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◇小品 人間チューナーなお
【第一楽章 入部してから間もないころのエピソード】
旧校舎三階、廊下の突き当たり。
定位置となった窓際で、七音は一人チェロを構え、微細な音のズレを調整していた。
弓を深く引き、A線を鳴らす。
続けてD線。
特に迷う素振りも見せず、左手でペグをわずかに回す。
隣でヴァイオリンの弦を拭いていた暁輝が、その様子をじっと眺めていた。
「なお」
「はい」
「チューナーは?」
七音は一瞬、動作を止めて首を傾げた。そういえば、ケースから取り出してさえいない。
「……使ってないです」
「……」
暁輝が無言で近づいてきて、七音のチェロのスクロールにクリップ式のチューナーを挟み込んだ。
「ちょっと鳴らしてみて」
七音がA線を一弾きする。暁輝は液晶画面の動きを凝視し、すぐに眉を跳ね上げた。
「……ぴったり。全く狂ってない」
七音は不思議そうに瞬きをする。
「それが何か?」
「いや、普通は耳だけでそこまで追い込めないだろ」
暁輝が呆れたように笑う。七音は軽く肩をすくめた。
「ピアノやってたからですかね。ズレてると、気持ち悪いのがわかるっていうか」
暁輝は面白そうに目を輝かせ、自分のヴァイオリンを構えた。
「じゃあ、これ。何ヘルツだと思う?」
唐突なクイズ。暁輝がA線を鳴らす。
七音はわずかに耳を澄ませ、記憶の中の基準音と照らし合わせた。
「442……いや、441?」
暁輝の弓が止まる。数秒の沈黙の後、彼は噴き出すように笑った。
「冗談で聞いたんだけど。なんでわかんの」
「……なんとなくです」
困り顔の七音に、暁輝は至極楽しそうに告げた。
「なお、お前便利すぎる」
◇
数日後の合奏前。部室は、各パートが一斉に音を出すチューニングの喧騒に包まれていた。
A……A……A……。
あちこちで重なる基準音の中、暁輝は椅子に深く腰掛け、ヴァイオリンを肩に乗せたまま隣の七音を振り返った。
「なお」
「はい」
「これ、合ってる?」
暁輝がA線を長く鳴らす。七音は作業の手を止め、その一音に神経を集中させた。
「……ほんの少しだけ、高いです」
「マジで?」
「多分」
暁輝がペグを指先でミリ単位で動かす。
「……今」
七音の合図で、暁輝が再び弓を動かした。
A。
暁輝は満足げに口角を上げた。
「本当だ。完璧」
それを見ていた紗矢先輩が、楽器を抱えたまま吹き出した。
「ちょっと、何それ。暁輝くん、朝波くんをチューナー代わりにしてるの?」
あかり先輩も笑いながら加わる。
「人間チューナーじゃん。朝波くんヤバすぎ」
暁輝は当然のことのように胸を張った。
「だろ? 便利なんだよ、なお」
「いや、朝波くんは精密機器じゃないからね」
紗矢先輩のツッコミもどこ吹く風、暁輝はさらに別の弦を鳴らす。
「なお、これどう?」
「……ほんの少し、低いです」
「これくらい?」
「あ、今。そこです」
暁輝は調整を終えた音を確認し、深く頷いた。
「いい音」
呆れ顔の紗矢先輩が追い打ちをかける。
「暁輝くんさ、自分のチューナー買いなよ」
「持ってるよ」
「じゃあ使いなよ」
「なおの方が早いし、正確なんだよ」
七音は思わず苦笑いを漏らし、暁輝に向き直った。
「先輩」
「ん?」
「俺、機械じゃないですから。電池で動いてるわけじゃないですよ」
暁輝はふっと優しく目を細め、少しだけ声を低くした。
「知ってる。でも、俺はなおの音で合わせたいんだ」
その真っ直ぐすぎる言葉に、七音は返す言葉を失う。
すると、横でニヤニヤと眺めていた紗矢先輩が手を叩いた。
「あ、いいこと思いついた! 今度から『Aください』じゃなくて、『朝波ください』って言えばいいんじゃない?」
一瞬の静寂の後、部室中に爆笑が広がった。
「それ最高!」
「採用!」
「……よくないですよ」
七音は即座に否定したが、暁輝だけは真面目な顔で頷いていた。
「名案だな」
「よくないですって!」
「はい、練習始めるよー!」
部長の声が響き、部員たちが一斉に居住まいを正す。
暁輝はすっと立ち上がり、ヴァイオリンを構えて弓を上げた。そして、演奏に入る直前、悪戯っぽく七音を振り返った。
「なお、あとでまた貸してよ」
「……何をですか」
暁輝は、ほのかに甘い笑みを浮かべて囁いた。
「耳」
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