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第一楽章 19小節目 同じ呼吸

 春一番が吹き荒れたとニュースは告げていたが、三月の夕暮れ時は依然として冬の名残のような冷たさを孕んでいる。    放課後の練習室。  無機質に並んだ譜面台の向こう側で、弦楽器の残響が幾重にも重なり、静かに空気を震わせていた。  定期演奏会は、いよいよ明日に迫っている。  それは二年生にとっての引退公演であり、同時に一つの区切りを意味していた。  つまり――暁輝がこの弦楽部のコンマスとして、七音の隣で弾く最後の舞台だ。 「今日はここまで。明日は全力でいこう」  部長の号令とともに、緊張の糸がふっと解ける。  椅子を引く音、楽器ケースの金具が弾ける音。部員たちの間には、やり遂げた充足感と、明日への不安、そして隠しきれない寂寥感が入り混じっていた。 「ついに明日かあ」 「先輩たちがいなくなるなんて、実感湧かないよ」  七音はチェロを片付けながら、視線の端で暁輝を捉えた。  暁輝は、嵐の前の静けさを体現したかのように淡々としていた。柔らかなクロスでヴァイオリンを丁寧に磨き上げるその手つきは、ただの日常のひとコマのように落ち着き払っている。 (……なんで、そんなに平気なんだ)  七音の胸の奥で、小さな、けれど鋭い焦燥が疼いた。  部員たちが一人、また一人と去り、練習室にだんだんと静寂が戻っていく。  気がつけば、残っているのは二人だけだった。  暁輝がふいに顔を上げ、影の落ち始めた室内で七音を見つめた。 「ちょっと弾く?」  七音は少しだけ呆れたように、けれど愛おしさを込めて笑う。 「先輩、いつもそれですね」 「最後だから」  暁輝がヴァイオリンを肩に乗せ、顎を当てる。七音も導かれるように椅子に深く座り直し、チェロを抱えた。 「明日やるやつ。……ワルツ」  暁輝の弓が、羽のように軽やかに弦を撫でた。  三拍子の優雅なリズムが、静かな部屋に流れ始める。ヴァイオリンが甘く、切なく歌い出し、そこへ七音のチェロが深い溜息のような低音を重ねた。  滑らかな円を描くようなワルツ。  弦が震え、音が重なり、空間を満たしていく。  七音は、吸い寄せられるように暁輝のボウイングに目を向けた。  その瞬間。 (……あ)  重なった。  意識して合わせたわけではない。けれど、肺に空気を吸い込むタイミング、弦に弓を置く圧力、フレーズの終わりに残す余韻。  そのすべてが、寸分の狂いもなくぴたりと一致した。  二人の境界が曖昧になり、一つの生き物のように音がまっすぐ前へと流れ出す。練習室のよどんだ空気が、ふっと透明に透き通るような感覚。  暁輝が一瞬だけ七音を振り返り、悪戯っぽく、けれど優しく目を細めて笑った。  曲が終わり、最後の一音が静寂に吸い込まれていく。  七音は弓を膝に置き、ぽつりと溢した。 「先輩」 「ん?」 「明日で……引退ですね」  暁輝は「そうだな」と短く息を吐いた。あまりに感慨のない、素っ気ない声。  七音は、たまらず少しだけ声を荒らげた。 「……寂しくないんですか」 「何が?」 「部活ですよ。明日でもう、最後なのに」  暁輝は少しだけ考え込むような仕草を見せ、それから静かに断言した。 「別に、終わるわけじゃないだろ」 「え?」 「音楽は、続くし」  暁輝は事もなげに笑う。その瞳には、部活動という枠組みを超えた、もっと遠い場所を見つめる光が宿っていた。  七音は黙り込み、自分のチェロを見つめた。そして、こらえきれずに本音を零す。 「……俺は。先輩と弾けなくなるの、寂しいです」  暁輝の表情が、一瞬だけ驚きに強張った。  部屋が静まり返る。暁輝はしばらく何も言わず、ただ七音の言葉の余韻を味わうように佇んでいた。  やがて、彼はもう一度ヴァイオリンを構えた。 「なお。もう一回」  弓が動く。ワルツの旋律。  さっきよりも少しだけ速く、情熱を孕んだテンポ。七音のチェロが、必死に、けれど歓喜を持ってそれを追いかける。  また、呼吸が揃う。  まるで一つの巨大な楽器になったかのように、音が力強く前へ進む。  演奏が止まる。  暁輝が、楽器を構えたまま言った。 「誰が『弾かなくなる』なんて言ったんだよ」 「え……?」 「だから、続くんだって。これからも」  暁輝はさらりと言い、それから少しだけ厳格な、師のような目で七音を射抜いた。 「逃げるなよ」 「……え?」 「音楽から」  それだけだった。  七音はチェロの指板をぎゅっと握りしめる。胸の奥に、暴力的なほどの熱が広がっていくのを感じた。  明日、暁輝は弦楽部を去る。  けれど、七音は確信していた。 (終わらないんだ)  この人と奏でる音は、この先も、ずっと。  窓の外、昼と夜が溶け合う薄明の空が、果てしなくどこまでも続いていた。   ──── 作中曲 チャイコフスキー 弦楽セレナーデ ハ長調 第2楽章(ワルツ)

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