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第一楽章 18小節目 即興のデュエット
部活終わりの帰り道。駅へと続く緩やかな坂道を、七音と暁輝は肩を並べて歩いていた。冬の夜気は鋭く、街灯の下を通るたび、二人の吐き出す息が白く濁っては消えていく。
「さっきの第三楽章さ」
「はい」
「フレーズの終わりの、あそこ」
暁輝は楽器を持たない右手を空中に掲げ、弓の軌道をなぞるように動かした。
「もう少しだけ、粘って引っ張りたいんだよね」
七音は、その指先の動きから音のニュアンスを読み取り、深く頷く。
「でも、やりすぎると全体のテンポが重くなりますよね」
「そう、そこが難しいんだよな」
暁輝が屈託なく笑う。
二人の間に、短い沈黙が流れた。
七音の脳裏には、先日の昼休みに聞いたあの元恋人の言葉が、消えない耳鳴りのように居座っていた。
『昂りを発散できれば誰でもいいのかもね』
校門で見かけた、楽しげに女子と連れ立って歩く暁輝の、演奏の時とは違う軽い笑顔。
七音が重い心地で視線を落とした、その時だった。
「やば。弾きたい」
暁輝が唐突に、渇望するような声を出した。七音は顔を上げる。
「え?」
「今。今すぐ弾きたい」
暁輝の瞳は、冗談めかしたところなど微塵もないほど真剣だった。
七音は一瞬迷い、それから衝動に突き動かされるように口を開いた。
「うちに来ますか?」
暁輝が足を止める。
「え」
「ここから歩いてすぐなんです。……楽器、ありますよ」
七音が少し照れくさそうに付け加えると、暁輝は瞬きを一つしただけで即答した。
「行く」
七音の家は、駅へと続く大通りから一本入った、静かな住宅街の中にあった。
玄関の鍵を開け、暁輝を招き入れる。
「お邪魔します」
暁輝は礼儀正しく靴を揃え、七音の後に続いた。
廊下の突き当たりにある、重厚な防音扉。七音がそれを押し開けると、そこには外の世界とは隔絶された「音の聖域」が広がっていた。
中央に鎮座する黒光りしたグランドピアノ。壁一面を埋め尽くす楽譜と、膨大な数のCDやレコード。隅には何本かのギターが立てかけられている。
暁輝は圧倒されたように立ち尽くし、部屋を見渡した。
「……すご」
「父親の趣味です」
「ああ、ミュージシャンだもんね。アサケンさん」
「まあ、そうですね」
七音は曖昧に濁し、ピアノの蓋を開けた。
暁輝が鍵盤に指を触れ、一つだけ音を鳴らす。柔らかく豊かな残響が部屋に満ちる。
「なお、なんか弾いてよ」
「急ですね」
七音は苦笑しながらも椅子に座り、鍵盤に指を置いた。
選び取ったのはショパン。ゆったりとしたエチュードの旋律が、夜の防音室に溶け出していく。暁輝は壁に背を預け、目を閉じてその音を聴いていた。
曲が終わり、最後の一音が消える。
「先輩も弾いてくださいよ」
七音が席を譲ろうとすると、暁輝は苦笑して手を振った。
「俺、ピアノはそんなに上手くないから」
「いいから。早く」
暁輝は観念したように椅子に腰掛け、鍵盤を探るように指を動かし始めた。
紡ぎ出されたのは、聴き覚えのある、けれど切ないほどに美しい旋律。
(……これ)
それは、七音がノートの端に書き留めていた自作曲の断片だった。暁輝はそれに、繊細でどこか都会的な即興の和音を添えていく。
「いい曲じゃん」
演奏を止め、暁輝が振り返る。
「……それ、俺が作ってるやつです。未完成の」
「そう。新曲? 前、部室でちょっと弾いてただろ」
七音は目を見開いた。
「聴いてたんですか」
「もちろん。いいメロディだったからさ」
あっさりと言い放たれた言葉に、七音の胸の奥がじんわりと熱くなる。
暁輝はぽんと明るいコードを鳴らした。
「続き、メロディつけてよ。なお、得意じゃん」
「急すぎますよ」
「いいから、ほら」
暁輝がリズムを刻み、和音を繋いでいく。七音は隣に座り、導かれるように高音域の鍵盤に指を滑らせた。
そっと音を置く。暁輝がそれに呼応してコードを変える。
会話をするように、二人の即興が重なり合い、連弾へと変わっていく。不思議なほどに呼吸が合う。迷いがない。
「やっぱり、なおと音を作るの、楽しいな」
暁輝が鍵盤を見つめたまま、心底楽しそうに笑った。
その瞬間、七音の心に刺さっていたあの「棘」が、さらさらと砂のように崩れていくのを感じた。
この人は、いつだって音楽のことしか話していない。今、隣で熱を帯びた音を鳴らしているこの男の頭の中にあるのは、純粋な「音」そのものだ。
元交際相手だという先輩や、通学路で見かけた女子のことなど、今のこの空間には一欠片も存在していない。
曲が終わり、静寂が戻る。
「なお。新曲も、俺に弾かせて」
「……いいですね。一緒にやりましょう」
二人は顔を見合わせ、自然と笑みを交わした。
帰り際、ヴァイオリンをケースにしまいながら、暁輝が名残惜しそうに呟いた。
「帰りたくないなあ。ここ、落ち着く」
七音は言葉を返さず、ただ自分の部屋を振り返った。
ピアノ、ギター、譜面。
ずっと当たり前にあった風景が、暁輝という色を通すことで、今は宝の山のように輝いて見えた。
駅まで見送る道すがら、冬の夜の住宅街を二人の靴音が等間隔で響く。
「さっきの新曲さ、後半を転調させたらもっと盛り上がりそうじゃない?」
「ああ、確かにそうかも。やってみます」
「うん、次来た時に聴かせてよ」
暁輝の「次」という言葉に、七音は少しだけ頬を緩めた。
「また来る前提なんですね」
「うん。なおの家、気に入った」
駅の改札が近づき、人の流れが速くなる。
「なお」
暁輝が、少しだけ真面目な温度で言った。
「お前はさ。音楽、めちゃくちゃ誠実にやってきてるよな」
「……家にあっただけですよ」
「それでも」
暁輝は一歩先に進んで振り返り、眩しいものを見るように目を細めた。
「なおは本当にいい音を作るよ」
七音は何も言えず、ただ前を見つめた。
「先輩」
「ん?」
「……さっきの即興、楽しかったです」
暁輝が破顔する。
「だろ。なおと弾くの、好きだよ」
今度は、心臓が跳ねても戸惑わなかった。
この人は、嘘をつけない人だ。音楽に対しても、そして俺に対しても。
「じゃあ、また明日」
改札に消えようとした暁輝が、ふと思い出したように振り返って手を振った。
「なお!次は学校からチェロ持って帰ってきてよ。家で合奏しよう」
「家でアンサンブルですか?」
「絶対楽しいって!」
軽やかな笑い声を残して、暁輝は雑踏の中へ消えていった。
七音はその背中を、いつまでも目で追っていた。
胸に刺さっていた棘は、もうどこにも見当たらなかった。
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