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◇小品 七音くんあるある①楽しいこと

 放課後。  本校舎から旧校舎へと続く、長く静かな渡り廊下。  七音は、教科書の入った鞄を肩にかけ、チェロの待つ部室へと向かって歩いていた。 「朝波くん」  背後から、呼び止める声がした。  振り向くと、そこには同じクラスの女子生徒が立っていた。  指先を落ち着かなげに動かし、少し緊張した面持ちで七音を見つめている。 「ちょっといい?」 「うん」  通行の邪魔にならないよう、廊下の端に寄る。  切り出される言葉を待つ、わずかな沈黙。  セミの声が遠くで激しく鳴り響き、止まった空気を震わせている。  女子生徒は意を決したように、まっすぐ七音の瞳を見た。 「朝波くんってさ、付き合ってる人いる?」  七音は、動じることなく少しだけ考える。 「いないよ」  肯定の返答に、彼女の頬が一気に赤く染まった。 「じゃあさ」  一歩、距離を詰める。 「私、どうかな」  七音は驚かなかった。ただ、申し訳なさを滲ませ、少し困ったように笑う。 「ごめん」  拒絶の言葉に、女子生徒は一瞬だけ悲しげに目を伏せた。けれど、すぐに強がりのような笑みを浮かべる。 「だよね、ごめんね急に」 「ううん」  短い言葉をいくつか交わし、彼女は逃げるように教室の方へ戻っていった。  独り残された七音が、ふと気配を感じて振り返る。  太い柱の陰に、聞き耳を立てていたらしい人影があった。  暁輝だった。  彼は腕を組み、面白がるような、それでいてどこか鋭い眼差しでそこに立っていた。  目が合うと、彼はゆっくりと間を詰めてくる。 「モテるじゃん」  七音は、淡々と肩をすくめた。 「……先輩ほどでは」  暁輝は、唇の端を吊り上げて笑う。 「付き合うの?」 「いや」 「ふーん」  暁輝の視線が、探るように七音の顔をなぞった。 「今までは?」  七音は、過去の記憶を辿るように少し考える。 「まあ」  執着のない、軽い調子で付け加えた。 「人並みに」  暁輝の眉が、ほんの少しだけ動く。  彼は何かを確かめるように、慎重に言葉を選んで聞いた。 「なんで振ったの?」  七音は、自分でもその理由を確かめるように、少しだけ考えた。  それから、確かな熱を込めて言う。 「いま」  ふっと、柔らかな笑みがこぼれる。 「音楽が楽しいから」  暁輝は何も言わなかった。  ただ、射抜くような瞳で七音を見つめ続けている。  やがて、喉の奥で小さく、満足そうに笑った。 「そっか」  それだけを呟く。  そして、弾むような足取りで歩き出した。 「練習しよう、なお」  七音は、その背中を追いかけるように少し遅れて歩き出す。    その日の練習。  隣で鳴り響く暁輝のヴァイオリンは、いつにも増して艶やかで、大変機嫌の良い音色を奏でていた。

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