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◇小品 松脂の匂い
【第一楽章 季節は秋〜冬くらい】
放課後の弦楽部。
張り詰めた合奏が終わりを告げると、部員たちは安堵の吐息とともに、それぞれの楽器を片付け始めていた。
柔らかな布が弓の木をなぞる摩擦音。楽器ケースの金属製バックルが噛み合う、硬質な音。窓の外では秋の短い陽光が、オレンジ色の残光を惜しむように室内に投げ入れている。
七音は、愛用のチェロの弓を手に取り、白い布で丁寧に毛を拭っていた。練習のたびに塗り重ねられ、弓の毛に残った松脂の微細な粉を、慈しむように落としていく。
その時だった。
「なお」
不意に名前を呼ばれ、七音は顔を上げた。
いつの間にか、暁輝がすぐ目と鼻の先に立っていた。
暁輝は、測りかねるような表情で少しだけ首を傾げる。
「手」
「え?」
七音は、反射的に自分の手元を見つめた。
「どうしました?」
暁輝は言葉を返さず、七音の手首を羽のように軽く取った。
「……先輩?」
戸惑う七音を余所に、暁輝は至近距離でその指先を注視している。
ついさっきまで弓を握り込み、弦と格闘していた指。そこには、飛び散った松脂の粉が薄く白く、星屑のように付着していた。
「松脂ついてる」
そう言って、暁輝は自分の指先で、七音の皮膚に残る粉を軽く払う。その所作があまりに近く、七音は一瞬だけ体を固くした。
暁輝は、冬の気配を含んだ風のように何気ない顔で言う。
「この匂い、好きなんだよね」
七音は、ぱちくりと瞬きをした。
「松脂ですか?」
「うん」
暁輝は七音の指先をそっと持ち上げた。そのまま自分の顔へと近づけ、ふっと悪戯っぽく笑う。
「ほら」
鼻をかすめたのは、針葉樹の樹液が凝縮されたような、ほんのり甘く、それでいて鋭い香調。
松脂の匂い。弦を操る者にとっては、皮膚の一部のような、あまりに当たり前すぎる日常の匂い。
でも。
「なおの手からする」
暁輝は、噛み締めるようにそう言った。
七音は、その言葉の響きに一瞬だけ言葉を失う。
「……先輩」
「ん?」
「それ、普通です」
暁輝は、肩の力を抜いて少し笑う。
「そう?」
それから、まるで譜面の一節を口ずさむような自然さで、さらっと付け加えた。
「でも俺さ、なおの音とこの匂い、同じ感じがする」
「……?」
「分かる?」
抽象的すぎる感性に、七音は困った顔になる。
「分かりません」
暁輝は、その拒絶さえも心地よいリズムであるかのように楽しそうだった。
「そっか」
そう言って、ようやく拘束を解くように手を離した。
七音が弓を持ち直すと、指先にはまだ微かに松脂の感触が残っている。彼は無意識に、その指を小さく握り込んだ。
暁輝が、帰り支度をしながら何気なく言った。
「なお」
「はい」
「今度弾くとき、もうちょい松脂つけて」
「……なんでですか」
暁輝は、少年のように無邪気に笑う。
「匂い強くなるから」
七音は、本気で呆れたような顔をした。
「理由おかしいです」
暁輝は、軽やかに肩をすくめる。
「でも音もよくなる」
奏者としてぐうの音も出ない正論を突きつけられ、七音は黙るしかなかった。
◇
また、別の日。
冬の入り口、凍てつくような夜の練習が終わり、他の部員たちは皆、家路についてしまった。
静まり返った部室には、七音と暁輝の二人だけが残されている。
窓の外は漆黒の闇に塗りつぶされ、室内には譜面台を照らすスタンドライトの柔らかな黄金色の光だけが落ちていた。
七音はチェロを抱え、納得のいかないフレーズを黙々とさらっていた。
ゆっくりとした旋律を何度か繰り返していると、隣で椅子を引く乾いた音がした。暁輝が自分の椅子を持ってきて、すぐ隣に腰を下ろしたのだ。
七音が、予感に従って演奏を止める。
その瞬間を待っていたかのように、暁輝が自然な動作で七音の手を取った。
そして、躊躇いもなく自らの口元に近づける。
くん、と小さく、慈しむように匂いを嗅ぐ。
「また良い匂いさせてる」
七音は、諦念を込めて小さくため息をついた。
まただ。最近の暁輝は、隙を見つけてはこうして七音の手の匂いを確認してくる。
あまりにも当たり前の顔で、音楽の一部であるかのようにやるので、もう止める気にもならなくなっていた。
でも、今日は少しだけ、この一方的な空気を揺らしてみたくなった。
七音は、暁輝の空いている方の手を、反対の手でしっかりと取った。
そのまま、逃がさないように自分の顔の近くへ引き寄せる。
「先輩も」
吐息が届く距離まで顔を近づける。
「同じ匂いしますよ」
松脂の匂い。
弦を震わせる者なら、誰の指先にも染み付いている、共通の徴 。
七音はそのまま視線をあげ、至近距離で暁輝の目をじっと見つめ返した。
暁輝は、不意を突かれたように一瞬だけ目を丸くした。
それから、堪えきれないといった風に、声を出しでお腹を抱えて笑った。
「なおにやられた!」
静かな夜の部室に、弾むような楽しげな笑い声が響き渡る。
スタンドライトの柔らかな光に照らされて、離れがたく手を取り合う二人の影が、古い床の上に長く、深く伸びていた。
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