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◇小品 暁輝さんあるある①②
①【アイドル】
昼休み。
旧校舎の一階には、文化系の部室が軒を連ねている。
開け放たれた窓からは、湿り気を帯びた初夏の風が通り抜け、廊下に置かれた譜面台の端を小さく揺らしていた。
弦楽部の部室前で、七音は愛用のチェロを構えていた。
その隣では、暁輝が窓際に立ち、ヴァイオリンを軽く鳴らしている。ただの音出しのはずなのだが、この男が弾くと、音色がやけに艶っぽく廊下に響き渡る。
廊下の奥から、騒がしい足音が近づいてきた。
移動教室の途中か、あるいは別の部活動の生徒たちか。その集団が部室の前を通りかかった、その時だった。
「暁輝くーん!」
一人が、弾んだ声を上げる。
暁輝は弾く手を止めない。慣れた手つきで弓を動かし続けながら、視線だけをちらっと音の主へ向けた。
「かっこいい!」
さらに別の黄色い声が重なる。
「今日もビジュいいね!」
女子たちが顔を見合わせて笑う。
すると、その後ろから男子の野太い声が、負けじと続いた。
「暁輝くん結婚してー!」
静かだった廊下が、一瞬にしてライブ会場のような熱気に包まれる。
七音は、呆気にとられて弓を止めた。
(……なんだこれ)
暁輝はようやく弓を止めると、事もなげに、眩しいほど爽やかににこっと笑った。
「ありがと」
ひらりと軽く手を振る。ファンサービスと呼ぶにはあまりに自然体な、それだけの動作。
そして何事もなかったかのように再びヴァイオリンを構え、旋律を紡ぎ始める。騒いでいた生徒たちはそれで十分に満足したのか、賑やかに笑いながら去っていった。
廊下には、またいつもの静寂が戻ってくる。
七音は、隣の超然とした先輩を凝視した。
「……慣れてますね」
暁輝は少し首を傾げる。
「なにが?」
「今の」
暁輝は少しだけ考え、それから可笑しそうにふっと笑った。
「あー。たまにある」
弓を軽く振り、彼はまたヴァイオリンを鳴らし始めた。どこか楽しそうに。
七音は、再び弓を構えながら心の中で毒づく。
(たまに? ……いや、すごく慣れてる)
この人、やっぱりどこか感覚がおかしい。
【おまけ:回数】
放課後の練習。
旧校舎一階の部室には、西日とともに柔らかな風が入り込んでいる。
七音のチェロと暁輝のヴァイオリンが重なり合っていると、廊下を通り過ぎる足音が聞こえた。誰かがちらりとこちらを覗き込んだが、今日は何も言わずに静かに通り過ぎていく。
その時、ヴィオラのあかり先輩が譜面をめくりながら、ぽつりと言った。
「今日ないね」
七音が顔を上げる。
「……何がですか?」
すると、隣でチューニングをしていた2ndヴァイオリンの紗矢先輩も、深く頷いた。
「ヤジ」
七音は、先日の昼休みの光景を思い出しながら尋ねる。
「さっきの人ですか?」
「うん」
あかり先輩が、今日の献立でも話すような口調で言った。
「多いと三回くらいあるよ」
七音は思わず弓を落としそうになった。
(たまにどころか、毎日じゃん)
その時だった。
廊下の奥から、待ってましたと言わんばかりの声が飛び込んでくる。
「暁輝くん!」
女子の声だ。
「よ!色男!」
さらに別の声。
「愛してるよー!」
驚く七音を余所に、弦楽部の女子部員たちは手元の楽器から顔も上げない。
紗矢先輩が時計を見もせず、静かに言った。
「はい一回」
あかり先輩が事務的に続ける。
「あと二回くらい来るね」
七音は、その異常な光景に呆然としていた。
(カウントしてる……)
肝心の暁輝はといえば。
流麗なソナタを奏でながら、廊下に向かって、一度だけ軽く手を振っただけだった。
②【ゲリラライブ】
昼休み。
旧校舎一階、中庭に面した長い廊下。
開け放たれた窓から眩い正午の光が差し込み、埃の粒子がダンスを踊るような明るい風が通り抜けていく。
暁輝は、いつものように窓際に立ち、ヴァイオリンを弾いていた。
そこに深い意図はない。ただ、弾きたいから弾く。その極めて個人的な欲求が、四角い廊下を音楽で満たしていく。
七音は、少し離れた影になる場所でチェロを構えていた。
弦の音が、コンクリートの壁に反射して心地よく広がる。この場所は、驚くほどよく響くのだ。
しばらくすると、廊下を歩いていた女子生徒が一人、吸い寄せられるように足を止めた。
それから、もう一人。
気づけば三人。
さらに増えて、いつの間にか五、六人の人だかりが廊下の壁際に整然と並んでいた。
誰も喋らない。
ただ立ち止まり、息を潜めて、流麗な旋律に耳を傾けている。
七音は、低い持続音を弾きながら思った。
(……まただ)
当の暁輝は、背後に生じた「客席」をまったく気にする素振りも見せない。いつも通り、自分の内側にある音をなぞるように、自由に弓を動かしている。
一曲が終わった。
さざなみのような、小さな拍手が起こる。
暁輝は、照れるでもなく軽く笑った。
「ありがと」
それだけ言うと、また何事もなかったかのようにヴァイオリンを構える。廊下の“臨時観客席”は、解散することなくそのまま残っていた。
七音は弓を置き、呆れたように息を吐く。
(ライブかよ)
◇
また、とある昼休みのこと。
同じ旧校舎一階の廊下。中庭から入り込む初夏の風が、練習中の弦の音をやわらかく遠くへ運んでいく。
暁輝は窓際に立ち、旋律を奏でていた。七音は少し離れた場所で、時折チェロの低音を添える。
特に譜面を合わせているわけではない。暁輝が好きに弾き、七音が気まぐれに支える。いつもの、とりとめのない音出しだった。
そのとき。
廊下の奥から、弦楽器ではない別の音が混ざり込んできた。
クラリネット。
乾いた、軽いタンギングで、暁輝のフレーズに応えるような短い旋律が返ってくる。
七音は思わず顔を上げた。
(……え?)
廊下の角に、吹奏楽部の男子生徒が立っていた。クラリネットを構えたまま、こちらをじっと見ている。
暁輝は弾くのを止めなかった。
むしろ、待っていましたと言わんばかりに少し楽しそうに旋律を変化させる。クラリネットがそれを鮮やかに追いかける。
フレーズが重なり、即席の掛け合いが始まった。
暁輝のヴァイオリンが奔放に旋律を伸ばせば、クラリネットがその隙間に滑り込むように軽やかな装飾音を入れる。
事前の打ち合わせなど一切ない。なのに、二人の音はまるで長年連れ添った仲のように、自然に、会話みたいに絡み合っていく。
七音はチェロを持ったまま、その場で固まっていた。
(なんで)
音楽は途切れることなく続いていく。しばらくして、一つの区切りとなるフレーズが美しく着地した。
クラリネットの男子が、満足そうに笑う。
「楽しいですね」
暁輝も、弦を拭いながら笑った。
「ね」
会話はそれだけだった。
吹奏楽部の男子は軽く手を振ると、楽器を抱えて廊下の向こうへ戻っていった。
再び、廊下には静けさが戻る。
七音は、信じられないものを見る目で暁輝を見た。
「……先輩」
「ん?」
「なんで合奏成立してるんですか」
暁輝は少し考え、当然の真理を述べるように言った。
「音楽だから?」
七音はしばらく言葉を失い、それから重い弓を構え直した。
(やっぱり、この人変だ……)
同時に、そんな「変な人」の奏でる音に、どうしようもなく惹かれている自分にも気づかされるのだった。
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