもしれないし)  自分に言い聞かせようとするが、昼休みに先輩がぽつりと残した言葉が、呪文のように頭の中で反芻される。  ――暁輝くんは、欲を発散できれば誰でもいいのかもね。  七音はゆっくりと、重い足取りで歩き出した。  冬の空は急速に夜の色に塗り替えられ、乾いた靴音だけが虚しく響く。  暁輝の、かつての修羅場の噂。  旧校舎で重ねた、あの奇跡のような合奏。  俺にだけ弾かせたいと言った、あの熱い独占欲。    すべてが混ざり合い、歪んだ不協和音となって耳の奥で鳴り続けている。 (……俺には関係ない。ただの、部活の先輩なんだから)  そう呟いてみたものの、胸に刺さった小さな棘は、抜けるどころかさらに深く、心の柔らかい場所を突き刺していた。

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