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第一楽章 20小節目 音のはじまる場所
会場の県民ホールは、想像していたよりもずっと広大だった。
無数の照明を反射して飴色に光るステージの床。客席は緩やかな傾斜を描きながら、数百の座席が闇の奥へと吸い込まれるように続いていた。
七音はチェロケースを抱きしめたまま、その入り口で立ち尽くす。
「……でかい」
後ろから、クスクスと楽しげな笑い声がした。
「ホールなんだから当たり前でしょ」
振り向くと、ヴィオラのあかり先輩が肩を揺らしている。
「ボロい練習室じゃないんだから。ほら、ビビってないで行きな」
七音は小さく息を吐き、ステージへと足を踏み出した。
一歩ごとに、床の硬さが靴底に伝わってくる。天井は気の遠くなるほど高く、まだ客席は空だというのに、空気の密度が練習室とは根本的に違っていた。
譜面台を立て、指定の位置に椅子を置く。チェロを構え、エンドピンを床に突き立てると、
――コン。
乾いた小さな音が、ホールの隅々まで明瞭に響き渡った。
(……響く)
ただのノイズさえも、意思を持った音のように遠くへ飛んでいく。
◇
リハーサルが始まった。
暁輝がヴァイオリンを肩に乗せ、静かに弓を上げる。次の瞬間、放たれた音は矢のようにまっすぐ、ホールの最後列まで伸びていった。
七音も後に続く。チェロの低音を響かせようとした、その時。
(……あれ)
音が、遅れて返ってくる。
反響の豊かさが仇となり、フレーズの輪郭がわずかにぼやける。周囲の音に惑わされ、弓を置くタイミングが掴めない。
暁輝が、ぴたりと弓を止めた。
「ストップ」
客席で見守る先生も頷く。
「ホールは響くからね。自分に返ってくる音じゃなくて、もっと遠くを見なさい」
暁輝が七音を振り返る。
「なお、焦るな」
「……はい」
暁輝はヴァイオリンを軽く鳴らし、細く鋭い音で空気を切り裂いた。
「音、飛ばせ」
七音は深く息を吸い込み、弦の芯を捉えるように弓を置いた。チェロの重厚な低音が、今度は迷いなくホールを駆け抜け、奥壁に当たって豊かな残響となって戻ってきた。
暁輝が満足そうに、小さく頷く。
「それだ」
◇
本番は正午からだった。
客席は次第に熱を帯び、保護者、生徒、そして引退する後輩の姿を追うOB・OGたちで埋め尽くされた。
開演のブザーが鳴る。
重厚なクラシックから、軽快なポップスのアレンジまで。プログラムが進むにつれ、会場の拍手は大きくなっていく。演奏は完璧と言っていいほど順調だった。
それでも、七音の心はざわついたままだった。
(……最後だ)
このプログラムが終われば、暁輝はコンマスの座を降りる。
舞台袖。最終曲を前に、部員たちは楽器を抱え、神聖な儀式を待つように静まり返っていた。
暁輝がふいに、隣の七音にだけ聞こえる声で言った。
「なお」
「はい」
「音、ちゃんと聴けよ。……お前の音が、どこまで届いてるかよく分かるから」
暁輝はわずかに笑い、そのまま前を見据えた。
――続いて、最後の曲です。
司会の声が響き、割れんばかりの拍手の中、部員たちがステージへ進み出る。
眩い照明。観客の期待感。広大な空間。
七音は椅子に座り、ゆっくりとチェロを構えた。
チャイコフスキー『弦楽セレナーデ』。
暁輝がヴァイオリンを肩に乗せ、弓を上げる直前、ほんのわずかに息を吸った。
その刹那、全員の意識が暁輝の一点に収束する。
弓が動いた。
ヴァイオリンの旋律が、ホールの奥まで光の筋のように伸びていく。
七音も、その光を支えるように弓を動かした。チェロの低音が加わり、音楽が、命を得たように立体的に膨れ上がる。
今度は迷わなかった。自分の放った音が、空気を震わせ、観客の胸に届くのが確信できた。
フレーズが重なり、呼吸が重なり、弦楽部という一つの巨大な楽器が鳴り響く。
その極限の集中の中で、ふっと、世界が変わった。
ざわめいていたはずの客席が、いつの間にか完璧な静寂に支配されている。
ホールにあるのは、ただ、自分たちが紡ぎ出す音楽だけ。
七音はふと顔を上げた。
暁輝が、こちらを見ていた。
ほんの一瞬、視線が交差する。暁輝が、子供のように無邪気に、けれど誇らしげに小さく笑った。
(……ああ)
呼吸が、完全に溶け合う。
弓の速度も、音の圧力も、すべてが必然として揃っていく。
(楽しい。……なんて、楽しいんだろう)
音楽が、重力から解放されて自由に流れていく。
最後の和音が、壮大な余韻を残してホールの空気に溶け込んだ。
一瞬の、真空のような静寂。
そして――客席が爆発した。
地鳴りのような拍手。多くの観客が立ち上がり、惜しみない称賛を送る。スタンディングオベーション。
カーテンコール。並んで礼をする部員たち。
七音は横に立つ暁輝を見る。
――これが、最後。
そう思った、その時だった。
拍手は鳴り止むどころか、一定のリズムを刻む手拍子へと変わった。
部長が、興奮を抑えきれない声で囁いた。
「……アンコール!」
◇
再びステージへ。
暁輝が振り返り、部員たちを見渡す。その顔には、いつものあの「いたずらっぽい笑み」が浮かんでいた。
「リベルタンゴ」
短く、鋭く、彼は告げた。
ピアソラの傑作。
次の瞬間、暁輝の弓が狂おしいほど鋭く振り下ろされた。
リズムが跳ね、ヴァイオリンが悲鳴のような情熱を奏でる。弦が弾けるように響き、タンゴのビートがステージを駆け抜ける。
暁輝のヴァイオリンが、まるで魂を燃やすように踊っている。
照明の下で、彼の音だけが絶対的な中心として君臨していた。
七音はチェロの弦を激しく弾きながら、確信した。
(この人、本当に……心から楽しんでる)
リズムが加速し、昂揚感が極限に達する。
七音も、気づけば笑っていた。
(……最高だ)
人生で今、この瞬間が、一番音楽を愛している。
最後のフレーズが鋭く切り上がり、弓が止まった。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、ホール全体が揺れるような、咆哮にも似た歓声が湧き上がった。
弦楽部の定期演奏会は、熱狂の中に幕を閉じた。
◇
夕方。打ち上げの店へと向かう道すがら。
興奮の冷めない部員たちの騒ぎ声を背後に聞きながら、七音は少し遅れて歩いていた。
「なお」
不意に、後ろから呼び止められた。
振り向くと、暁輝がまっすぐにこちらを見つめて立っていた。
彼は少しの間、言葉を探すように沈黙し、それから意を決したように言った。
「あのときのキス」
七音の心臓が跳ねる。顔が、一気に熱くなった。
「勢いじゃないよ」
「……え?」
暁輝がゆっくりと、距離を詰める。
「好きだから」
そして、静かに唇を寄せた。
一度目は、羽が触れるような短い誓い。
けれど二度目のキスは、確かな熱と、切ないほどの恋心を孕んでいた。
唇に触れた柔らかさが、音楽よりも確かな現実として、七音の記憶に深く刻み込まれていった。
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