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◇小品 なおの写真②ねこ
【第一楽章 夏休みのエピソード】
夏休みの部活は、想像以上にきつかった。
冷房が存在しない古い練習室は、湿った熱気がこもる蒸し風呂のようだ。
弓を持つ右手は絶えず汗ばみ、薄い制服のシャツはすぐに背中へと張りつく。
ようやく合奏が一段落し、束の間の休憩時間が告げられた。
「暑い……」
誰かの力ない呟きが、静まり返った室内を漂う。
七音は、熱を持ったチェロから手を離し、弓を置いた。
隣でヴァイオリンを置いていた暁輝が、短く声をかける。
「なお、水」
「行きましょう」
二人で練習室を抜け出し、校舎の外へ出る。蝉時雨が降り注ぐ中、体育館の横にある自動販売機へと向かった。
七音は冷たい水のペットボトルを買い、キャップを捻る。喉を鳴らして一口飲むと、染み渡るような冷たさが体内の熱をわずかに静めてくれた。
その時だった。
「にゃあ」
足元から、頼りない声がした。
七音が顔を向けると、日陰になったベンチの上に一匹の黒猫が座っていた。金色の瞳でじっとこちらを見つめ、もう一度短く鳴く。
七音は、吸い寄せられるように歩み寄った。
「どうしたの」
目線を合わせるように、その場に膝をつく。
すると、黒猫は迷うことなくすっと近寄ってきた。そして、当たり前のような顔をして、七音の膝の上に飛び乗った。
「……お」
ずっしりとした重み。毛並みは驚くほどきれいで、どうやら相当人に慣れているらしい。
七音は、指先でその柔らかな背をそっと撫でた。
「かわいい」
黒猫は満足げに目を細め、喉をごろごろと鳴らし始める。
しばらく無心でその温もりを愛でていると、不意に、乾いた音が鼓膜を叩いた。
七音が顔を上げると、少し離れた場所に暁輝が立っていた。
手にしたスマホのレンズが、真っ直ぐにこちらを向いている。
「なんで撮ってんの?」
予期せぬ行動に、思わず素の口調が漏れた。
けれど、暁輝は全く気にする様子もなく指を動かす。
「いいじゃん」
また、規則的なシャッター音が続いた。
パシャ。パシャ。
「先輩」
「はい」
「やめてください」
七音が困惑混じりに制止するが、暁輝はスマホの画面に視線を落とし、撮り終えたばかりの画像をじっと見つめている。
それから、心の底から得心したように、満足げに呟いた。
「かわいい」
七音は一瞬、言葉を失う。
「……猫が?」
暁輝は、その問いには答えなかった。
ただ、赤ん坊を慈しむような眼差しで、もう一度画面の中の写真を見つめるだけだ。
七音は、かける言葉が見つからず、少しだけ困ったように視線を落とした。
膝の上では、黒猫が相変わらず幸せそうに丸まり、静かな寝息を立て始めていた。
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