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◇小品 雪の音

 朝、目を覚ましてカーテンを引いた瞬間、七音は思わず息を呑んだ。  視界のすべてが、白く塗り潰されていた。  雪だった。  微塵のような雪が、天から音もなく降り注いでいる。  見慣れた家々の屋根も、アスファルトの道路も、うっすらと産毛のような白に覆われ始めていた。窓の外の景色は、いつもよりずっと情報の密度が低く、そして驚くほど静かだった。    ◇    学校に辿り着く頃には、雪は数センチの厚みを持って積もっていた。校庭の土は見えず、校舎の窓の外はどこまでも白い。  昼休み、廊下はいつになくざわついていた。一部の路線で運休や遅延が出始めているらしい。 「部活、どうなるんだろ」 「これ以上降ったら、帰れなくなるかも」  そんな不安と期待の入り混じった声が、あちこちから聞こえてくる。    放課後、部室へ顔を出すと、顧問が告げた。 「今日は自由参加とします。遠方の者はできるだけ早く下校すること」  集まった部員は、いつもの半分にも満たなかった。練習室はガランとしていて、いつもより広く、どこか他人の部屋のように冷え冷えとしている。    七音は、せっかく来たのだからと軽く曲をさらうことに決め、チェロの準備を始めた。その時、背後から声をかけられた。 「なお」  振り返ると、暁輝がヴァイオリンケースを手に立っていた。 「はい」 「ちょっと来て」  七音は、吸い寄せられるようにチェロを抱えて立ち上がった。    旧校舎三階、いつもの廊下の奥。  窓の外は、一面の雪景色だった。  視界のすべてが淡い白のフィルターを通したようで、色彩が失われている。音が雪に吸い込まれていくせいで、校舎の中は耳が痛くなるほどの静寂に満ちていた。    暁輝が窓を数センチだけ開けた。  鋭く冷たい空気が滑り込み、七音の頬を撫でる。 「寒くないですか」 「ちょっとだけ。でも、このくらいがいい」  暁輝はヴァイオリンを構え、ゆっくりと弓を動かした。  奏でられたのは、夜の帳を下ろすような、甘美で物悲しい旋律。柔らかく、どこまでも長く伸びる音。    七音は、その呼吸に合わせるようにチェロを構えた。  弦の上に弓を置く。低い音が、祈るように静かに滑り出した。  チェロが主旋律を引き継ぎ、ゆったりとしたフレーズを紡ぐ。その上に、暁輝のヴァイオリンが絹の布を重ねるようにそっと寄り添った。  二つの音が縺れ合い、誰もいない廊下の奥へと流れていく。  けれど、その響きはいつもよりずっと柔らかかった。音の輪郭が、雪の結晶に縁取られたように丸みを帯びている。  外の世界のノイズがすべて雪に殺されているからこそ、弦の振動だけが、純粋な光のように浮かび上がっていた。  旋律が、消え入るように終わる。  弓が止まり、静寂が再び部屋を支配した。  暁輝が、確認するように呟いた。 「な?」  七音は、小さく、けれど深く頷く。 「……音、違いますね。すごく、澄んで聞こえる」 「だろ」  暁輝は愛しげに窓の外を見やった。 「俺、雪って好きなんだよ。音が、やわらかくなるから」  雪は止む気配もなく、しんしんと降り続けている。 「雪の日の音、覚えといたほうがいいよ」  七音は少し首を傾げた。 「なんでですか」  暁輝は、いたずらっぽく、けれど確信を持って笑った。 「曲になるから。湧き上がるだろ?」  窓の外の雪、静まり返った空、真っ白な校庭、そして今ここに残る残響。  すべてが同じ空気の中に溶け込んでいる。 「なおの曲ってさ」  暁輝が七音の瞳を覗き込む。 「こういう音だよな」  七音は、不意を突かれて息を呑んだ。 「……そうですか」 「うん。静かで、でもちゃんと前に進む。冬の朝の匂いがする音だ」  七音は何も言えなかった。胸の奥に、言葉にならない温かな塊が居座り、熱を放っている。  暁輝は静かに窓を閉めた。 「……帰ろうか。これ以上降ると、本当に閉じ込められる」    二人で校舎を出ると、世界はさらに白さを増していた。  雪の積もった校庭を歩く。  足音が柔らかい。きゅっ、きゅっと、雪が小気味よいリズムを刻む。 「今度さ、雪の曲作れよ」  暁輝が歩きながら言った。 「考えときます。難しそうですけど」  七音が少し笑うと、暁輝は弾んだ声で続けた。 「そしたら、一番に俺に弾かせて」  七音は、その言葉を胸に刻みつけるように頷いた。 「……はい」  雪はまだ、静かに降り続いていた。  さっき奏でた、あのノクターンの旋律のように。 ──── 作中曲 ボロディン 弦楽四重奏第2番 ノクターン

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